一章 十二節


 薄ぼやけた意識の中、肌を斬りつける寒さに瞼を開けた。


 辺り一面が光に溢れている。強い光はアメリアの瞳を突き刺す。固く瞳を閉じる。眼が痛い。頭が痛い。寒くて毛穴が痛い。あらゆる痛みに覚醒した。


 状況を確認しようと薄眼を開くと白いタイル貼りの壁が視界に入った。成る程。光が白いタイルに反射して眼に刺さったのか。


 アメリアは眼を徐々に開き、光に慣らした。辺りは一面タイル貼りの壁で囲われていた。タイルには黒ずんだシミがついている。頭を正面に向けると天井が見える。スティール製のピンチハンガーが吊るされていた。ピンチには人形の手足や煙草程の大きさの黒ずんだ何かが吊るされていた。アメリアは目を凝らす。それは腐って干涸びた肉が貼り付いた指の骨だった。赤子をあやすメリーのようにピンチハンガーはカラカラと乾いた音を立てる。側ではエアコンが大量の冷気を吐き出していた。


 吐き気を覚えるが堪えた。怯えている場合ではない。眉をしかめたアメリアは逃げようと体に力を入れた。しかし腹や四肢を何かで固定されているようで動けない。背に固い板のようなものが当たっている。手首や足首の自由が利かない。アメリアは唯一動かす事が出来た頭を起こし胸や粟立った腕を見下ろす。裸の胸が見えた。手首は黒い革バンドで拘束されていた。どうやら服を脱がされ両手首を縛られて台のようなものに寝かされ固定されているらしい。おそらく足首も固定されているだろう。彼女は右手で板に触れた。感触は包帯越しだ。包帯は解かれていないらしい。


「変態」アメリアは溜め息を吐き独りごちた。


 頭を動かしタイル貼りの部屋を眺める。窓一つ無い。どうやら地下室のようだ。鉄製のドアの側にはバスタブより一回りも大きい白い冷凍庫が鎮座していた。黒ずんだ血糊がこびり付き、中からノイズが響く。きっと切断した遺体を保管しているのだろう。タイル貼りの床も黒ずんだ血で汚れていた。冷凍庫の隣には大きなスーツケースがあった。


 ストーカーの上に殺人幽霊なんて最悪。


 真っ裸にして冷房ガンガンつけた部屋に放置するなんて何のつもりよ、パンツまで脱がされてお腹冷えちゃうじゃない。まだ生きているんだからブランケットくらい掛けておきなさいよ。紳士じゃないわね!


 アメリアは鼻を鳴らした。


 随分と気が高ぶってる。コンラッドと対峙した時はイポリトを想う程臆病になっていたが今は怒りに燃えていた。どうやってこの状況を打開しようか。解体されて冷凍庫に突っ込まれた被害女性達の魂も探して回収しなければならない。きっとここに居る筈だ。


 青白く光る瞳をぐるりと回して思案する。すると階段を下る音がした。コンラッドだろう。


 鉄製のドアを解錠し半裸のコンラッドが地下室に入る。


「やあ」


「……個性的なもてなしをするのね」睨んで射殺したい気持ちを押さえ、アメリアは彼を見遣る。


「怯えて泣いていると思ったら元気なようで安心したよ。僕は元気なアメリアが大好きだ」コンラッドは肉薄して微笑む。


 アメリアは鼻を鳴らす。


「まだ殺すつもりはないんでしょ? あたしがあなたの立場だったら既に殺しているもの」


「うん。まだ殺さないよ。ファックしてから殺す」


「屍姦じゃダメな訳?」


 コンラッドはアメリアの首筋から鎖骨、胸を人差し指でなぞる。


「屍姦じゃ意味が無いんだ。君の魂を僕の欲望で隅々まで汚したい。苦痛と甘い疼きに堪え切れず慈悲を請う君の泣き顔を見てみたい。折角僕が使う体だもの。快楽に溺れる時にどんなに煽情的な表情をするか見ておきたい」


