第3話 禁断の愛のゆくえ ダイジェスト版

  1978(昭和53)年2月下旬 くすのき学園事務室にて


   1

 「合田先生、ちょっとお話があります。園長室に、来てください」

 あの「事件」があった日から2日後。

 朝礼が終ったところで、稲田健一園長は、合田愛子保母を呼び止めた。

 稲田園長の導きによって、合田保母は園長室に招き入れられた。


 「困ったことが、起きましてね。他でもない。あなたに関することです」

 彼女はすぐに、あの「事件」のことだなと思った。


 「まず、事実を確認します。あなたは一昨日、宿直の業務に入っていましたね」

 「はい」

 「一緒に勤務されたのは?」

 「各務先生でした」

 「そうですね。シフト表により、それは明らかです。それでは、あなたは、24時の定期見回りの時間に、義男君たちの部屋を通りましたか?」

 「はい」

 「その部屋の中に、立入りましたか?」

 「はい」

 「なぜ、立入ったのですか?」

 「部屋内の確認のためです」

 「それなら、いいのですが・・・。実は、あなたが、部屋の入口付近で寝ていた三宅義男君の布団の中に入ったという情報が、昨日、私のもとに入ってきました」

 「・・・」

 「各務先生は、その時間は見回りの担当ではなかった。だから当然、あなたの見回りのあとをつけたりもしておりません。ですが・・・」

 誰が一体、あのとき私を見たのかしら?

 誰も見ていたはずなど、ないのに・・・。

 稲田園長は、事実の真相を合田保母に述べた。その事実は彼女にとって、もはや言い逃れができないだけのものだった。

 「たまたま、隣の小学生の部屋に忘れ物をした、担当保母の江川先生が、あなたが義男君の部屋に入るのを見たそうです。部屋に入るのは、見回りという業務で必要なこともありましょうから、この際その善悪は問いません。しかしですよ、よりによって中学生の男子が寝ている布団の中に入って添い寝をするとは、どういうことですか?」

 「・・・・・・」

 「幼児か小学生でも低学年までならまだしも、中学も3年生の男の子ですよ、相手は。布団の中に入って、彼に何かしたのですか?」

 「いえ、何もしていません。彼は、寝入っていましたから。それに、他の子たちも寝ている中で・・・」

 「そうでしょうね。あなたは確かに、彼に何らかの肉体的な接触は、していないでしょう。江川さんも、ここで騒ぎを起こしたらまずいと思って、そっと立ち去ったようです。それから、見回りにしては、少しばかり時間がかかっていたようだと、各務さんからも言われました。あなたは各務さんには、特に問題はなかったと報告されたそうですが、本当に、あの日は、異状はなかったのですね」

 「ありませんでした」

 「それはいいでしょう。ところであなたは、義男の布団の中に、どのくらいの時間、入っていたのですか?」

 「30分ぐらいです」

 「どうして、男子中学生の布団の中に、30分も入っていたのですか? というより、そもそも、彼の布団に入らなければいけない必然性が、何かあったのですか?」

 「・・・・・・」

 「答えは、求めません。求めるだけ、野暮というものです。義男には昨晩、事情を聴きました。彼は、あなたが布団に入ってきたことなど、まったく気づかなかったそうです。あの日の昼は色々疲れることばかりで、ぐったりしていたから、気持ちよく寝入っていたそうです。彼とあなたが何か申し合せて同衾(どうきん)したという証拠はまったくありませんから、あなたや義男になにがしかの処分を与えるつもりもありません。幸いなことに、江川さんが特に他の保母らにこの話をしていないから、まだ全職員の知るところとなってはいないので、緊急に何かの手を打たないといけないほどの事態には至っておりませんが、かといってこのまま放置しては、全職員どころか全児童にも知れ渡り、やがて児童相談所をはじめ、外部でもこの学園自体が問題視される事態を招きかねません」


