祓うべきもの

「あれだけ言って気がつかないなんて、重症だな」

 桜の樹の下を歩きながら、陵駕は独りごちた。その視線が地面の上を滑る。

 夕暮れ、もう空が赤く染まりつつある。桃と別れた陵駕は、一人で庭を散策していた。

 桃はなにも気がついていないように見えた。それは、わざと気が付いてないふりをしているのではないかと疑いたくなるほどに。

 でも、それで良かったのかもしれない。貴族だから。

 いつからなんてわからない。ただ、気がついたらそうだった。昔とちっとも変わらない性格なのに、からかうと大袈裟なほどに赤面する姿があまりに愛らしく思えて……。

 あの日。貴子に忠告を受けたあの時に、なぜあれほど腹の奥が熱を帯びたのかわからなかった。いや、わからないと思いたかった。

 あの幼かったおてんば姫だと自分に言い聞かせて目をそらしていたことを、貴子はいとも簡単に見抜いた。だからこそ、あんなに反応してしまったのだ。

 それでも目を逸らしたままでいたかったのに、結局は会いに行くのだ。それが答えだと気がついてしまった。

 だからこそ、桃が自分を訪ねて来てくれたのがたまらなく嬉しかったのだ。桃に触れるべきではないとわかっていて、手を伸ばさずにいられなかった。

 陵駕の想いは、決して叶えられることはない。叶えられてはならないのだ。

 桃に伝えたからといってどうにもなりはしない。彼女を苦しませてしまうだけの結果になることは明白だ。

 それならば。

 ふと顔を上げると、遠くの桜の樹の下に佇む女人の姿を見つける。遠目からでもわかる、美しく精悍な面立ち。

「——常盤姫」

 近づくと、葉桜を見つめいていた彼女は、ようやっとその顔を陵駕に向けた。かつて陵駕がよくまみえていた、桃の実母だ。

 怒り狂えば顔が歪みまくる常盤は、今は美しい。その瞳は鋭く、けれど口元にはほほ笑みを浮かべて。

「久しいのう、陵駕」

 ゆっくりと吐き出された声の調子は、桜のそれと似ていた。怒った時の激しさとは雲泥の差である。

「えぇ。本当に久しいですね」

 常盤とよく顔を合わせていたのは、まだ陵駕が元服する前のこと。まだ幼かった桃と一緒に騒いでいると、必ずと言っていいほど怒り狂った常盤と出会ったものだ。

「よく一目で私がわかりましたね」

 あれから随分経った。陵駕はあの頃からすると、多少面変わりした。背も伸び、声色も変化している。

 あの頃にはすでに大人であった常盤を見分けるのはさして難しいことではない。しかし、元服前の面影だけで陵駕を当てるのは難しいだろう。

「わらわの目を見くびっておるようだな、陵駕よ」

「いいえ、そのようなこと」

 鋭い輝きを増した彼女に、陵駕は明後日の方向を向いて白々しくそんなことを言ってみる。貴子と違って、昔馴染みだという勝手な思いが気安くさせる。

 しかし、さすがは常盤。桃のように言い返して来たりはしない。

「不思議なこともあったものよの。ついこの間までは其方の方が桃よりも上であったのに」

「えぇ、全くです」

「わらわは其方の祖母か? まこと、愉快なことよ」

 そう言って艶然とほほ笑む常盤は、陵駕の記憶の中の彼女よりも少々丸くなったような気がした。

「本当ですね。私だって、まさか常盤姫が祖母になるなんて夢にも思っていませんでしたよ」

 なにせ常盤と陵駕は十ほどしか歳が変わらない。姉弟でも十分通る年齢差である。それなのに、常盤は陵駕の祖母になってしまうのだ。

「それにしても、常盤姫? 桃姫は何も覚えておいでではありませんでしたよ」

 言って、肩をすくめる。こんなことを言えるのは常盤一人くらいのものだろう。

「あれもまだ幼かったしのう。覚えていなくとも無理はない」

「そうですかぁ? 私はこんなにも覚えているのに?」

「其方は覚えていて当然であろう?」

 それはそうだ。桃はまだ幼い女童めのわらわだった。まだ大人になり切らない陵駕が、抱き上げられるほどに。

 それを、歓声を上げて喜んでいた姿が思い浮かぶ。

 あの頃の日々は、元服して葵の宮へ追いやられた陵駕の、ささやかだが幸せな思い出だった。

「其方は改名もしておるのだぞ。桃にわかるわけがないわ。あれは其方の昔の名なら知っておろう」

 そうだろうか。覚えていてくれているのだろうか。名前くらいは。

「だと、いいですけれどね」

 苦笑する。そうだったらいいのにと、むなしく願ってしまう。

 いつから、自分はそんなに女々しくなったのだろうと思うと、なおさら苦いものがこみ上げてくる。

「桃に訊いてみるか? 其方の前の名を覚えているかと」

「いいえ、結構です。前の名は、忘れましたから」

「ふ……それも良かろうの」

 陵駕の気持ちなど全てお見通し。そんな声色。

