暗闇の世界

聖願心理

まだ薄暗い

 僕は校門が開くと同時に、学校の敷地に足を踏み入れる。

 そんなに早く登校して、何をしているのかというと、それは勿論、勉強だ。放課後は部活があり、帰宅するとすぐに疲れて寝てしまうので、こうして朝早く来て、誰もいない静かな教室で、勉強をしているのだ。


 予習、復習、課題。

 やるべきことはたくさんあり、終わりが見えない。あてのない船旅をしている気分で、時々溺れたように息が苦しくなる。


 数学のベクトルの問題がわからなくて、手が止まる。はあ、と息を吐き出すの同時に、この苦しくてもやっとしたものが一緒に出て行かないかな、と願うが、そんな都合のいいことは起こらない。もやもやした気持ちの悪い何かが、僕を支配する。


 はあ、とも一度息を吐き出す。冬なので、息が白い。もう1月だ。どうりて手がかじかむわけだ、と当たり前のことを今更ながら実感する。ふるふるとシャーペンを持つ手が震えている。

 もう少しすれば暖房もつくのだろうが、こんな早い時間から学校に来ているのは、少数派だ。そんな少数派のために、早い時間から暖房をつけるなんて、そんな馬鹿なことはしないだろう。


 そうして、僕は寒さを誤魔化すように数学の教科書と向き合う。意味のわからない記号やアルファベットが、這うように襲ってくる。


「外よりはマシだけど、寒いなぁ」


 そんなことを呟きながら、1人の少女が教室の扉を開けた。そして、僕の方を妖を見ているかのような瞳で見て、呆然と立ち尽くしている。


 整えないまま乱雑に伸ばした腰まである真っ黒な髪。制服は新品のように傷一つなく、彼女に馴染んでいない。肌は綿のように真っ白で、体調が悪そうに見える。手足も細く、痩せているので余計にだ。


 そんな少女を僕は知っていた。


「誰もいないと思っていたのに」


 彼女はしくじった、と言わんばかりにそう小声で漏らし、頭をかく。当然ながら、闇のように暗い髪は、余計くしゃくしゃになる。


「僕の方こそ、驚いてる」


 彼女の言葉に答えるように、僕もぽつりと言葉を落とす。無意識だった。そのくらい、驚いていた。


 こんな時間に何故、人が来るのか。

 そしてそれがどうして、不登校の少女・小鳥遊たかなし月花げっかなのか。


「私が学校に来るのがそんなにおかしい? ……おかしいか」


 そう自分の問いに自分で答えながら、教室の中に入って来た。歩くたびに、長い黒髪が揺れる。


「どうして来たか、当てて見せてよ」

「え」


 小鳥遊さんは、自分の席に座った。小鳥遊さんの席は窓際から1番目の列の真ん中の僕の席の、右斜め前だ。椅子を斜めにして、小鳥遊さんは僕をまじまじと見てきた。


「私、どうしていきなり学校に来たと思う?」

「……学校にまた通うからじゃないの?」

「面白味のない答えだね」

「普通、そう考えるだろ」

「だから君はつまらないんだよ、五十嵐いがらし悠真ゆうま君」


 そんなことを言いつつも、小鳥遊さんは口角を僅かにあげていた。


「……僕のこと覚えていたのか」

「当たり前でしょ。こんなつまらない人、忘れるわけない」


 その言葉に腹が立つが、事実なので何も言い返せなかった。少なくとも、彼女よりは“つまらない”と自覚していたからだ。


 と言うより、彼女が特殊すぎるのだ。


「それで、小鳥遊さんはなんで学校に来たの?」

「世界を救うためだよ」


 吸い込まれそうな瞳を、小鳥遊さんはしていた。その声のトーンは、偽りなんか混じっていないようだった。そして何より、彼女の纏う特殊な空気が僕を侵食してきた。


 突拍子もない言葉に、思わず「はあ」とため息のような声を出してしまう。

 そんな僕を見て、けらけらと小鳥遊さんは笑った。


「冗談に決まってるでしょ」

「……今のは冗談の雰囲気じゃなかった」

「やっぱり君は、面白いね」


 けらけらと、小鳥遊さんは笑い続ける。何が面白いのか僕にはさっぱりわからなくて、そんな彼女を見つめているしかなかった。


「正解は、学校を辞めるから、でした」

「え」


 予想外な言葉。今度は冗談じゃない、本気なんだと、直感的に感じた。


 小鳥遊月花が、学校を辞める。


 何も意外なことなんてない。

 クラスメイトに名前を覚えられているかどうかもわからないくらい、彼女は学校に来ていないのだ。学校を退学しなくても、進級ができないのは確実だ。

 学校を中退する。

 何も不自然なことではない。


 それなのに僕は、激しく動揺していた。どくどくどくと胸の鼓動は早くなる。思考は止まる。頭が真っ白だ。


「私にしては、そんなに面白い答えじゃないでしょ」

「………」


 多分、僕は動揺で、変な顔をしているのだろう。僕にもどうしてこんなに動揺しているのか、わからない。彼女とは、そんなに親しい間柄でも、なんでもないのに。


「……そっか」


 小鳥遊さんは僕の動揺する姿を見て、嬉しそうな悲しそうな顔で、そう漏らした。僕の気持ちに彼女の方が早く気が付いたみたいだ。


「君は信じてくれていたんだね。私が、ここに戻ることを」

「……そうなの、か?」

「君の気持ちでしょ、私にはわからないよ」


 哀愁を帯びた顔をした彼女は投げやりに言う。でも、僕にもこの動揺の理由がわからなかった。


「……ねえ、小鳥遊さん」

「どうしたの」

「僕が君に会いにいった日のことを覚えてる?」

「覚えてるよ」



 洞窟のような真っ暗で空気の悪い室内。

 光はパソコンの画面とカーテンの隙間から差し込む太陽だけ。

 無秩序に散らばる紙やペットボトルや書籍。

 カタカタと静かに音を立てるキーボード。


 そんな中に、君はいた。


 春が終わり、梅雨が見えてきたそんな時季の話だ。


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