#19 天性のスター
それはこんな文面だった。
「先ほどはありがとう。遅ればせながら、
お父さま、辰巳
CEO、まあ日本でいう社長だが、それに次ぐポジションの役員らしい。
だから、羽振りはえらくいいみたいだ。
お母さま、すなわち彼の奥さまは先ほども言ったように亡くなられている。
病死とのことだが、すでに十年以上も前のことだそうだ。
お父さまは、これまでずっと再婚せずに男手ひとつでひとり娘の
電話口でお父さまからざっと聞いたところでは、その奥さまの名前はキヨノさん。
そして彼女には連れ子がいて、ミツコちゃんというらしい。
キヨノさんも再婚で子持ちだったということだ。
その娘が姫子ちゃんの義理の姉になるか、妹になるかはよく知らないけれど、そういうわけで現在、辰巳家は四人家族ということになるね。
姫子ちゃんの人となりについては、先ほどわたしが言ったように、開けっぴろげで人懐っこい子だ。
高校は、
学校のランクとしては、中の上といったところかな。
国公立大よりは私立大、それも
姫子ちゃんは、その高校ではまあまあ平均的な出来らしいが、狙っているという某私立大に受かるには、いまひとつ偏差値が足りないらしい。
そこで、優秀な家庭教師を付けることで、確実に志望校に合格出来るレベルにまで持っていきたいとのことなんだ。
今一年生だから、受験まで残すところ約二年。
すぐに結果を出さなきゃいけないわけじゃないから、気楽な仕事と言えば言えるが、それでも今後模試の点数が現状より良くなっていかないことには、意外と短期間でお暇を出されてしまう可能性だってある。
気を引き締めて、取りかかってくれ。
お父さまはわたしがお会いした限りでは、わりあい気さくな方という印象があったから、きみとはわりとウマが合うかもしれない。
ペアレンツ対策も本人対策同様、家庭教師としては怠ってはいけないポイントだ。
せいぜい、お父さまとはうまくやってくれ。
情報としては、こんなところかな。
健闘を祈る」
読み終えて僕は、フゥと溜め息をひとつついた。
これから教える姫子嬢については、伯母さんの言葉を信じるなら、そう手こずることは無さそうだし、お父さまもわりと相手がしやすい方じゃないかという気がする。
しかし、最近新たに加わったふたり、お母さまと連れ子の娘さんについては、伯母さんもじかに会ったことがないようだから、名前以外ほとんど情報と言えるものがない。
若干の、不安というか不透明な要素がないわけではない。
ま、そちらのお子さんに教えるというのではない以上、あまり心配してもしかたがないだろう。
実際に会えば、そんなモヤモヤは簡単に消えるだろうしな。
とはいえだな……。
僕は「ミツコ」というその連れ子の名前に、自分の知っているひとりの女性のことを思い出さざるを得なかった。
……それは、かつての僕の恋人だった。
僕は、図らずもみつ子の面立ちを頭に描き出していた。
僕は別れて以後、彼女の写真はスマホからすべて削除していたから、今となっては記憶が少し曖昧になっていたが、それでも白い歯がまぶしい特徴のある笑顔、ふわっとした髪型が目に浮かんで来てしまった。
「いかんいかん」
僕はそう口に出して、首を強く振った。
みつ子には、一年以上前にはっきりと別れを告げたじゃないか。
今さら思い出しても、何の意味があるだろう。
かつてともに所属したサークルも完全に辞め、スマホの「連絡先」からデータを削除してしまい、もはや連絡を取るすべもなくなった彼女のことを思い出しても。
川瀬みつ子を完全に「過去のひと」にしようと、思い出すことさえ自分に禁じてきたというのに。
彼女と別れてのち、僕は今もひとりではあるが、みつ子はすでに新しい恋人を見つけていたとしても、おかしくない。
みつ子くらい、容姿も中身も魅力のある女性ならば。
そう。僕と別れても、他にいくらでも相手は見つけられるはずだ。
だからもう、みつ子のことを思い出しちゃいけない。
僕はそう、心にかたく決めたのだった。
⌘ ⌘ ⌘
午後三時訪問ということから逆算し、道を間違えたときのことを考えて少し時間のゆとりを取った結果、僕は二時より少し前に家を出た。
今回の訪問も、普段の自分よりはきちんとした身なり、紺のジャケットにストライプのドレスシャツ、ウールのグレーパンツというスタイルだ。
山手線と小田急線を乗り継いで初めての場所、経堂駅に二時四十分ごろたどり着いた。
僕はまず、どちらが駅の北側か南側かを慎重に確認、南側を選択して歩き始めた。
スマホのマップアプリに従って、駅前の商店街をゆっくりと歩いた。
日曜日の昼下がり、家族連れやカップルの買い物客で通りはけっこう賑わっている。
初めての道とは言え、ありとあらゆる業種の店舗が左右にひしめいているこの郊外の商店街は、どこか懐かしさを感じさせるものがあった。
それは、僕のように都会のど真中、コンクリートで完全に固められた街並みの中でずっと暮らして来た者にとっても、なぜかホッとひと息つきたくなるような場所であった。
しばらく「
次第に、周囲の風景は小ぶりな戸建てやマンションの並びから、立派なお屋敷の連なりへと変わっていった。
垣根で囲われ一世紀くらい前からそこにあったと思われるいかにも古風な木造建築から、最近出来たばかりと思われるピカピカの白壁の洋館まで、さまざまなタイプの大型邸宅が続いていた。
こんなすごい家に住むって、一体どんな気分なのだろう。
僕にはとても、そんな家を手に入れられるという気がしなかった。
別にそれを、一生の目標にしてはいないけどな。
「さて、そろそろかな。地番からすれば、このあたりだと思うけどな……」
僕は歩く速度を落として、一軒一軒の表札を確認した。
そんな中でインテリア専門誌の表紙を飾っていてもおかしくないような、突出したセンスの建物が目に止まった。
打ち出しのコンクリートとガラスをあしらい、直線と流線型を大胆に組み合わせた「アヴァンギャルド芸術」といってもいいデザインの家……でいいんだよな?
