我儘
気がつくと天井が見えた。
頭の中がじんわりと思考を取り戻していく。どうやら寝かされているようだ。
「わたし……」
「桃姫⁉︎ 気がつきましたか……」
なにがどうなってこんなところに寝ているのか。一瞬混乱した桃の声に、反応したのは聞き間違えるはずもない陵駕の声。
「りょうが……」
視界に陵駕の上半身が現れる。その首には、痛々しい赤紫の————。
どっと記憶が押し寄せる。
魔と化した貴子。陵駕を絞めた自分の手、その感触。そして陵駕の想い。
「大丈夫……?」
ゆっくりと手を伸ばす。しかし、その痕に触れることができず、指が宙を彷徨う。
痛々しいその痕は、桃の手がつけたもの。
怖かった。一歩間違っていれば、二人とも命がなかったかもしれない。
恐らく陵駕だってぎりぎりだったはずだ。いつから呪符に気がついていたのかはわからない。だが、あの光を失っていく様は演技などではなかったし、そんなことをする意味もない。
あれは本当に、危なかったのだ。
陵駕の手が桃の手を下へと押し戻す。それに大人しく従った。
「桃姫こそ。大丈夫ですか? 気分は?」
「大丈夫」
ぼうっとしていて、身体もだるいが気分が悪いわけではない。どちらかというと、疲労感のような気がする。
「ここは……?」
「神殿です。部屋をひとつ空けていただきました。私も桃姫も、神官殿に魔の穢れは祓っていただきましたから安心して下さい」
神殿。ということは、陵駕がここまで桃を運んでくれたのだ。
神殿に話が伝わったのなら、貴子をより強力に封じるために神官も出向いてくれたはず。
「貴子様は?」
「神官殿が、さらに強力な呪符で封じてくださいましたよ」
呪符が破られる危険は、ひとまずは去ったということだろうか。それならば、本当に良かった。あんな思いをするのは、自分達だけで十分だ。
あんな、魔と化した貴子の呪詛の声を聞くのは。
「神官殿も頭を抱えておいででした。もう、これは祀り上げるしかないと」
「祀り上げる……?」
「ええ。鈴鳴家で代々、貴子姫を祀り上げるのですよ。鈴鳴家の守護神として」
守護神⁉︎ 魔を守護神として祀り、
「そうして永い時間をかけて正の念で崇めることで、貴子姫の魔も徐々に祓われるそうです」
永い時間……それはどれくらいかかるのか。気の遠くなるような話だ。
桃は魔と化した貴子に取り憑かれた。だからわかる。きっと、今生きている人々が全てこの世を去っても、貴子はまだそこにいるのだ。彼女の魔はたかだか数十年では祓えない————。
「貴子姫は鈴鳴家のために生きていたような人でしたからね。魔が完全に祓われれば、永い人々の信仰により、本当に鈴鳴家の守護神になってくださるだろうと」
そうなればいい。貴子は本当に、本物の貴族だった。鈴鳴家と、そして何より鈴鳴家が守るべき臣民のために生きていた。
今は恐ろしい魔でも、いつかは……。
「
貴子の魔を今祓ってやれないのは心苦しいし、襲われた桃にしてみればやはり怖さが先立つ。
魔と化した貴子は、やはり桃のことなど忘れていた。自らが人であったことも。
貴子はこれからも、あの部屋に封じられたまま苦しみ続ける。それでも、その苦しみは徐々に晴れていくはず。
そしていずれ、彼女は鈴鳴家の守護神となるのだ。
「どうかしましたか?」
沈黙してしまった桃を気遣うように、陵駕の声が降ってくる。
「いいえ、大丈夫」
「桃姫は直接魔に憑かれていますから、お身体に触るかもしれないとのことで
「ありがとう」
ゆっくりと上体を起こす。身体のあちこちが鈍く痛み顔をしかめた桃の背を、陵駕の腕が支えた。
起き上がった桃に、開いた薬包紙が手渡される。その上には、茶色い粉末。独特の鼻をつく匂い。
口に含んだそれは少し苦い。
水で一気に流し込むと喉の奥でも苦く、その苦味が頭のもやを外へと押し出す。
生きている。桃も、陵駕も。
「陵駕、ありがとう」
「いえ、これは匙が飲ませるようにと」
「違うの。助けてくれて、ありがとう」
陵駕を呼ぶんじゃなかった。それは本音だった。
けれど、陵駕を呼ばなかったとしても、あの時近くにいただろうことは事実。きっと助けに来てくれただろう。