 アメリアは唇を噛み締めた。


「壊れた物を見たいんじゃない。壊れる様を見たいんだ」コンラッドは囁く。アメリアの耳朶に彼の湿っぽい唇が触れた。


「『これから僕が使う体』って? やっぱりこの前の言動通り、あたしになりたい訳?」アメリアは横目で睨む。


 コンラッドは微笑み、指を豊かな胸から離した。


「察しがいいね。既に気付いていると思うけど僕は死んでる。つまり幽霊。他の動物に入った霊達や物に取り憑いた霊達みたいに容れ物が欲しいんだ。美しい容れ物が欲しいんだ。君はとても温かいから冷たい僕が君に入ると火傷するからね。こうやって冷ましてるんだ」


「それで女性達を殺したの?」


「そう。街で見かけたり店に来たりした女性を殺した。……皆、殺したては綺麗なんだ。彼女達の遺体に入って暫く生活してた。だけど時間が経つに連れ腐敗するんだ。冷たい僕が入っても腐敗する。冷凍庫に入れたら冷凍焼けを起すし、違う遺体同士綺麗な部分を繋ぎ合わせてもやがては腐り落ちる。公園に捨て建設中の建物に捨てたよ。そしていつまでも腐らない美しい死体を探した。しかし都合良く転がっている訳がない。僕は人形のように永久に美しい死体を作る事にしたんだ」


 アメリアは顔をしかめた。思考回路がぶっ飛んでやがる。


「……じゃああたしの正体を知っているのね?」


「勿論。君達死神は役目を終えて死んでも腐敗しない。だから火葬しなければならない。僕はそこに眼を付けた。……半年前、街で君を見かけた。君は闇のように美しい長い髪を翻して死神の特徴である青白く光る瞳を細め、笑っていた。視線の先には痩躯の頼り無さそうな死神の男が居た。一目惚れだったよ。この娘が欲しいって。この娘になりたいって。やがて君は独りで街を歩くようになった。嬉しかったよ、あの男と別れたんだね」コンラッドはアメリアの胸に刻まれた翼竜の形の痣を愛しげに撫でる。


「彼はあたしの父さんよ」


「どうでもいいよ。君の側から男が消えたらそれでいい。しかし一番嬉しかったのは君がノーラに来てくれた事だ。天啓だと想った。君を僕の物にするしかないと想ったんだ。嬉しかったよ。間近で美しい君を眺められるなんて。だけどまた新たに君の側に男が湧いた! 二人も!」コンラッドはアメリアの胸を想い切り掴む。節くれ立った指の間から豊かな肉が溢れる。


 苦痛に表情を歪ませるがアメリアは堪える。


「……それでネイサンに罪を被せたのね?」


「うん、そうなんだ。君は僕と話すよりもあいつと話している方が楽しそうだったから。地図片手に刃物屋を探したよ。店を探し当てたのは夕方だった。夜中、僕は出直したよ。彼が眠っている間、色々と細工をした。そしたら捜査の手がかりが少なかった警察が喰い付いた」指の力を抜いたコンラッドはアメリアの胸を労るように撫でた。


 アメリアは眉を顰めた。きっと昨日、ベランダに出ていたユーリエは通りに居るコンラッドを見かけたんだ。親にも等しい制作者のコンラッドの後を追いかけたら道に迷ったんだろう。ネイサンの店にイポリトを案内したのは、きっと地図に書き込まれたマークを覚えていたのだろう。


「……あたしと同居してる厳つい男はどうするつもり?」


「どうでもいいよ。淫売な君が心を許すのはネイサンだけだろ? 僕が許せないのはネイサンと君だ。……これで殺人事件も解決したし君の周りから男は消えた。遠くから僕は君を見ていたんだよ? 僕だけをその一等星のように燃える瞳で見つめて欲しいって」コンラッドはアメリアに肉薄し瞳を覗き込む。


「……情熱的ね」


 コンラッドは微笑むと顔を離す。


「霊体って素晴らしい。意識を向ければ壁も通り抜けられるし姿も消せる。それに君の胸を掴めるし君の肌に舌を這わす事だって出来る。生前出来た事も出来なかった事もどっちも出来るんだ! ……でも僕は女性に入りたい。老いもしない腐敗もしない、永遠に若く美しいアメリアって言う容れ物に入りたいんだ」