デザイナーの
「T A T S U MI」
ビンゴ!だった。
⌘ ⌘ ⌘
腕時計を見ると、三時八分前。
オンタイムぐらいでも大丈夫だとよく言われているから、すぐにチャイムを押さずに、もう少し周囲を散策することにした。
いわゆる豪邸、門構えの立派な家はいくらでもあったが、辰巳邸以上に斬新で奇抜なデザインの建物は、やはり見当たらなかった。
三時二分前。辰巳邸前。
僕は大きく息を吸って吐き、しかるのちにチャイムのボタンを押した。
すぐに「はぁい、ただいま」という高めの女性の声で返事があり、奥さまと思われる女性が上品な笑顔で登場した。
年の頃は五十前後か、やや小柄で細身の身体にゆったりとしたホームドレスをまとったその女性の顔立ちを見たとき、僕は奇妙な感覚にとらわれた。
いや、そんなはずはない。
僕がこの方に会うのは、正真正銘、今回が初めてだ。
それは、神かけて誓っても良い。
しかし、その目、鼻筋、口もと、そして少し丸い顔のあごの線、そういったところに、初めて会ったとは到底思えない、懐かしさともいえる感覚を抱いてしまったのだ。
そう。誰かに似ている。
「
おずおずと発せられる奥さまの言葉に、僕ははっと我に返った。
「あ、は、はい。そうです。茂部
はじめまして。よ、よろしくお願いします!」
若干噛み気味に僕はそう答え、ペコリと頭を下げた。
「お待ちしておりました。さ、中へどうぞ」
僕は辰巳夫人に案内されて、邸宅の中に入った。
僕が通されたのは、我が家のそれとは段違いで、確実に三十畳以上はあろうかという、広々としたリビングルームだった。
しかも、連なっている二つの面がほぼ全面ガラス張りである。
その時は外のサンシェードや内側のブラインドを上げていたこともあり、部屋は陽光に満ち溢れており、さながら温室のようだった。
こんなに広いリビングは、比較的裕福な家庭の子弟が多い、わが大学の友人の家でも見た事がなかった。
思わず言葉を失って、僕は立ちすくんでいた。
すると、カジュアルなシャツを着て革張りのソファに座っていたひとりの男性が立ち上がって、僕にこう挨拶をした。
「茂部さん、ようこそ辰巳家へ。
わたしが姫子の父、秀一です。はじめまして」
奥さま同様、五十歳前後と思われる、長身の壮年男性だった。
澄んだ大きな瞳、しっかりとした鼻筋、ひきしまったあごの線。
彼のギリシャ彫刻のような顔立ちに、僕は目を見張った。
そしてその顔はよく陽焼けしており、往年のラグビーの人気選手、平井誠一を思わせる精悍さに溢れていた。
辰巳氏は僕に近寄り、右手を差し出して来た。
僕はそのまま彼と握手を交わすことになった。
大きく、がっしりとした手だった。
『うわ、カッコいい親父さんだな』
自然と、そういう感想が湧き出て来たのだった。
天性のスター、そういうヤツだな。
そういえば、僕の父も辰巳氏とほぼ同じ年代だろう。
僕は日頃、父はルックスも社会的地位もかなりいい線行っているんじゃないかと内心思っていた。
が、こうして
そんな気がして来た。
世の中、上には上がいるのだ。
「茂部さんのことは、いろいろと
わたしも実は明応の法学部の出身なんだ。
まぁ卒業後、アメリカに留学して、いまの仕事に
「そうなんですか。辰巳さんは大学の先輩でもあったんですね。
若輩者ですが、なにとぞよろしくお願いします。
ところで、よく陽に焼けていらっしゃいますが、何かスポーツでもなさっているんですか?」
先ほどから気になっていたことを、僕は尋ねてみた。
辰巳氏は頭をかきながら、こう答えた。
「いやぁ、テニスとかラグビーとかやっててこうなったと言いたかったんだけど……実はゴルフ焼けなんだ。これは。
要するに仕事、お社交さ。スポーツとは言いがたい。
日本で会社をやっていると、こういうお付き合いばっかりなのはやり切れないよねえ。
本当は学生時代みたいに、一日中テニスをやっていたいんだけどね」
そう言って、辰巳氏は屈託なく笑った。
その笑顔が、僕にはまぶしく感じられた。
あの大空で光り輝く太陽のように、気負いもなくごく自然に主役の座をつとめている、本当にそんな人なのだろう。
そういう彼のDNAをじかに継ぐひとり娘は、いったいどんな形でスターぶりを発揮しているんだろうか。
否が応でも、興味は高まった。
折りしも、先ほどはいったん座を外していた辰巳夫人がリビングに戻って来た。
後ろに、もうひとりの女性を伴って。
辰巳氏が反応した。
「おう、ようやくやって来たな。
姫子、きょうからおまえに勉強を教えてくださる茂部先生だ。ご挨拶なさい」
僕のふたりめの教え子(となる予定の)辰巳姫子がそこに立っていたのだった。(続く)
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