第4話 プールづくり

  1981年5月X日 くすのき学園にて

 

 ある平日の午前10時前。養護施設くすのき学園のその日の朝礼が終わった。稲田園長は早速、くすのき学園の事務所の黒電話機のダイヤルを回した。電話の先は松木左官店。ここには、稲田氏が園長に就任した初年に中3だった児島修一青年が、中学卒業後就職というより「弟子入り」した職人さんの店。児島青年は中学卒業後5年目で20歳になる。

 この職場、会社組織にされていない典型的な個人企業であるが、腕のいい職人さんだけあって、商売は繁盛している。屋号は、「猛虎左官店」。親方の親父さんが阪神、もとい戦前からのタイガースファンであった。1947年の優勝した年に思い立ち、この屋号にしたと。自分の名前と同じ選手がいて、しかも監督にまでなったというのもあって、息子にもあの名選手「松木謙治郎」をほうふつさせるような名前を付けた。今はもう、息子の代。現在の代表である松木謙太郎氏は、稲田園長の教員時代の教え子でもある。


 「もしもし、猛虎左官店ですかな」

 「はい。稲田先生ですね。ご無沙汰しております。松木です」

 「実は、松木君に一つ仕事をお願いしたく思ってね」

 「ほう、それはありがとうございます。どんなご用件で?」

 「実は、うちに一つ、プールを造っていただきたくてね」

 「え? プール!? そんな御大層なもの、どこに造られるの? あのお世辞にも広いとは言えない敷地内に? まさか先生、ご自宅に造られるとかおっしゃいませんよね」

 「いやいや、そんな、学校などにあるような本格的なものじゃなくて結構。造るのはもちろんくすのき学園であって、うちじゃない。勘弁してよ。維持が大変じゃ。まあ、プールなんて言ったら少し大げさに聞こえたかもしれんが、幼児から小学校の低学年の子らが入れる程度の場所があれば、十分だと思ってねぇ・・・」

 「なんだ、くすのき学園ですか。それなら大丈夫、うちで十分できますよ。早速、見積を取らせていただきたいと思いますが、何より、どの程度のものをあの敷地内のどこにおつくりすればいいかも、きちんとお話に伺ったほうがよろしいかと。今日でしたら、私は事務所におりますので、何でしたら昼からでも伺いますけど、よろしいですか?」

 「それはありがたい。ぜひお願いします。そうそう、うちにおった秀一君、元気に働いているか? 彼のお母さんのところに、時々は行ってあげているだろうかと・・・」

 「ええ、元気です。お母さんの家、時には行っていますよ。今日は、近くの現場に行っておりますので、今日に今日は無理ですけど、工事となりましたら、児島君を主力で行かせていただきたい。まあもし、彼があんなところ行かんとか、思い出したくもないとか、そういうことを言うなら別ですが、そうでない限り、彼に行かせたほうが、土地勘といいますか、場所勘もあるでしょうから、何かあった時にもよろしいかと存じまして」

 「もちろん、異存はありません。うちの卒園生が造ってくれたプールとなれば、子どもたちも、職員らも皆、喜びますよ。あの子が嫌っていた保母はもう退職しておるし、本人にしても、自信につながるだろう。すまんが松木君、是非ともよろしくお願いします」

 「じゃあ、昼一番に、私がまず伺いますね」


 くすのき学園では夏場には、幼児向けのビニール製のプールをしばしば出して、子どもたちに涼を与えている。もし、それなりのプールができれば、わざわざビニールのプールの空気を入れなくても済む。さすがに小学生も高学年や中学生以上ともなれば、そんな程度のプールではどうしようもないが、まあ、彼らは学校のプールもあるし、さほど気にすることはない。児島青年は、くすのき学園に5歳で預けられ、中学卒業と同時に左官屋の親方のもとに弟子入りして卒園し、この5年来働いている。彼は、一部の子たちのように今の仕事を辞めたいなどと言ってきたことはない。彼は天涯孤独の身だとくすのき学園にいた頃には思っていたが、中学卒業後、とあることで母方の祖母から連絡があり、およそ12年ぶりに実の母に再開した次第。母はすでに再婚していて、異父の妹と弟もいる。彼の妹は中3、弟は小6。妹や弟、さらには血のつながりのない義父との関係も悪くない。しかし、さすがに母の家に居続けるのも窮屈で居心地が悪いのか、めったに会いに行くわけではなく、この5年間、ひたすら仕事に打ち込んできた。