「……殺した女性達の魂はどうしたの?」


「彼女達も腐り行く器に入っていた可哀想な魂達だ。丁重に扱っているよ。……僕は人形作家だ。分かるだろ?」


「人形に閉じ込めたって訳ね?」


「いいアイディアだろ? 永遠に美しいままでいられる。死神の君なら分かるだろ? この郊外のアトリエで彼女達を大切に保管しているんだ。君も今日からここの子だ」


 アメリアは唇を噛み締めた。


 コンラッドはスーツケースへ歩み寄ると解錠し、何かを引っ張り出す。彼はアメリアの前でビニール袋に包まれたそれを掲げた。


 青白い前腕が二肢、入っていた。どちらも右腕で手首から下が爛れている。一肢は男のようで手の甲が骨張っていた。もう一肢は華奢で女性のようだ。以前ハデスが話していたタナトスとヒュプノスの夫婦の遺体から切断された物だろう。


「手に入れるのは苦労したよ。でもこれさえあれば死神の君に死を与え、美しい体から魂を引き剥がせる」コンラッドは嫌な笑みを浮かべる。


 コンラッドを見据えたアメリアはローレンスの言葉を想い出した。座学で死神の禁忌事項を学んだ時の言葉だ。


 ──リストに載ってない人や他の死神を爛れた手で触るのは禁忌だからね。禁忌を犯すと死ぬよりも恐ろしい目に遭うからね。


 死神の手を使って死神の掟を破ろうとするコンラッドには罰が下されるだろう。犯され死ぬのは惜しい。しかしコンラッドが死よりも恐ろしい目に遭うなら彼に殺された女性達の恨みは少し晴れるかもしれない。


 しかし殺されて帰島して両親やランゲルハンス達と顔を合わせるのは嫌だ。まだチャンスはある筈だ。チャンスは作る物だと母から教わった。まずは冷静にならなくては。


 アメリアは溜め息を吐き、恐怖心を押さえ込み心拍を落ち着かせた。隙を作って体の自由を取り戻すしかない。


 覚悟を決めたアメリアは瞳を閉じた。


「そう。……観念するしかなさそうね」


「やけに物わかりが良いね」コンラッドは笑顔を崩した。


 疑念を抱かせてはならない。コンラッドはあたしを好き者だと信じている。アメリアはイポリトがリビングで抱いていた売春婦を想い出した。彼女の真似をして品を作りコンラッドを見上げる。


「……どの道殺されるなら観念するわ。それにあなたは慈悲深いみたいだし」


「……慈悲深い?」


「殺す前にファックするんでしょ? あたしだって最期のファックもせずに死ぬのは惜しいもの。それに美しい男のモノなら迎え入れたいわ」アメリアは煽情的な視線をコンラッドに送った。


 コンラッドは微笑み、肉薄すると彼女の唇を唇で塞いだ。


 アメリアは表情を崩さずに心の中で舌打ちした。


 最悪。幼い頃『カエルの王様』の絵本読んでカエルとキスした時よりも最悪。うわ。舌が入って来た。冷たっ。きもっ。前歯舐めるな変態。ってか歯をこじ開けんな。最悪。吸うな馬鹿野郎。舌噛み千切りてぇ。口蓋舐めるなクソが。


 しかし頑に拒んでいては芝居がバレる。アメリアは不承不承、コンラッドの舌に舌を絡めた。


 コンラッドはアメリアの唇から顔を離した。涎が糸を引く。アメリアの頬は怒りで上気し、瞳は涙で潤んでいた。しかし彼はそれを陶酔していると捉えた。コンラッドは愛しいアメリアを見つめつつ台に跨がると、彼女に覆い被さり唇を啄ばんだ。


