葉桜と思い出と

「良い天気ですねぇ、母上」

「ええ、そうね」

 緑の美しい葉桜の下。陵駕りょうがと桃は庭に出ていた。あまりにも気持ちの良い初夏の晴天。ふと陵駕の顔が浮かび、訪ねてみた格好だ。

 桜はこの頃付き合いが悪くなった。あまり遊びにも来てくれないし、桃の方から出向いても留守にしていることが多かった。

 桜本人は、御祓おはらい神事の準備が忙しいと言っていた。御祓神事の神楽巫女をつとめるのは三人。そのうちの一人に選ばれているのだから、忙しいのは確かなのだろう。けれど。

(陵駕のことが好きなら、仕方がないのかもしれないけれど……)

 ちくりと胸が痛む。

 桜は一人で誰にも打ち明けられず、悩んでいるのかもしれない。桃にそれを打ち明ければ、迷惑がかかると思って黙っているというのは、ありえる気がした。もしそうなら、桃が問いただすわけにもいかないだろう。

 必然的に桃は暇な時間が多くなり、ここ最近は桜よりも陵駕と過ごしていることの方が多いくらいだ。

 陵駕と初めて会った日から一つ季節が動いていた。桜はあっという間に緑になり、日差しは徐々にその強さを増して来つつある。

 頭上高くに登った陽の光で、少し暑い。けれど、この季節は嫌いではなかった。

 なにより、長雨ばかりだった春に比べると、穏やかな陽気が続いているのが嬉しい。

 思えばずいぶんと外にも出ていなかった。

「外に出るのも久しぶりだわ」

「はぁ……」

「なに、そのため息」

 そう返しつつ、しまったと歯噛みする。さっきの一言はまずかった。

「母上もずいぶんとお年を召されたのですねえ。外にも出られないとは、おいたわしい」

 わざとらしい口調でそう言って、陵駕は肩をすくめた。声は思いっきり嘆いてみせるが、表情がそれに伴っていない。

 いたずらっ子のようなおどけた顔。

「まぁねぇ。誰かさんに苦労させられたものだから」

 ついそう返してしまい、今度は違った意味でしまったと思う。

 これではまた、狸と狐の化かし合いの始まりだ。いつもいつも、桃は考えるよりも先に言い返してしまう。桜のように、やんわり笑って済ますということが出来ないたちのようだ。

 化かし合いが始まると、これがなかなか終わらない。だからこそ毎回、今度こそは優雅にほほ笑んで終わらせようと思うのだが、なかなか上手く行かない。

「一体誰でしょうね、母上にそんなにも気苦労をかけているのは」

「よく訊いてくれたわね。わたしよりずっと歳上で、図々しくってどうしようもない皮肉屋で、例えるなら狸かしら」

 にっこりと極上の笑みでそう返す桃に、陵駕も笑顔を返す。

「それは良かった、私ではないようですね。私は礼儀正しい賢才で、例えるなら金烏きんうですからね」

「あぁらそう?」

「ええ、そうです」

 不毛な戦いである。やられたらやり返す、なんて素敵な性格。

 これだから、さすがは貴子の孫だなどと言われてしまうのだ。それは決して、桃のことを誉めそやしている声ばかりではないとわかっているのに。

「——きりがないわね」

「まったく。すみませんねぇ、母上。この口が」

 ぺちっと軽く自分の口をはたいて、陵駕も苦笑している。

 最近では、二人とも不毛な化かし合いはしないように心がけている。一度際限なく続いてしまい、それだけで疲れきってしまったことがあった。

 それ以来、続くときはいつまでも続くものだと理解し、早めに切り上げることにしている。

「あぁ、この口がと言えば」

 ぽんと陵駕は手を打ち、桃の顔を覗き込んだ。急に近くに来た陵駕の顔に、胸が大きく跳ねたが、平静を装う。驚いたなんて思われたら悔しい。そう思うと余計にほおが熱くなる。

「あの噂、まだ健在みたいですよ」

「あの噂? ってあれ⁉︎ あの根も葉もない————」

「そうです」

「そうです、って……」

 そう、あれだ。陵駕と桃が愛し合っているという……。

「時々侍女たちの所に行ってこっそり聞いてくるのですけれど、なんだか大きくなってましたね」

「えっ⁉︎」

 大きくなるようななにかなど、断じてないのに。

 誰かが話を面白おかしく盛って喋っているのだろうか。それはそれで才能かもしれないが、事実無根の噂を立てられるのは困る。

「ふたりを見れば、愛し合っているのは一目瞭然。叶えられないのが可哀想、と」

 叶えられない。その言葉がやけに胸に刺さる。

「一目瞭然って……」

「まぁ、見た目は恋うている者同士に見えるということでしょうね」

 面白そうに笑う陵駕に対し、桃は全然笑えない。

「こうして母上も私に会いに来て下さいますからね。逢瀬と思われているのでしょう」

「馬鹿なこと言わないでよっ」

 逢瀬。その響きが頭の中で渦を巻く。違う、会いに来たのは養子といい関係を築いて、将来共に仕事をするためだ。

 そう思うのに胸に針が刺さったような痛みが走った。

「おや、私との逢瀬はお嫌ですか?」

 涼しい顔でそう言った陵駕が、ふいに桃のほおを撫でる。髪に差し込まれた指が耳に当たって、情けない悲鳴が出た。

 一瞬にして熱くなったほおを隠すように、慌てて顔を逸らしてよろける。倒れる、と思った体は、あろうことか陵駕に抱き止められるような格好で支えられた。そのことに、ますます頭の中が真っ白になる。