 やはり陵駕は敵いそうにない。貴子にも、常盤にも。

「一つ、忠告しておこうぞ」

 燃える夕日の色を背に受け、常盤はまっすぐに陵駕を見つめてくる。思わず目を逸らしたくなるほど強く鋭い視線で。

「貴子様には気をつけるがいいぞ」

「ありがとうございます」

 もう貴子に目を付けられているのだとは言わないでおく。そんなことを常盤に言ったとてどうにもならない。

 忠告は、彼女なりの心遣いだろう。ならば、陵駕はその気持ちだけをありがたく受け取ればいいのだ。

 風が吹く。日が落ちて行く。二人の足元にゆっくりと。

「それから其方は、自分一人の想いを捨てねばならぬ。たくさんのものを捨てねば、家主としてはやってはいけぬぞ」

「わかっています」

 桃の養子になる事が決まった時、実父の友魂ゆうこんにもそう言われている。お前は、全てを捨てねばならないと。

 全てを捨てて、鈴鳴家と臣民の為に生きよと。

 家主となる者は、代々そうやって生きて来たのだ。現鈴鳴家家主の柑子も、たくさんのものを捨てて来たはず。

 そうやって今、生きているのだ。

「ご忠告、覚えておきます」

 常盤に一礼する。

 彼女は笑ったようだった。陵駕を見上げて。

 常盤は、強い。

 強くなりたいと思う。強く……。


   ◆ ◇ ◆


 白小袖と緋袴の上に千早ちはやを羽織った神楽かぐら巫女。

 舞台に上がった三人のうち、前の一人だけが神官の狩衣だ。その髪は陽の光で金にも見えるほど薄い。誰が見ても明らかな神色を宿している、その手には剣。

 桜はその後ろに並んだ巫女装束の二人のうちのひとりだ。手に持っているのは神楽鈴。その鈴が、手首を振る度にしゃんと鳴った。

 神の妻としての、透き通った桜の姿。何度見ても、やはり桜は神に愛されて生まれてきたのだと思わずにはいられない。

 春から準備してきた御祓おはらい神事当日。

 桃は蘭を含めた数人の女官らとともに、都へと赴いていた。

 それは自分の仕事を見届けるためでもあり、臣民の安寧を願うためでもあり、そして桜と陵駕を見守る為でもある。

 高く晴れた空。

 気持ちのいい風が都の上に吹き、舞台から少し離れた貴族用の高宮にいる桃と蘭の元に鈴の音を届けた。

 そして、舞台の脇で陵駕が楽隊として奏でている篳篥ひちりきの音も。

 舞台の周りには、この日を待ちわびた臣民たちが詰めかけている。それでも、厳かな音色と神楽に息を詰めて舞台を見つめている者がほとんどだ。

 彼らの生活を守るために、桜は舞う。その神に愛され神色を備えて生まれてきた神子みこたちを支えるのが、桃や陵駕の役目だ。

 青い空に溶けるように、時折、黒い影が浮いては消えていく。それに気がつく人もいたし、多くの臣民は気がついていないようだった。

 その点、桃と同じように高宮にいる貴族は多くが気付き、目で追っている。やはり、これが貴族の血なのだろう。桜をはじめとした神子たちは、さらにはっきりと魔の異形が見えるという。そしてその存在を祓うことができるのだ。それが、神が与えたもうた臣民を守る力。

 地に暮らす人々の声として鳴るのは、陵駕の篳篥の音。そこに、天と地を行き来し翔ける神の遣いである龍の音が、龍笛りゅうてきで重ねられる。

 そして、天上からそれらに降り注ぐ神の光が、しょうによって力を発する。

 しゃんと鳴った鈴の音で飛び出した魔は、龍に押さえられ、天からの光で滅せられるのだ。

 きらりと光る剣と、魔をあぶり出す神聖な鈴の音。

 これでしばらくは、都も平安になるだろう。

 そのために、貴族は存在しているのだから。


   ◆ ◇ ◆


 しゃんと鳴る鈴の音とともに祓われていく澱のような魔の影。それらは人型をしているものの、到底人とは呼べない異形として桜の目に映る。

 それは神に与えられた力のなせる技。

 流れるように身体をひねり、優雅に舞う。その桜の姿に大勢の臣民が敬愛の視線を注いでいた。

(神は、わたしを見ていらっしゃる……)

 自分は神の子。神に愛されて、臣民を守る為に生まれて来た。その自覚があるからこそ、恐ろしい。

 今やっていることを、神は赦すだろうか。

 神が自分を愛して力を与えたのと同じように、自分も愛する人のためにこうしている。愛というなら、これだって同じことのはず。

 傍らの楽隊を横目に映す。そこに、篳篥を演奏している陵駕の姿が見えた。

 地に暮らす人々の声を代弁する音色。

 その音色と共に、自分の想いも神へ届けばいい。そう願うことは、臣民の為に生まれた自分に許されるのだろうか。

 それとも———……。


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