 地下室に水音が響く。コンラッドは舌先を彼女のおとがいから白い首筋、鎖骨へと蛇のように這わせた。


 舌先が豊かな胸の先端に届きそうになると、艶かしい溜め息を吐きアメリアは請う。


「……ねぇ。お願い」


 コンラッドは舌先を柔肌に触れさせたまま彼女へ視線をやった。


「手枷と足枷、どっちか解いて。このままじゃあなたに愛撫出来ないし、脚を開いてあなたのモノを奥深くへ受け入れられないもの」


 コンラッドは柔肌から舌を離すと胸の周りを手で弄ぶ。


「解いたら君は逃げるだろう?」


「その気になってるのに逃げると思う?」アメリアは蠱惑な瞳でコンラッドに問い返す。


 コンラッドは微笑む。


「……分かった。左手と右脚の拘束は解こう」


「ありがとう」


 コンラッドは右脚の拘束を解いた。そしてジーンズのジッパーを下ろすとアメリアに覆い被さった。


 心の中でアメリアは舌打ちした。左手外してねぇぞクソが。話が違ぇぞ。


「……左手は? あなたのモノに触れたいの」アメリアは鼻に掛かった声で問う。


 コンラッドは苦笑する。


「やっぱり手が自由になると恐いからね」


 アメリアは瞳を潤ませコンラッドを見つめた。自由になった右脚を折り曲げ、向こう脛で彼の膨らんだ股間を擦った。


「……ねぇ。お願い」アメリアは彼の耳朶に吐息を掛け、艶かしい声で囁く。


 コンラッドはキスを落とし微笑むと、左手の拘束を解いた。


 拘束が解かれた瞬間、アメリアは眼の色を変え自分に覆い被さるコンラッドを右脚で蹴り上げる。腹を蹴り飛ばされ台から落ちたコンラッドはタイルの床に手を突き噎せた。アメリアはその隙に二、三言詠唱し犬歯で手を傷つけると血を吹き付ける。すると血から赤い瞳を煌煌と光らせた小さな遣い魔が数匹現れた。


「行け! 捕縛しろ!」アメリアは遣い魔に命じた。


 遣い魔達は立ち上がろうとしたコンラッドに飛びつく。彼の視界を遣い魔達は遮る。コンラッドは振り払う。しかし遣い魔達は執念深くつきまとった。アメリアは彼が遣い魔に気を取られている内に右手と左足の拘束を解く。


 島で暮らしていた時に彼女はランゲルハンスから魔術を習っていた。師よりは使える魔術は遥かに少ない。しかし遣い魔を呼び寄せ手伝わせる程度なら出来た。


 科学が社会を牛耳る現世ではハデスによって魔術の使用を禁じられていた。しかし命の危機にある状況下ではルールもクソもあったもんじゃない。叱られ罰せられるならコンラッドを倒し女性達の魂を回収した後だ。


 台を飛び降りたアメリアは右手の包帯を解き、姿を透過させ鉄製のドアをすり抜け階段を駆け上がる。


「待て!」遣い魔を振り払ったコンラッドは死神夫婦の手を取ると後を追いかけた。


 アメリアは階段を駆け上がると術を詠唱しつつ魂が閉じ込められた人形を探しまわった。きっと室内に居る筈だ。しかし必要最低限の家具が置かれただけで、人形製作の道具や裁縫道具が乱雑にデスクや棚に並んでいた。人形はない。


 術を詠唱し切ると彼女の爛れた右手には一振りの剣が現れた。


「君は嘘つきだね。逃げるつもりだったじゃないか」


 背後にはいつの間にかコンラッドが佇んでいた。


 姿を透過したのに見えているのか。アメリアは瞬時に間合いを取り、剣を構える。


「逃げるつもりは毛頭ないわ」


 コンラッドは微笑む。


「剣とは……随分古風な武器を僕に向けるんだね。アクション女優みたいな君なら銃がお似合いなのに」


「一人に対して向ける一振りの剣の方が誠実で好きよ。死神の仕事だって一人に対して真摯に心を傾けられるし。……人形は何処?」アメリアは彼の鈍色の瞳を見据える。


「教えないよ。君が逃げない理由はそれだろう」


「じゃああなたを回収して人形も回収するわ!」


 アメリアは剣を突く。しかし霊体のコンラッドは姿を霧散させて剣先を交わした。身軽な彼女はコンラッドの動きに合わせて剣を突き振り下ろす。しかしその都度コンラッドは姿を霧散させ体を交わす。


 先程まで寒くて粟立っていたアメリアの毛穴から沸々と汗が湧き出る。


 埒が明かない。こんな時、剣の師だったフォスフォロならどうするだろうか。アメリアは唇を噛み締めるが気持ちが焦って思考出来ない。落ち着かなければ。剣先を向けつつも心を鎮めようとするが焦るばかりだ。


 そんな彼女をコンラッドは嘲笑った。


「剣技の腕が良くても無駄だよ。僕は霊体だもの。そこらの気体にしかなれない低俗な霊体とは違う。自由に気体や固体に変化出来る。気体になっている方が体力の消耗が少ないから都合がいい」コンラッドは首筋から流れる汗を拭う。


