第36回

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 落下していき――軀が草のなかに突っ込んだ。背中の下に枝だろうか、硬い感触があった。ただの草叢ではなく、低い庭木のようなものの上に落ちたらしい。

 みしみしと枝が軋む音がしたので、全身の力を抜いた。どうにか折れずに持ちこたえてくれたと確信できる段になって、私は吐息した。濃密な葉っぱのにおい。

 衝撃はほとんどこの庭木が吸収してくれたようだ。庇うように手足を丸めていたおかげか、目立って痛むところもない。高所から落ちたのは遊覧船のときに続いて二回目だが、二回とも大きな怪我を負わずに済んでいるのは僥倖と呼ぶほかない。

「なに? なにが起きたの?」

 顔を上げると、掘建て小屋から墓守のポーリーが飛び出してくるところだった。そう、私は人形の墓場に落とされたのだ。

「人間の子だ! 月の子が帰ってきたぞ!」グリフィンの姿を捜して見上げたが、すでにその影は消え失せていた。代わりに頭上には私がパープルヘイズと胸の内で名づけた紫色の幽霊たちがいて、大騒ぎをしながら浮遊している。「ポーリー、ここだ! 早く手を貸してくれ。空から降ってきたんだ」

 駆け寄ってきたポーリーが私を助け起こし、軀についた木の葉を払い落としてくれた。

「まさか、あなたがまたここに来るなんて。しかも空から! なにがどうなってるの?」

「とりあえず――助けてくれてありがとう。色々あって」

 色々……本当に色々なことがあった。私は首元に手を触れた。善き月のしるしは――ある。

 すべて思い出せる!

「佳音を助けなくちゃ」

「佳音?」とポーリー。

「友達。私、本当は早く逃げ出したかった。パープルヘイズに言われたことも、最初はちゃんと信じてなかった。でもこっちに佳音が掴まってて――デイジーの月の呪いは、人形を毀すことだけじゃない。私たちの世界から人間を誘い込んで、人形に変えるの。向こうとこっちを行き来して、やっと判った。私が佳音を助ける。だから逃げないでここにいるの」

 早口でそう言ってから、改めて戻ってきた理由を説明した。幽霊たちは輪になって廻りながら、

「呪いの力はもう、そんなにも強まっているのか」

「友を助けるためには呪われたデイジーと戦う必要があるということだ」

「月の呪いを解くために立ち上がってくれるのだな」

 幽霊たちは、がやがやと話し合いながらメリーゴーランドのように回転していたが、やがてぴたりと動きを止めた。

「人間の子、あれはなんだ?」

「下敷きにしていたものらしいな」

「潰れているようだぞ」

 指摘されて振り返った。私が落ちてきてめちゃくちゃになった庭木のうえに、ぬいぐるみのシャドウェルが乗っていた。可哀相なことにお腹のあたりがへこんでいる。私が怪我をせずに済んだのは、シャドウェルがクッションの役割を果たしてくれたからだったのだ。

 私は慌ててシャドウェルを抱き上げ、軽く葉っぱやごみを払ってから持ってきた。必ず役に立つ、というキャロルの言葉は早くも実証されたことになる。

「それ、デイジーの人形じゃないね」とシャドウェルを一目見るなりポーリーが言う。「壁の外はともかく、この人形の街にデイジーのものじゃない人形がいるなんて」

「これは私のだよ。私が外の世界から持ってきたの。でも、この国の人形みたいに動いたり喋ったりはしないみたい」

「中身が空っぽなんだろう」幽霊の一体が近くまで飛んできて、物珍しそうに観察している。「俺たちに軀がないように、その人形には中身がないというわけだ」

 私はシャドウェルを持ったまま、高い高いをするように両腕を伸ばした。この太った、白と紫色の衣装を着込んだ道化師の姿――。

「ねえ、人形が死ぬ条件は誰からも忘れられることだって言ってたよね? ということは、死んで幽霊になった人形、あなたたちはデイジーの所有物じゃないの?」

「その通り」答えたあと、幽霊たちは「そうだ。約束を守らなければ」と言い合いながら、全員が一か所に寄り集まって、太ったひとりに変わった。代表の一体が話さなければならない、というポーリーの前回の指示に、律儀に従ったというわけだ。