 

 仕事が一段落したある土曜日の昼過ぎに、松木の親方がくすのき学園にやってきた。稲田園長は、教え子でもある親方を応接室に招いた。

 「で、先生、プールを造られるのは大いに結構ですが、どちらに?」

 「まあ、そうだな、園庭の端のほうに、ちょっとしたものをお願いしたい」

 「深さはまあ、600ミリ程度ですかね。小さな子どもさんらが入って立てるぐらいでいいとして、広さです、問題は。広すぎてもいかんし、狭すぎてもどうかと」

 「そこは、四畳半程度の見積りで何とかならんだろうか?」

 「水道は、どうされます? まさか、戦時中のバケツリレーで入れるわけにも・・・」

 「それなら、花壇に水を撒くための水道の蛇口があるから、その横あたりにでも、4畳半から5畳程度の広さのプールを作ればよかろうかと」

 「そこなら、ホースを接続するだけで給水できますね。で、排水はどうされますか?」

 「そっちは、配管をつけて裏の側溝に排水すればよかろう。あまりの量だと苦情もくるが、夏場に幼児向けの小型プール程度の水量なら、さして問題にはされないだろう。町内会の会長さんには、一応話しておって、そのくらいなら構わんでしょうと言われた」

 「建設費というほど大げさなものではないかもしれませんけど、理事会のほうではきちんと話がついています?」

 「それは心配ない。前回の理事会で予算については了承が得られている」

 「そうですか、じゃあ、現場を見せていただけますか?」

 稲田園長は、松木氏をその現場へと案内した。松木氏は、巻き尺で面積を測った。それから、近く設計図と見積書をお持ちしますと言って、くすのき学園を去って仕事場に戻っていった。見積は、数日後に届いた。理事会でも、即了承された。


 「じゃあ、児島君、くすのき学園のプール工事、行ってくれるね」

 「はい監督、喜んでいかせていただきます」

 彼にしては、妙に素直な回答だ。日頃の話しぶりからは、ちょっと意外な気もした。ちなみに松木氏は、弟子の職人さんたちには、「親方」ではなく、「監督」と呼ばせている。父親の阪神ファンを継いで、彼も阪神ファン。松木謙治郎という偉大なレジェンドにあやかりたいというのが、その理由だ。数年前、児島青年より少し先輩のある若者が「親方」といったときは、別に怒りはしなかったが、「親方」は阪神部屋の遠井吾郎さんだ、わしはあんな大酒飲みの酒太りなんかじゃないぞと言って大笑いになった。そんな彼も、酒は嫌いなほうじゃない。割によく飲むほうである。

 「君は以前から、中3の時の担当だった保母さんのことを悪く言って、くすのき学園の頃の話など思い出したくもないとかねて言っているのに、いいのか? 別に無理して行くこともないからな。他の者で回せるし、わしは別に稲田先生には小学校の時にお世話になっているから、その辺の話は全然、問題ない。まあ、せっかくだから、稲田先生の教え子が二人そろって、そのうち一人は今のくすのき学園の卒業生ということになれば、先生も悪い気はされないし、胸を張って教え子たちのおかげとおっしゃっていただけようと思ってのことじゃけど、本当にいいのか、あそこに行っても・・・」

 「ええ、構いませんよ。あの時の担当保母ですけど、ぼくが中学を出てここでお世話になり始めると同時に辞めちゃいましたからね。今は伯父さんの会社で事務員をされていましてね、先月街中で会ったとき、あの頃は申し訳なかったって、B市で市議をしている伯父さんに促されて謝ってこられました。あの人なりに、思うところあったのでしょうね」