 アメリアは眉をしかめる。


「それは」


「良い事を聞いちまったもんだ!」イポリトがアメリアの声を遮った。


 ドアを蹴破りイポリトが現れる。赤いライダースジャケットを羽織った彼の肩には髪がぐちゃぐちゃになったユーリエが居た。


「よう」イポリトは片手を挙げた。


「遅い!」アメリアは剣を構えつつイポリトを眼の端で見遣った。


「あんだぁ? 折角イケメンヒーローが来たのに随分な言い方するじゃねぇか」


「もっと早く来なさいよ馬鹿!」


「悪いな。俺も独自に捜査してネイサンとコンラッドの二人に当たりを付けていたんだ。間抜けのネイサンが捕まった今、コンラッドが霊だと確信した。しかし決定的な証拠がねぇ。だからお前を泳がせて喰い付いた所を釣り上げようと家を出たんだ」


「どうしてここだと?」


「車で移動するコンラッドを尾行つけようとしたら三階のベランダからユーリエがまた落ちてな。キャッチしたらヅラが落ちて直すのに時間が掛かってな。ロストしたんだよ。あれよあれよと地獄耳の届かない範囲に行っちまったもんだからユーリエに道案内を頼んだんだ」イポリトは豪快に笑った。


 アメリアは溜め息を吐いた。緊張感の欠片もない男だ。


「イポリト、手伝って」


「おうよ」イポリトは鼻をほじると鼻クソをコンラッドに向けて飛ばした。


 それを除けたコンラッドは首筋の汗を拭いつつイポリトを見据えた。


「……君もアメリアを抱いたのか?」


 イポリトは口笛を吹きつつ、道具が山積したデスクを引っ掻き回す。デスクからリモコンを見つけるとエアコンに向けスイッチを押した。エアコンは勢い良く温風を吐き出した。


 引っ掻き回されバランスを崩した道具は雪崩を起した。するとコンラッドが奪ったパンドラの匣が姿を現した。アメリアは眼を光らせた。


 イポリトは鼻をほじる。


「よっぽどお前が好きなんだなコンラッドは。お前素っ裸だし、コンラッドはパンツの下のナニをバッキバキに勃たせてるし、邪魔しに来ない方が良かったか? 一発ヤるなら待っててやってもいいぜ?」


「馬鹿! レディはそんな事しない!」アメリアはパンドラの匣を横目で見遣った。クソ。イポリトがパンドラの匣を知っていればコンラッドを匣へ取り込めるのに。


「あ? 『このままじゃあなたに愛撫出来ないし、脚を開いてあなたのモノを奥深くへ受け入れられないもの』なんてレディが言う台詞かよ。ヤリチンおっさんびっくりで滾るわ」イポリトは豪快に笑った。


「うるさい! 聞き耳立てるな!」媚態を聞かれたアメリアは怒りに任せコンラッドに剣を振った。


 コンラッドは剣を除ける。しかし姿を霧散させられずに剣を肩に受けた。剣を受けたものの霊体なので傷一つついていない。顔をしかめた彼は首筋から流れる汗を拭う。暑い所為か肩を上下に動かし荒い呼吸する。死神の夫婦の腕が彼の手から滑り落ちる。ビニールに包まれた二肢の腕は重い音を立てる。


「クソがっ」剣ではどうしようもない。アメリアは剣を捨てた。術を解かれた剣は霧散する。


「しかし効いてるようだな」リモコンを握ったイポリトは温風を勢い良く吐き出すエアコンの噴き出し口を眺めた。


 アメリアは横目でイポリトを睨む。


「クソ暑い時期に暖房なんて点けるな! 裸でも暑いわよ!」


 体をふらつかせたコンラッドは汗を拭いつつアメリアへ向かう。アメリアはリュウから習った武術の構えをとる。しかしコンラッドは彼女の前を通り過ぎると、イポリトからリモコンを奪おうとした。


 悪戯っぽい笑みを浮かべたイポリトはアメリアにリモコンを放った。アメリアは驚いたがリモコンをキャッチした。


 息を荒げたコンラッドは徐に振り返ると脚をもつれさせつつアメリアへ近付く。彼女はゾンビ映画を想い出した。


「ヘイ! パス! エセ処女、パースッ!」イポリトは手を叩き、注意を自分に向ける。怒ったアメリアは彼の顔面へ向けリモコンをブン投げた。


 イポリトはリモコンをキャッチした。するとアメリアに纏わり付いていた動きの鈍いコンラッドはイポリトの方へ向かった。


 霊は暑いのが苦手なのか? アメリアは再びイポリトから投げられたリモコンをキャッチすると、床に叩き付け、踏みつけ壊した。イポリトはゲラゲラと腹を抱えて笑う。コンラッドは恨みがましそうな眼を向けた。


