最後の願い

「蘭に⁉︎」

 声が上擦った。

 どんなにか怖かっただろう、痛くて苦しかっただろう。想像しただけで眩暈がする。一体今頃どうしているのか————。

 陵駕の瞳が、苦しそうに歪む。

「もう、駄目でした。何を言っても反応しない……」

「蘭……‼︎」

 知らず、涙がこぼれ落ちる。大好きだった。蘭のことを一人の人間として愛しく思っていた。大切だった。

 良き姉だった。良き理解者であり、良き相談相手でもあった。

 侍女としても申し分なく、誰にでも好かれ、その人柄はどんな人であっても心許してしまうような慈愛に満ちていた。

 それなのに。

「どうして……」

 もう、なにも思わないのだ。彼女は考えることも感じることもやめてしまった。自分を傷つけるその全てから逃げるために。

 なぜ、柑子を刺してしまったのか、その真実すら語らずに。

 蘭はよく気がつく。だから、蘭が口をつぐむことで桃が疑われることくらいわかっていたはずだ。それでも口をつぐまなくてはならなかった理由があったのだろうか?

 もう、なにもかもがわからない。

「蘭は、恨みも憎しみも知らないような娘だったのよ⁉︎ 陵駕も知っているでしょう⁉︎」

「ええ。私もいまだに信じられません」

「みんな、みんなから慕われていたのよ……!」

 ここ三日で、桃の侍女の数はぐんと減った。皆、暇を下さいと申し出てくるのだ。その瞳に、涙を浮かべて。

 そんな彼女たちを引き止めるわけにもいかなかった。皆、蘭を良く慕っていた娘たちばかりで。

 その気があれば、また戻っておいで。そう言って暇を出した。けれども、彼女たちはきっともう二度と戻っては来ないだろうと思う。

 桃にも、辞めていった侍女たちにとっても、この衝撃はあまりにも大きすぎた。貴子が殺められ、今度は柑子が刺されて。しかも、柑子を刺したのが蘭だなんて。

「わたしのところにも武官が来たの。疑ってた……!」

 陵駕が微かに息を飲む音。

 身分だけで言えば、桃は武官よりずっと上だ。そのため、武官は終始礼を尽くした態度ではあった。その表情を除いては。

「もう嫌」

「母上……」

「わたし怖い。こんな、こんなこと……」

 縋れない、縋ってはいけないと言い聞かせていたはずだった。それでも、一度口から溢れた不安はもう戻せない。

 言葉にならない思いが、涙となって流れる。止められない。

 正気を失うほどの、耐え難い苦痛。それが目の前に迫っているかもしれないと思うと、平静でなどいられない。

「貴族なんて、いや……」

 貴子や柑子のように、知らぬ間に恨まれることがある。憎まれることもある。

 そして身分があり、上下があり、しきたりがある。桃は、陵駕とは一緒にはなれない。だからと言って、守るべき臣民を捨てて逃げ出すことも出来ない。

 桃は恵まれていたのだ。これまで何も捨てず、ただ平安な日々を享受していた。それでも、今思い浮かぶのは苦しみばかり。

 陵駕を見上げたが、涙でその姿はよく見えない。そこにあるのは、陵駕だと思っている人の影。

 これは本当に陵駕なのだろうか。悪い夢ではないのか。

 自分はもう、正気ではないのかもしれない。そんなとりとめもない思いが脳裏を巡る。熱に浮かされたかのように、なにも考えられない。

 にぎり締めていた拳を開いた。その影の、おそらくは首だろうところに、腕を伸ばす。

 触れたそこは、温かい。夢ではない。

 陵駕の影が揺らいだ。手首を掴まれ、彼の首から離される。驚いて見開いた瞳に映ったのは、色のない世界にあっても強く輝く双眸。

 怒られる。咄嗟にそう思い身を引こうとして、それは叶わなかった。

 乱暴とも言える力で桃の腕が引っ張られ、次の瞬間に身体を強い圧迫感が襲う。

(え————……)