 「そうか・・・。わしは養護施設という場所がどんなところか、正直よくわからんから何とも言えんが、先日稲田先生に話を伺いにくすのき学園まで行ってきた時の印象を言うなら、正直、お世辞にも住み心地の良さ気な場所には思えなかった。そこを君は、10年以上にわたってあの場所で過ごしてきたわけか。たいしたものだ」

 「いえいえ、くすのき学園には確かにいろいろ思いもありますけれど、今回はあくまでも仕事として行くのですから、身勝手は言えません。それに、今のくすのき学園は、ぼくがいた頃よりずっとよくなっていますからね。これも稲田先生のおかげですけど」

 「そうか、仕事として行く、のだな・・・。よし、一緒に頑張ってやろう!」

 「はい、よろしくお願いします、監督」

 「明日は日曜で休みだから、あさって月曜の朝からくすのきさんで仕事開始じゃ。わしも工事期間は一緒に行く。ここでうまくできたら、のれん分けしてやってもいいぞ」

 「あ、ありがとうございます! これを機に、一層頑張ります」


 かくして、この日の仕事は終わった。特に急ぎの仕事もないので、明日の日曜は休み。児島青年は、週1日半の休日を今どきの若者のように過ごした。彼は松田聖子のファン。この週末を前にして、新しいLPが発売された。暦の上ではもう夏だが、今の季節感では、まだ夏には少し遠い季節。そんなときに聞く松田聖子の夏の歌が、彼にはなぜか、心地よかった。この日彼は、松田聖子の新アルバムをレコード店で買ってきた。彼は中学を出て母親に再会してたびたび行き来しているが、母としてみれば彼に負い目もあってか、誕生日などの節目には何かを買ってやっている。彼が松木邸近くのアパートを借りたときに買ってもらったというレコードとカセットデッキは、この青年にとって無限の可能性を開くツール。ソフトであるレコードかカセットテープをセットすれば、あとは好きな音楽が好きなだけ聴ける。

 くすのき学園時代には、そんなものを買うゆとりなどなかった。


 夏の扉は、もうすぐ開く頃。彼の心には、さらなる未来への期待感が沸いてくる。

稲田園長はあの年の秋口から、中2までの子どもたちを集めて毎週日曜日の夕方20時から、歌を歌う会を開いていた。彼は幸いにもその会に出されることはなかったが、下級生たち、特に中学生の男子たちにはこの行事は実に不満の種であった。歌わされるのは、小学校かそこらの音楽の時間に習う曲ばかり。稲田園長に言わせれば、歌を歌うことで心優しい人間になれるのだとか。その行事、彼が卒業してからもしばらく続いていた。担当保母は嫌味よろしく、どうせ中学までなのだから勉強なんかするより歌う会に出てみんなと一緒に歌ったらなどと言ったが、稲田園長は、さすがに彼には強制しなかった。

 彼の中学生時代、それまでヒットしきれていなかったキャンディーズが突如人気を集め始めた。18歳でレコードとカセットデッキが手に入ったときにはすでにキャンディーズは解散後であった。それでも彼はキャンディーズのレコードを取り寄せ、カセットテープにダビングして、何度も何度も聴いていた。まるで、くすのき学園で過ごしたことで失ったものを必死で取り返そうとするかのように。

 日曜の夕方、彼はキャンディーズのカセットテープをとり出してきて、デビュー時から解散までのアルバムの数枚分を聴いた。


 日が明けて、月曜日。

 彼は監督の運転する軽トラの助手席に乗って、久しぶりにくすのき学園にやってきた。彼は「松木監督指揮下の選手」としてコテを握り続けた。彼はひたすら、淡々と自らの求められた仕事をこなした。工事は、1か月近く続いた。

 稲田園長が気を利かせて、彼らが行く日は毎日、くすのき学園の給食室が作る食事を彼らに出してくれた。雨の日も、彼らは呼ばれて出向いたほどである。

 児島青年にしてみれば、懐かしい味であると同時に、様々なことを思い出させる食事でもあった。彼らが通い始めて10日ほどしたある日の昼食時、松木氏は意を決し、稲田園長に尋ねてみた。


 「先生、くすのき学園の子らはこんな豪華なものを毎日食べているのですか?」

 