 彼(彼らというべきか)と再び対面して、私の直感は確信に変わった。頭の中でキャロルの言葉を反芻する。使い方は私次第。

「俺たちはもうデイジーの人形ではない。持ち主の記憶から完全に消えているわけだから、もちろん所有権もなくなっている」

「もうひとつ質問。幽霊は生者の領域に踏み込むことができない――つまりこの墓場から出られない。そうだよね? なぜ?」

「単純に軀がないからだ。幽霊の状態で墓場から出ると完全に消滅してしまう」

 思った通りだ。私は拳を握った。これが上手くいけば――。

「軀はここにある。そしてあなたたちに持ち主はいない。じゃあこのぬいぐるみの中に入って、私の人形になってくれる?」

 私がシャドウェルのへこんだお腹をぽんと叩きながら言うと、幽霊たちはまた弾けるように分裂し、騒がしく飛び廻りはじめた。お互いに絡んだり離れたり、なんだかふざけ合うような飛び方だ。

「凄いことを考えるな」

「さすがは月の子だ」

「しかしその軀、さっきまで尻に敷かれてたやつだぞ」

「それも悪くない」

 私は幽霊たちを見上げて、声を張った。

「死んだ人形の幽霊たち――あなたたちに新しい名前と、役割と、物語を、私が与えてあげる。私と一緒に来て。この人形の国を救って」

「引き受けた!」

 返事は全員の合唱だった。幽霊たちがいっせいに、シャドウェルのお腹へと突進してくる。彼らが飛び込んでいった部分が紫色の渦になっているのが見えた。最後の一体がそこへ入り終えると――渦が消えた。

 すべての幽霊を呑み込み終えたシャドウェルが、風船を膨らませるように大きくなり、ますます大きくなり、とうとう私の手から飛び出して、何度か跳ねてから着地した。背丈はポーリーと同様、人間の子供くらいだが、太っているぶん彼女よりずっと大きく見える。

 シャドウェルが地面に立っている。自らの意思で。

「あなたはシャドウェル。私を助けてくれる素敵な人形」

「俺はシャドウェル」と彼は繰り返した。「このでぶな道化が素敵かどうかは――いや、持ち主が素敵だと言うからには素敵に違いない。君を助けよう、どんなことがあっても」

 傍らで一部始終を見ていたポーリーが、ぽかんと口を開いて、

「こんなことって……ありなんだ。あなたは本当に、この人形の国の呪いを解くかもしれない」

「当たり前だ」シャドウェルが断じる。「そうと見込んだからこそ頼んだ。俺の新たな主人は特別なお人なのだ」

「急に偉そうになっちゃって」ポーリーが悪戯気な表情で舌を出した。それから声色を穏やかにさせて、「でも、これで私の墓守としての役目は終わったってことだね」

「そうなるな。ポーリー、世話になった。また会うこともあるだろう」

 シャドウェルの言葉には応じず、ポーリーは彼の隣に並び立った。私のほうへと向き直ると、彼女は黒いスカートの端をつまんで姿勢を低くした。

「墓守はすべての幽霊に奉仕するための存在だから、所有権は働かない。つまり私もデイジーの人形じゃないってこと。その代わり、デイジーは私に魔法をかけた。すべての幽霊がいなくなるまで、私が墓地から出られないように、と。だから私は、人形の国でどんな恐ろしいことが起きようとも、この墓場に留まって見ているしかなかった。今までは」

 ポーリーの掌が私に向けて差し出される。

「墓守としての役割がなくなった私に、新しい役割を与えてほしいの。もし連れていってくれるなら――あなたを守る。どんなことがあっても」

 今度は私がぽかんとする番だったが――私はその掌を取って、ぎゅっと握った。

「よろしく、ポーリー」

 ポーリーが笑顔を泛べた。私は笑いかえした。

「真似をするな。俺が先に伊月の人形になったんだぞ」とシャドウェルがポーリーに詰め寄った。「誓いの科白までほとんど一緒じゃないか。どういうことだ」

「固いことを言わない。伊月の人形どうし、これからも、末永く、仲良くしてあげる」

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