 桃の頭を包む、骨ばった大きな手のひら。ほおに触れるあたたかな皮膚。耳朶にかかる息。

 硬直する。どうして、その思いと反するように胸が早鐘を打った。鳩尾みぞおちに痛みにも似た熱が灯り、その熱があっという間に全身を染める。ほおが火照った。

「すみません」

 謝った声は、微かに震えている。桃の手首を握っていた手が離れ、背中に回った。より強く、抱き寄せられる。苦しいほどに。

 母子の関係に戻ろうと言ったのに、なぜ。そう問おうとして出来ない。

 二度と触れられないと思っていた。だからこそ、そのぬくもりから離れたくない。

「あなたがこうして苦しんで、弱り、泣いているのが心からおいたわしい。けれど私は、そんな姿すら愛しいと思ってしまう……」

 歪んでいるんです。そう言った陵駕のかすれた声が、なにも障害物のない耳朶へと入り込む。その息遣いまでも。

 触れたほおとほおが熱く絡みつき、溶け出すように力が抜けていく。

「陵駕……」

「私と、逃げてくださいませんか」

 その声は震えている。否、震えているのは陵駕の身体だ。桃を包むその腕は、小刻みに震え、頬に熱い水滴を感じる。

 だから、わかってしまった。陵駕の、本心が。

「自分から母子の関係に戻ろうと言っておきながら、すみません。これで、最後です」

 これで最後。その言葉が胸を打つ。次はないのだ。

 そっと桃を開放した手が、桃の涙に濡れたほおをぬぐった。

「怖いと言うのなら、私が守ります」

 真剣だった。真剣すぎるその双眸に囚われ、身動きが出来ない。

 胸が苦しい。呼吸さえ上手く出来ていないのかもしれないと思うほどに。

「陵駕……どう、して……」

 彼の言葉を否定したいわけではなかった。しかし、咄嗟に口を衝いて出たのはそんな声。

 陵駕の瞳がゆるむ。愛しいものを見つめるように、否、愛しいと言った桃を見つめて。

「昔、はるかが言っていませんでしたか。恋うた姫と結ばれる方がいいと」

 桃の手を、陵駕の手が包む。そのぬくもりが、痛みのように身体を巡る。なんと表していいかわからない、それでもそれは愛しいという感情に違いなかった。

 そう思うからこそ、ますます苦しくなる。

「それを思い出したんです。私は、やっぱりあなたが愛おしい。どうしても、諦めきれない」

 愛しい。そう面と向かって愛情を示されたことなど少ない。夫である東雲しののめとは愛し合う時間がなく、厳格な母はあまりそれを見せたがらない人だった。

 桜とはお互いに愛しいと思って来たけれど、それはわざわざ確認するような類のものではなかった。

 そしてそれらは、陵駕の言う愛しいとは違うもの。

 言葉が出て来ない。かわりに涙がまた頬を伝う。

「桃姫が傷ついているときに、こんなことを言い出してすみません。卑怯な手だってことはわかっています。ただ、逃げ出すなら今しかない————」

 桜の宮は今、混乱しているから。そして、もうすぐ正式な親子になってしまうから。陵駕の口には出さなかった意図を、桃は確かに聞いた気がした。

 そして、桃は謀反を疑われている。

「いえ、これは私の我儘だ。あなたを巻き込むなんてどうかしている」

「————……」

「恋うてもいない相手と逃げるのを、良しとしろなど。ただ、私が耐えられない、それだけだ。愚かなことです」

 陵駕の手に力がこもる。苦しげに瞬く瞳。

「あなたは……」

 声が震えて妙な音を発する。聞くのが怖い。それでも、聞かずにはおれなかった。

 胸につかえていた苦しさを吐き出すように、声を出す。

「あなたは、わたしが否と言っても出て行くのね?」

「出て行きます」

 何の迷いもない強い声が返ってくる。それはもう二度とひるがえりはしない、決断の声。

 桃を見つめるその瞳は、怖いほどに真摯で、そして強い。何者にも縛られない、自由を目指す輝き。

 これで、本当に最後なのだ。

「明日、都の南にある瑠璃川に治水事業の視察に行きます。ついでに、最低限の供だけで近くの瑠璃神杜かみもりへ私的な参拝を。そこで、振り切ります。もう、戻らない」

「————……‼︎」

 明日。今ここにいる陵駕は、明日ここから消える。もう戻らない。その事実に息が詰まる。

 桃がたとえここに残ると言っても、陵駕は出ていくのだ。貴族としての誇りも勤めも、守るべき臣民も捨て、追われることになっても。たとえ討たれるとしても。

「桃姫の息子として、決して手の届かぬ場所にいるあなたを見ながら一生を過ごすなど耐えられない」

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