陵駕の吐き出した本音が辛くて、そればかりに気を取られていた。陵駕が助けてくれた、それは事実なのに。
なにがどうとは言えないが、少し気まずい。陵駕の顔をまっすぐに見られずに、うつむいた。
そこにあるのは、自分の両手。魔に憑かれてとはいえ、この手で陵駕の首を絞めた。陵駕を殺めていたかもしれなかった。
「無様なものでしたけどね。あんなことを言うつもりではなかった」
いつもよりも、静かで真面目な声。それにどう反応すればいいかわからず、上手く言葉を紡げない。
陵駕は初対面で、桃のことを聡明だと称してくれた。それなのに、今なんと言ったらいいのか皆目検討もつかない自分がもどかしい。
陵駕は、なにが原因で、いつから生きるのが苦痛だと思い始めたのだろう。
桃と出会う前、最初の恋が散った時か。それとも、鈴鳴家の次期家主に定められた時か。義母が己よりもずいぶん若いと知った時か。今恋うている姫君を娶れないと悟った時か。
あるいは、桃と親しくなってからのことなのか。
なんにしても、陵駕とは上手くやって行けそうだと桃自身は思っていた。食えない性格なのはお互い様だし、それも上手くやっていける証のようなものだと。
ましてや最も秘密にしておきたいはずの、色恋の話までしてくれていたのだ。心を開いてくれていたのだと思っていた。
けれど陵駕はそうではなかったのだ。桃と上手くやっていけるかどうかを問題にしているわけではないだろう。その肩にのしかかる全ての重たいものや、身を縛る鎖を嫌悪しているのだと思う。
しかしそれは、結局、桃と共に歩くということすら否定するものだ。
どうしたら良かったのだろう。その重い責任を桃も一緒に背負ってやれれば良かったのか。
しかし結局、それらとどう折り合いをつけるかは、陵駕次第なのだ。桃が何をどうしても、その苦しみを取り除くことは出来ないだろう。
それでも、自分にもなにか出来ていたのでは、今まで呑気になにをしていたのかという自責の念が頭の中で回る。
彼が生きていてもいい、悪くないと思うにはなにが足りない?
「陵駕には生きていて欲しいの。死ぬくらいなら辛くても生きていて欲しくて……でも、生きて苦しめばいいって思っているわけではないわ」
陵駕が頷く気配。小さく息をつく音。
「でも、そう、これはわたしの我儘。わたしが辛くならないための」
わかっている。陵駕が死を望むことが我儘なら、陵駕に生きて欲しいと思うのも我儘だ。お互い、ただ自分の気持ちを楽にしたくてそう望んでいる。
陵駕が生きていてもいい、そう思えるだけの何かを見つけられれば……。
「あなたは本当に聡明だ。あなたが言っていることもまた、我儘だと気がついているとは思っていなかった」
「失礼ね、それくらいわかってるわ」
少しだけむっとした口調で返すと、陵駕が笑った気配がした。
「だから、せめて陵駕が生きていてもいいと思えるようななにかを、わたしが出来たら……」
「その心だけで十分ですよ。あなたが出来ることは、なにもありません」
「————ッ」
明確な拒絶。
思わず跳ね上げた瞳が見たのは、思いの外優しい陵駕の双眸。
「あなたといると、どうも嘘が付けないみたいだ。人との接し方、距離の取り方、付き合い方には自信があったのに」
あなたと向かい合うといつも形無しです。つぶやくように小さくかすれた声。
媚を売る必要があればそうして、威厳を示す必要があればそうして、絶えず自分の姿を相手に合わせて変えてきた。それなのにあなたの前ではそれができない。だからこそ、自分のままでいられることが心地良かった。
自嘲するでもなく、ただ淡々と事実を述べている。そんな調子でぽつぽつと話す。
「情けないことこの上ないが……だからあんなことを口走ってしまった。あれは私の落ち度です」
「陵駕……」
「あなたには言わないと、最初から決めていたことだった」
言葉が詰まった。胸がじくじくと痛む。なぜ、なぜそうまでして陵駕は桃を拒絶するのだろう。
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