 松木氏は、最初こそこちらが仕事で来ている業者であり、一種の「客人」でもあるからこそ、気を使ってこれだけのものを食べさせてくれているのかと思っていたのだが、毎日通うにつれ、どうもそうではないようだなと思った。児島青年に聞いても、くすのき学園の食事はいつもこのようなものだったというではないか。

 

 松木君の家でどんな食事をしておるのかはわからんから何とも言えんが、実は私のうちでも、ここまでいいものばかり食べているわけじゃないよ。

 君にしてみれば、私なんかは校長までやって定年退職して、さぞや豪勢で美味いものばかりをお召し上がりでいらっしゃるとでも思っているか知らんが、そんなことないぞ。

 くすのき学園も、昔はそうでもなかったらしいが、私が就任してこの方、食育には力を入れていくようにしているのよ。そのあたりは、教員時代の先輩の東航先生が園長をされているよつ葉園さんを参考にさせてもらった。

 あの施設は津島町にあったが、先日郊外の丘の上に移転していった。うちも建替えでも機に移転すればいいかもしれんが、さすがに、そうはいくまい。

 松木君の家で何人食事をしているのか知らんが、うちなんぞ、今は女房と私だけ。時に娘や息子、それに孫が来るけれども、そうでなけりゃ、こんな食事を毎日というわけにもいかんよ。

 だけど、食育というのは、大事だ。こういう場所だからな、せめて、食べるものはきちんとしたものを食べさせてあげないといかんだろ、子どもらにはせめて、な。

 

 松木氏は、恩師の言葉に返す言葉も見つからず、ただただ、黙って頷いた。児島青年もまた、この地を出てこの方、自分が普段食べている食事と比べても、くすのき学園で食べていたものはそん色ないものだったことに、改めて感じ入っていた。少し場の雰囲気がしんみりしてきたので、稲田園長は、場の雰囲気を変えようとした。


 あ、そうそう、明日の献立はカツカレーだけどな、それはさすがに、子ども向けと職員向けで味付けを変えている。

 そういえば、秀一がうちにいた頃、カレーは辛くないと美味くないとか言ったことがあってね。そりゃあ、中学生にもなれば味覚も変わってくるから、そういう子もいるよ、特に男の子には。

 そういうわけで、明日は激辛カレーを諸君には特別にふるまって差し上げよう、なんてことは言わんが、適度に辛くてうまいのをお願いしたいと、給食の栄養士さんには申し上げているからね、乞うご期待だ。


 激辛カレーのくだりで、二人は大笑いした。

 稲田園長は、食を通して、仕事に来たかつての教え子たちに、最大限のもてなしをしていたのである。

 「ええ、私も辛いカレーは好きですから、楽しみにしていますよ。明日は、這ってでも来ますから、よろしくお願いします」

 松木の親方が答えた。この日から、彼らの仕事はさらにペースアップした。


 それから約1か月後。プールは、無事完成した。月末の土曜日の昼から、プールの完成式が行われることになった。この日、松木氏と児島青年の二人も、来賓としてくすのき学園に招かれた。この日は晴天。絶好のプール日和である。

 式典に先立ち、午前中にはプール開きが開催された。

 これにも、児島青年は招かれ、幼児たちの前で、簡単にあいさつした。

 彼はこの日のために母親に買ってもらった夏用の背広を着て、ネクタイをしてきていた。このときは、彼の実母と義父も招かれていた。

 彼が松木監督と一緒に造ったこのプールは、コンクリートで四方を囲い、その中に水道のホースで水を入れただけのもの。ほんの簡単な設備にすぎない。どこかの公営プールや学校のプールのような本格的なものではない。しかし、小さな子どもたちにとっては、まぎれもなく、本格的なプールであることには変わりない。

 この「プール」には、シャワーなどという気の利いたものはない。

 それこそ、プールに給水することも兼ねた、この水道管から出るホースを使って、簡単にシャワー替わりとして、階段前の水浴び場で水を浴びてもらう。

 自分とそれほど年の変わらない保母さんが、子どもたちにシャワー替わりのホースで幼い子どもたちに水を浴びさせる。彼女らに連れられて、自分が作ったコンクリートの階段を上り、子どもたちが次々とプールに入っていく。