 耳の中でうるさい鼓動が暴れた。

「ははは、すみません。あんまり愛らしい反応をされるのでつい」

「ついってなによ⁉︎」

 押しのけるように陵駕の体を引き離し、袖で顔を覆う。陵駕の指の感触がまだ残っている耳を無意識に手で覆った。

 完全にからかわれている。そうわかっていてなお、全身を染めるような火照りを醒ますことができない。

 陵駕がこんなことをするからあらぬ疑いをかけられるのだ。

「親子間姦通が死罪でなければ、さらっていたところです」

「な、なに言ってるのよっ」

 陵駕と会って話すのが楽しい。そう感じているのは自覚している。でなければ、わざわざ出向くことなどしない。だが。

(死罪じゃなかったら……)

 もし陵駕を伴侶として人生を歩むとしたら。一瞬そんな考えが桃の頭をかすめ、その自分の考えに動揺する。なにを考えているのだ、あり得ないことを妄想するなんて。

 必死に冷静を装って口を開く。

「冗談でもそういうのはやめて」

 親子間、又は兄弟間の貫通は死罪だ。何よりも罪が重い。それは貴族が重ねてきた血の呪いのようなもの。

 それは、実の親子でない桃と陵駕の二人にも適応される。立場上だからと許されることはない。禁忌というものは、それが成立した時点で例外を認めなくなる性質のものなのだ。

 桃は、陵駕だけは決して恋うてはいけないのだ。そんなもの、叶ったが最後。明るみにでれば首を刎ねられる。

 そんなことになれば、桜ばかりでなく、生父母の代赭たいしゃ常盤ときわ、義父母の柑子と牡丹にも迷惑をかけることになるだろう。

 陵駕が正式に桃の養子となるのは秋だから、今の時点では首は飛ばないかもしれない。でも、それだってわからない。事実上はもう親子のようなものだ。こればかりは、家主である柑子の判断になる。

「血は遠いのに、姦通罪になるとはねぇ」

 だから貴族は嫌いなんですと陵駕は続けて、口を引き結んだ。

「貴族、嫌いなの?」

 頭の中がすっと冷えた。陵駕はその優秀さを見込まれて、次期鈴鳴家の家主に指名されたはずだ。貴族としての暮らしや仕事に疑問を抱えているなど思ってもいなかった。

「好きではないですが。母上は?」

「……考えたこともないわ」

 貴族の血を求めるところ、上に従うだけの体制は、桃も思うところはある。しかし、貴族は臣民を守るための存在。それは、好きか嫌いかでは割り切れないものがあるとも思う。臣民にとっては、貴族はなくてはならない魔を払う組織としての意味も持つ。

 それに、自分が臣民として生きていけるかと言われれば、疑問の残るところだと桃は考えている。

 自由なのは性に合うかもしれない。しかし、食べるものはどうだろう。寝る場所や、身につけるものはどうなのか。それらを全て受け入れられると断言できるほど、桃は臣民の暮らしを知らない。

「まぁ、そんなことを考えても、貴族だってことに変わりはないのですから、詮無いことですけれど」

 ちらりと陵駕の横顔を盗み見る。その顔には、いつものようなからかいや皮肉の表情は浮かんでいない。真剣な眼差し。

「一体なにが言いたいの?」

「そうですねえ。ま、貴族じゃなかったら私とは愛し合えたのに残念ですねぇって事です」

「あのねぇ……」

 どこまでも爽やかな笑顔を作りそう言った陵駕に少し呆れる。その瞳には光。いつもの、桃をからかう陵駕の瞳だ。

「母上は、人を恋うたことはありますか?」

「? どうして? 陵駕は?」

 唐突な質問に軽く面食らう。それを桃に訊いてどうするのだろう。東雲殿は好きだったわよとでも答えればいいのだろうか?

 東雲はいい殿方だったし、変わり者と噂される桃にも優しかった。ただ、愛するには日が短すぎただけ。人として尊敬していたし、亡くなったのは悲しかった。

 そんな思い出を語れと?

「私は、二度ほど」

「まぁ」

 意外な答えに、素直に驚く。それと同時に、胸になにか重いものを感じた。陵駕は桃と違って、真面目に人を好きになったことがあるのだ。

 どんな姫を恋うていたのだろう。気になるけれど、聞きたくない気もした。

「知りたいですか?」

 そう言ってにやりと笑った陵駕は、実に楽しそうだ。

 これもからかいの一つだろうか?

「初めて恋うたのは、私の名付け親でした」

「そう——……って、えええぇぇっ⁉︎」

 名付け親ということは、自分の実母ということになりはしないだろうか。

 それは恋うているというより、子としての思慕ではないだろうか。もし実母を恋うていたのなら、それはそれで問題だ。

 まさか、だから貴族が嫌いなのだろうか。

「なに驚いてるんですか。名付け親であって、私の生母様ではありませんよ」

「あ、そう、そうね。えっと、さっきまでそんな話してたから……」

 ついつい言い訳がましくなってしまい、語尾がすぼんだ。

 そうだ、何も驚くことではない。名付け親は他人でもいいではないか。

「私がえぇと、幾つの時だったかな。その人に陵駕っていう名前をいただいたんです」

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