 ということは、何らかの手を園長先生は打ってくる。もう、逃げられない。

 彼女にとって、一世一代の覚悟を決めるときが、ついに、やってきた。

 少し間をおいて、稲田園長は、おもむろに、彼女に本題を切り出した。


「あなたは、三宅義男君が好きなのですね」

 「・・・はい。・・・」

 「そうですか・・・。いくらあなたの上司であるとはいえ、私はあなたのその気持ちについて、茶化したりするつもりはありません。ましてや、その気持ちを嘲笑し、踏みにじるような権利も権限も、持っていません。しかしながら、ここは、養護施設です。きれいごとかも知れないが、ここを必要としている子どもたちの「家」なのです。あなたは、その家の子どもたちの親代わりともなるべき「職員」です。わかりますよね」

 「はい、わかります・・・」

 「あなたは、確かに、義男君に対して「愛情」を持っている」

 「ええ・・・」

 「ところで、その「愛情」というのは、どういう性質のものでしょうか?」

 「・・・・・・」

 「私が見る限り、その愛情というのは、施設職員の児童に対するモノではなく、女としての、男に対するモノと思われます。異議は、ありませんか?」


 「異議」。

 

 その言葉に、彼女は違和感を持った。ここで何か言葉を投げ返さないと、この場から永遠に解放されない。そんな気持ちが、今の彼女にとってなけなしの言葉を吐き出させた。


 「・・・私は、ただ・・・」

 稲田園長は彼女の気持ちを見越しつつも、必要な情報を得ることに意識を注いでいた。

 「ただ、何です?」

 少し軽めに、老園長はうら若き彼女の発言を後押しした。

 「これまで共に過ごしてきた義男君と、この春にもお別れするのが、切なくて、辛かったのです。せめて、ほんのちょっとでも、彼と・・・」


 確かに、短大を出て間もない20代前半の養護施設の保母であっても、真剣に子どもたちと向き合い、仕事とはいえ「子育て」に励めば、子どもに対する「情」が生まれてくることは間違いない。彼女ではないが、数か月にわたって担当した4歳児が親に引取られて去っていくのを、陰で見送りながら泣いていた若い保母もいた。

しかしこれは、ちょっと、というか、大いに違うだろう。

 稲田園長は、決断を迫られていた。


   2

 このようなことが起こるまでには、本当に、さまざまな伏線があった。昨年、昭和51年度、くすのき学園の入所児童で当時中2の三宅義男少年を担当していたのは、この合田愛子保母だった。もっともその年は、単に、入所児童と担当保母の間柄でしかなかった。そもそも彼らの年齢差は8歳。少しばかり年の離れた姉弟というところが精一杯の関係なのだが、それさえも過剰表現で、あくまでも、養護施設における職員と児童の関係でしかなかった。しかも今年度になって、彼女は彼の担当から外れ、小学生の女子児童の担当になった。彼の担当を引継いだのは、男性の豊島三郎指導員だった。養護施設という場所は学校とよく似たところがあって、担当を外れれば接触もほとんどなくなることが存外あるものだが、合田保母と義男少年の間は、そうはならなかった。義男少年の妹で当時小5の愛美を担当することになったので、そのために両者の接触が幾分維持されたのは確かなのだが、それを割引いても、合田保母からの義男少年への「アプローチ」の度合いが異常に目立った。口の悪い新任の梶川弘光指導員(後のくすのき学園長)はそれを半分は苦々しくも、もう半分は、これは面白いことになったなという思いで見ていたほどである。

 合田保母は、義男少年の担当を外れてからむしろ、義男少年への思いが強くなったようである。彼の妹の愛美を担当していたからというのもある。しかし、そればかりで説明がつかないような感情が少なからずあったことも、確かである。


 試験に向けて勉強中の義男少年に「だけ」特別にワッフルを夜食に与えたり、そうかと思えば、彼の叔母夫婦から言付かったと言いつつも、自分の金でキューピットが矢を射るイラストが描かれたトレーナーを買ってやったり・・・。


 稲田園長は、合田保母の社会的には不適切な「恋心」を、持て余していた。

そしてついに、年度末を控えた1978(昭和53)年2月中旬、決定的な「事件」が起きた次第である。

 なんせ、担当かどうか以前の問題として、20代前半の養護施設に勤務する保母が15歳の男子児童を、という言葉で社会的オブラードに包むのも難なので、この際キッパリ表現する。

 23歳の女性が、恋心を持った15歳の少年の寝ている布団の中に入り込んで、「添い寝」をしたのですぞ!