 「センセー、気持ちいい!」


 子どもたちが無邪気に水と戯れるのを、高齢の女性理事長と稲田園長、それに卒園生とその職場の上司という大人たちは、微笑をたたえつつ、その光景を見ていた。

 

 これだけのものをきちんと造れるだけの力が、息子についたのか。

 この子には辛い思いをさせたが、こうして人の役に立てる仕事ができているのか。

 

 青年の母親は、息子が生まれた頃のことを思い出し、感極まっていた。その母を、義父が横でそっと介抱するかのように立って、その一部始終を見ていた。

 昼前になって、松木監督もやってきた。彼もまた、背広姿だった。

 彼らは食堂に招かれ、稲田園長とともに食事をとった。この日の献立は、エビフライカレーだった。辛味の利いた、しかしコクのあるカレーだった。

 

 やがて子どもたちも学校から帰ってきて、いよいよ、プールの完成式が挙行された。理事長の挨拶、園長の挨拶、そしていよいよ、彼が話す時が来た。彼が壇上に登る前に、松木監督は簡単に挨拶をしてくれていた。

 

 皆さん、お久しぶりです。児島秀一です。私は、このくすのき学園を5年前に卒園しました。中学を出てすぐ、先程ご挨拶いたしました松木謙太郎のもとで左官の修行に励み、こうしてこの度、くすのき学園に来て仕事をさせていただくことができました。思えば、くすのき学園にいた頃は、辛い思いをしたこともありました。

 しかし、そのことは、置いておきましょう。

 私はこうして、中学を出て5年間、松木のもとで修業し、左官職人として独り立ちできるように、いや、それ以上に、人のお役に立てるものを造っていこうという思いで、仕事に励んできました。休みの日にも、コテを使う練習をした日はいくらもあります。遊びにいくかのように外出して、その実、人が造った仕事ぶりを見に行ったこともね。しかし、こうした場で挨拶できたのは、今回が初めてです。

 それも、幼少期を過ごしたくすのき学園という場所でさせていただけたということは、すごく光栄です。これを機会に、職人として独り立ちできるよう、さらに頑張っていく気持ちがわいてきました。

 このくすのき学園で今暮らしている皆さん、私の知っている子もいればそうでない子もいますし、私がいた頃からおられる職員さんもまだ何人かおられますし、私が卒業したのちに就職してこられた方もいらっしゃいますが、どうか、この場所が、子どもたちにとって暖かい家庭となるように、職員の皆様には一層努力していただきたいと思います。子どもたちには、どうか、しっかり勉強して、いずれ社会に出たらしっかりと仕事して、楽しく実りある人生を送ってほしいです。

 せっかくですので、この際言わせていただきます。

 このくすのき学園で毎日食堂の人が作ってくださる食事は、ほかの家の人たちの日々の食事に比べてもそん色ない、つまり、ずっといいものだということです。

 今回プールづくりに松木と一緒に参りまして、毎日昼ご飯を振舞っていただきましたが、毎日食事をいただくたびに、そのことを改めて実感しました。私がいた頃に比べても、ものすごくよくなっていると思います。

 特に、今日のエビフライカレーは、本当に、おいしかった。

 皆さん、どうか、これからの幸せな人生を送るために、この地でしっかりと学び、よく食べて、寝て、楽しく過ごしてください。辛いことのほうが多いかもしれませんが、それはいつか、いい思い出になるはずです。今日は、ありがとうございました。


 彼は一礼して、壇上から降りた。温かい拍手が、集会室に鳴り響いた。

 

 この仕事でさらに自信を得た彼は、この年の風立つ秋、松木監督からのれん分けの話を受けた。

 風立つ秋に彼が別れを告げたのは、恋人ではなく、彼自身の辛い過去だった。翌年春、彼は自ら左官屋として自立した。

 1982年の春色の汽車は、彼を暖かい家庭の地へと導いていった。

 彼の妻との出会いも、くすのき学園のプール開きの日であった。

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