願いを叶える力
空は曇天。時折ゆるやかに吹く風は、少し冷たい。その空を、池の上に吹き放ちで作られた
一四日後。桜の想い人は、手の届かないところに行く。姉姫の養子として正式に迎え入れられ、桜は陵駕の叔母となる。
叔母と甥の婚姻は、貴族の身分剥奪の禁忌。陵駕と結ばれる可能性は、なくなってしまう。
自分の輿入れが延期になっても、陵駕が正式に桃の息子となれば、もう意味などない。
わかっていた、こんな日が来ることなんて。わかっていてなにも出来なかった。心を決められず、迷って。
自分は恐ろしいことをしている。そんな罪の意識に苛まれてまで柑子を懐柔しようとしたのに、それすら今はためらう。
陵駕の想いを聞いてしまった。それは、薄々感じていたこと。それでも本人の口からそれが発せられた、その事実は重い。
結局、桜が陵駕と結ばれることがあっても、その心は桜の上を素通りして、姉の桃を見ているのだ。
そんなことに耐えられるだろうか。
さわりと動いた風に桜の葉が舞い、池に落ちる。その葉に目を奪われる。
周りの状況に流されて、寄る辺もない水の上に浮かぶ桜の葉。それはまるで、自分の姿を見ているかのような……。
「桜姫、そんなところでいかがなされた」
ふいにかかった声に驚き、慌てて振り返る。
そこにいたのは、見知った顔だった。そのことに安堵し、軽く目礼をする。
「友魂殿でしたか」
そこに居たのは、陵駕の父である友魂だった。ゆっくりと釣殿の中へと進むと、
年齢の割には快活そうな表情をしている。その輪郭は、確実に息子である陵駕に受け継がれていると思わせるものがあった。
「少し、風にあたりたくなって。そんなこと、おありになりません?」
「うむ、大いにあるな。私は聞き及んでいる通り、貴族とは気が合わない性分だからな。今日もこうして気休めに来たところよ」
見たわけではない。それでも、桜も聞き及んでいた。友魂は、神を疑っていたのだと。
貴族を貴族たらしめ、その力を分け与えてくれた神を糾弾したことがある、と。
それは昔の話だとは言うが、やはりその話は信じ難く、良い印象は抱けなかったことは事実だ。かつては。
「友魂殿。神は、わたしを見ていらっしゃるとお思いになりますか?」
「あぁ。見ているだろうな」
その言葉に迷いは見られない。
「神をお疑いなのでは?」
「疑ってなどおらぬよ。私は、貴族に力を与え、臣民を守れと命じていることを糾弾したまで」
力を与えるなら、誰でも良いではないか。貴族でなくても。
なにも力がなく比護してもらわねばならない臣民を作らずともいい。そして、それを護りながら支配する貴族も必要などなかったのでは。
ただそれを訴えたかったのだと流れるように話す友魂の瞳は、清浄な輝きを灯している。
「神はいらっしゃるとも。私たちを見ている。だがそれだけだ」
人に与えもせず、救いもせず、導きもしない。ただ見ているだけなのが、神だ。
貴族とは、神が力を与えた者だろうか? そうではなく、力のある者がその力で臣民を支配したものではないのか。だとすれば、願いを叶えるのは人の力。
だから、私は神託を疑う。あれは人の意思が入っているだろう。
そう言って低く笑う友魂は、軽く肩をすくめた。
「わたしの輿入れも……」
「無論」
なにをするにも神託をいただく貴族。桜だって、巫女として神の姿を垣間見、神託をいただいたことはある。
ただ眩しい光としてしか認識出来なかった、それでも圧倒的な神聖。あれを神と言わずして何と言おう。
その神聖な光に尋ねると、必ず返事が返って来る。それは脳裏に声なき声として届き、それが即ち神託だ。
それはつまり。
「わたしは、神が見ていらっしゃると思うと、恐ろしくて。でも」
見ているだけならば。願いを叶えるのは、人の力なのだというのなら。
最後まで、足掻いてみたい————。
「姫は、ご覚悟がおありか?」
「ええ」
「そうは見えぬが。しかし、もう後戻りも出来ぬこと。大事あれば、黙して話さぬことだな。それができればだが」
友魂の瞳が、鋭く桜を射る。
「私は、私の愛をかけて生きる。陵駕とてそうだろう。ならば、姫もそうなさると良い」
願いを叶えるのは人の力だ。
そう言い残し、友魂は腰を上げ桜に背を向けた。そのまま歩き去って行く。
もう後戻り出来ない。そう、本当にそうだ。ここまで来てしまったら、引き返すことなど出来ない。
友魂は覚悟があるかと問うた。覚悟しているようには見えないと。
怖い、恐ろしいと感じるのだから、それは覚悟が足りないということなのだろうか。もっと恐ろしい事がありうると。
そう、そんなことなどわかっている。それでも、ここまで延ばしていたのだから、ああ言われても仕方がない。
なんのために、柑子を懐柔しようとしたのか。
それは全て、愛する人の隣にいたいという、純粋な願いを叶えるためだ。
(お姉様、ごめんなさい。お姉様のことを愛しています。でも、どうか許して)
姉姫には届くことのない懺悔。それでも言わずにはおれなかった。
失敗すれば桜の首は飛ぶ。その余派は、桃をはじめとして、父母である代赭や常盤にも及ぶだろう。理不尽な扱いを受けることはないだろうが、人々の心ない目に晒されることは間違いがない。
それでも、もう後には退かない。
それが今、自分が持てる人の力の全てだから。
◆ ◇ ◆
「らしくないな。私は嘘を付いている……」
一人そっとつぶやいて、陵駕は闇の支配する空を見上げた。雲間から微かに漏れる月の光が、より一層闇の深さを思わせる。
自分が恋うた姫を娶りたい。ずっとそう思ってきた。決められた相手では嫌だ。決められた道を歩むのは、嫌だ。
それなのに、今、自分は桃を諦めようとしている?
いや、諦めきれないのはわかっている。今すぐにでも会いたい。触れたい。彼女が許すならば、抱きしめて離したくない。
けれど、それは叶わないこと。
苦しむなら共に苦しみたい。そんな我儘で告げた想いだった。その願い通りに、あの聡明な姫は自分の立場と、不本意に向けられた好意とに挟まれて、苦しんでいるだろう。
それが、陵駕の心を慰めているなど、なんと身勝手なことだろう。いつから、自分はこんなに歪んでしまったのだろうか。
(遼……)
思い出す。いつでも面白いことを探し歩いていた、遼という少年を。自分を慕って付いて回る桃が愛らしくて、二人でいたずらばかりしていた。
遼は自由だったのだと思う。
馬鹿正直で、自由で、まだ貴族の世界にしばられていなかった。
あの自由な少年の心は、どこへ行ってしまったのだろう。その名の通り、遼か遠くへ打ち捨てられたのだろうか。
「桃姫……私は、どうしたら」
その答えを返してくれる者はいない。深い闇ばかりが、そんな陵駕をじっと見ていた。ただ、黙って。
◆ ◇ ◆
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