 アメリアは鼻を鳴らした。


 床に放っていた死神の夫婦の腕にコンラッドは手を伸ばす。しかしふらついていた彼に限界が来た。気体の霊体は突如液体と化し、水風船が割れて弾けたように床を濡らす。


 驚いたアメリアはイポリトを見上げた。


 イポリトは鼻を鳴らす。


「結露って知ってるか? 冬の寒い日、雨降ってねーのに温い室内の窓に水滴が付くアレだ。気体ってのは水分を含んでいてな、それが温まると液体に変わんだ」


「……ハンスおじさんから『科学』で習ったわ。三態でしょ? 固体、液体、気体がそれぞれ相対して変化するやつでしょ」


「おう。霊体も同じようなモンだ。ただ一つ冷たい霊体が厄介なのは自らの意志で固体になったり気体になったり出来るって事だ。ただ液体になってもメリットねぇから慣れてねぇんだ。とっとと容器に入れて帰るぞ」


「……やるじゃん。イポリトって頭いいのね」アメリアはイポリトを見上げ微笑んだ。


 イポリトは鼻を鳴らす。


「場数が違ぇんだよ。俺だってクソじじいの十三の苦役に付き添わされて霊の回収もしたわ。じじいとは違って勘はねぇけどノウハウはあるわ。少しは俺を頼りな、真面目処女」


「……うん。そうする」


 アメリアは微笑み、溜め息を吐く。しかし力が抜けバランスを崩した。彼女はイポリトの胸に寄りかかった。青ざめた顔をして瞳を閉じたアメリアの頭をイポリトは掻き撫でた。


「よく今まで独りで気張ったな」イポリトは穏やかな声で労った。


「……うん。でもイポリトがいなければ捕獲は無理だった。殺されてたかも。……ありがとう、助けに来てくれて」


 イポリトはアメリアの両肩を掴み、彼女を立たせた。そしてライダースジャケットを脱ぐと彼女に羽織らせた。


「安心させてやりたいがあと少しだけ気張れ。霊体の回収と被害者達の魂の回収、ハデスへの報告が残ってる。泣き言は後でたっぷり聞いてやる」


 頷いたアメリアは瞳を開く。すると彼の肩に乗り心配そうに見つめるユーリエと目が合う。ユーリエはイポリトの肩に隠れた。


 眉を下げたアメリアが口を開こうとするとイポリトが制す。


「叱ってやるなや。お前にどやされるのを覚悟で助けようとベランダから落下したんだ。人生に例外は付きモンだ」


 アメリアは開いた口を徐に閉じると俯く。


「……心配かけてごめん、ユーリエ。助けに来てくれてありがとう」


 イポリトの肩から顔を覗かせたユーリエは頷くようにゆっくりと瞬きした。


 洟をすすったアメリアはデスクに転がっているパンドラの匣を手に取った。


「危ないから退いて」床に広がる液体のコンラッドの側からイポリトを退かせる。


 パンドラの匣の口を床に向けコルクを抜く。パンドラの匣は凄まじい風と共に床に広がった液体を吸い込む。彼女はコルク栓を閉じるとパンドラの匣をイポリトに差し出した。


「凄ぇな。魔術の道具か? ゴーストバスターズみてぇだな」


「パンドラから借りたの。あたしも島で魔術を習ったけど、こんな凄い物は作れない。『パンドラの匣』だって」


「ほーん」


「……あとは魂達が閉じ込められている人形を探さないと」


 ユーリエはイポリトの肩からアメリアの肩に飛び乗った。ユーリエは彼女の頬を軽く叩くと二階へ続く階段を指差す。


 アメリアはユーリエを見遣る。


「知ってるの?」


 ユーリエは頷くように瞼を閉じて開けた。


「そっか。ここはユーリエが生まれた場所だもんね。ありがとう」アメリアはユーリエに微笑むと右手に包帯を巻きつつ二階へ続く階段を上がった。死神夫婦の腕が入った袋を拾ったイポリトは彼女の後を追った。

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