   3

 実はその前日、稲田園長は入所児童の三宅義男少年に、その件で事情を聴いていた。彼が学校から帰ってきたのを確認した稲田園長は、義男少年を園長室に招き入れた。


 「義男、昨日、合田先生が夜中におまえさんの寝とる布団の中に入ってきたそうだな」

 「ええぇ!」

 青天の霹靂とは、まさにこのことだろう。

彼には何のことだか、さっぱりわかる由もなかった。

 「合田先生がぼくの布団の中に入ってきたってぇ?! いつ頃の話か、かえってこちらが教えて欲しいぐらいじゃ、何なら、それ?」

 「そうびっくりするなって。昨日の夜、12時過ぎの話じゃ」

 「びっくりするなとか、言われる方が無理じゃ!」

 「それもそうじゃが、まあ、そう言わずに話してくれるか」

 「昨日は消灯前に寝込んで、朝の6時まで、まったく目が覚めませんでしたよ。大体、昨日はやたら、学校で忙しかったですからね。帰ったら帰ったで、何やらバタバタしていたし。そんな状態で夜中に起き出して、何をしろというのですか」

 「本当に、何も気づかなかったのか?」

 「しつこいな、あれだけ爆睡して、気が付くわけもなかろうが」


 結局、彼と彼女が示し合わせて「添い寝」したという証拠は何一つ出なかった。


 では、あの日の園長室の話に戻ろう。


   4

 しばらく沈黙が続いた後、稲田園長は、静かに話し始めた。


 年寄りの繰り言、少しだけ、聞いてください。私は60年以上、生きてきました。小学校の教師として、様々な人たちに出会ってきました。師範学校の同級生や、彼らや勤務先で出会った教師の皆さんを通じて知合った先生方の中には、そう多くはありませんが、教え子と結婚した人もいます。たいていは、男性の教師が女子の教え子と結婚するパターンでした。その逆も、稀ではありますが、ないわけではありません。ある高校の女性教師と、その教え子の男性が結婚したという例も、1件だけですが、私も知っています。先生のほうが、5歳年上でした。男子生徒が高3のときの、新任の美術の先生でした。

 学校内で恋愛沙汰を起こして騒動を起こした人は、少なくとも私の周りにはいませんが、学校内でそのような話になるのは、別れ話がこじれたか、さもなければ、どちらか、とりわけ女子生徒の家族が問題視して発覚した挙句に、揉めるというパターンが多かったようです。同僚だった複数の先生方から、様々な事例を伺っていますが、ここでは述べません。

 ところで、合田先生のされていることですけれども、これは、養護施設という職場内で、恋愛沙汰という騒動を起こしている以外の何物でもありません。まして相手は、未成年者です。

 義男君に今後接触するなとは言いませんし、くすのき学園外のことについては、私はそれを止める権限はありません。ですが、このような事実が施設内で表ざたになった以上、あなたに引続きここで勤務していただくわけには参りません。

 今年度末をもって、くすのき学園を退職していただきたい。


 稲田園長は、ついに、彼女に引導を渡した。しかしそれは、くすのき学園を預かる上司として、くすのき学園の職員としての不適切な関係を悪化させないためのものであり、それ以上のものでもそれ以下のものでもなかった。


 「退職しても、仕事がありません。続けさせていただけませんか・・・」

 園長は、何かを考えているようでした。

 「ちょっと待っていてください」

 「はい・・・」

 稲田園長は、事務室から紙とボールペン、それに封筒一通を持ってきた。

 「合田愛子さん、退職願をお書き願います」

 「もし書かなければ・・・」

 「本日をもって、懲戒解職とせざるを得ません。あなたが解雇無効の裁判を起こして争って、仮に勝訴したとしても、失うもののほうが大きいはずです。正直な話、くすのき学園も去ることながら、児童相談所も対応に苦慮するでしょう。下手をすれば、県議会などでも問題にされ、新聞などで大きく騒がれます。週刊誌だって、とんでもない記事の一つや二つ、書くかもしれません。私はそれで園長職を失ったとしても、今さらどうということはありませんが、子どもたちの将来や、他の職員の皆さんの雇用にも、大きな影響が出ます。それを、私は何よりも避けたい。ですから、御自身で退職の意思表示を、今、ここでしていただきたい。そうすれば、わずかでも退職金は出ますし、再就職に差し障ることもありません。保母の資格を活かして仕事をされたいのでしたら、保育園を中心に、私が再就職先を探して差し上げましょう。紹介状も、書いてあげます」


 合田保母は稲田園長の求めに応じ、退職願を記入した。出勤簿に押印する認印は事務所に保管していたので、それを事務所まで取りに行き、そのついでに借りてきた朱肉を使って、自ら作成した文書に捺印し、稲田園長に手渡した。


 「ありがとう。これで、あなたの職歴に傷をつけずに済みました」

 ほっとした表情で、稲田園長は彼女に礼を述べ、その場で退職願を「受理」した。

 「いいですか、これから3月末までは、三宅義男という児童に対しては、必要以上に接触をしないでください」

 「はい・・・、わかりました・・・」

 今にも泣きだしそうになるのを、合田保母は、必死で耐えていた。

 

 「くすのき学園の敷地内と、くすのき学園の関わる行事の場においては、義男君に接触しないように。また、よほどのことがない限り、言葉も交わさないでください。ただし、くすのき学園の関わらない場所については、この限りではありません」


 稲田園長は、意外な言葉を加えてきた。

 合田保母は、思わず、稲田園長の顔を見上げた。

 厳しい顔をしていたはずの園長が、なぜか、微笑さえたたえている。


 「そうそう、ひとつ、肝心なことを申上げておきましょう。義男の妹の愛美の件もありましたな。もちろん、彼女の担当、年度末までやっていただきます。彼らの叔母夫婦、倉敷の土屋さん宅には、退職する旨の挨拶を、早めにしておいてください。そこであなたが義男君と接触しようがするまいが、それは、園長である私はもとより、くすのき学園としても、一切関知するところではありません。他の職員にも、一切関知させません。あなた以外に無用な手を出す職員がいるようなら、私のほうで止めさせます」

 稲田園長は合田保母に、ニヤリと笑って見せた。


   エピローグ

 年度末を前にして、合田保母は、義男と愛美の兄妹の叔母夫婦のところにあいさつに行った。義男少年は、その日、叔母夫婦の家に来ていた。そこで合田保母は、義男少年に別れの挨拶をした。ただしそれは、くすのき学園の保母として、同時にくすのき学園を「卒園」していく元児童に対してのものだった。

 お互いタダの人同士になるところではあったが、三宅義男と合田愛子という人物の個人(男女!)としての関係は、そこからスタートした。


 合田保母は住込みで3年間勤めたくすのき学園の居室を去り、倉敷市内の勤め先の保育園の近くのアパートを借りた。そこはなぜか、新婚者や子連れ向けの物件だった。独身でしかも単身者であるはずの彼女がそこを借りたのかは、いうまでもないだろう。転居して約半年経った頃、そのアパートに、彼女より8歳若い男性が転居してきた。

 それから約1年半後、彼が18歳になったその翌日、二人揃って倉敷市役所に婚姻届を提出した。

 彼らの間には、その後子どもも生まれ、皆すでに成人している。現在彼女は、保育園の園長を務めるかたわら、孫の世話に忙しい毎日を送っている。

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