小説 養護施設 1 よつ葉園編

与方藤士朗

第12話 理事長先生の講話

 2019(令和元)年12月7日(土) よつ葉園集会室にて


 12月X日は、児童養護施設よつ葉園の創立記念日である。その日のある週末の7日の土曜日の夕方、よつ葉園では、創立記念式典を行った。1936(昭和11)年に岡山市津島町に設立され、今年で創立83年。1981(昭和56)年、津島町から郊外のこの丘の上に移転してから38年の月日が経っている。夕方の式典開始にあわせ、各寮、そして各グループホームなどからも、続々と子どもたちと職員たちがやって来る。集会室は満杯になった。子どもたちと職員、それに、来賓が数名。

 開始時刻が到来した。司会役の伊島吾一園長が、開会を宣言した。

 

 それでは、令和元年こと2019年のよつ葉園創立記念日を祝う会を開きます。

 今日の開会に先立ち、まずは、前園長の大槻和男先生からのお話があります。大槻先生はご存じのとおり、今から50年以上前、大学を出てよつ葉園に就職して以来、50年間にわたってこのよつ葉園に勤めて来られました。最初は児童指導員として14年間、その後園長として36年間にわたって、このよつ葉園で過ごした子どもたちの父親として、そして、今ここにいる子のおじいさんとして、このよつ葉園で理事長として、皆さんを見守ってくださっています。それでは、大槻先生、よろしくお願いいたします。


 大槻理事長は、壇上に立った。今日は、三つ揃いのグレーのスーツにネクタイ、ネクタイの色に合せたカフスボタンとポケットチーフを身にまとっている。背後にある国旗にお辞儀し、壇上にある講演台の後ろに立った老紳士は、少し周りを見渡し、ざわつきがなくなったのを見はからって、ようやく話し始めた。

 

 今年は、このよつ葉園が昭和11年、1936年の12月に創立されて83年目の年になります。創立記念日は今週のX日でしたが、平日でしたので少し遅れましたけれど、今日、開催することになりました。この後は、恒例のすき焼きがあります。待ち遠しいでしょうけど、少しだけ、私の話に付合ってください。昔の卒園生の方には、この行事の最初の「園長先生のお話」が長くて辛かったと、当時の不満を言っていた人もおられます。私がよつ葉園に勤める前におられた方も、就職後におられた子もおります。私も、その人たちのお気持ち、よくわかります。私も、前の園長先生たちのお話、長いかどうかよりも、それは違うぞ、なんて思いながら聞いていました。でも今は、その先生たちと同じぐらいか、むしろ私のほうが年上になっていますから、やっぱり、皆さんも昔の子どもたちと同じようなことを感じているかもしれません。私よりはるかに若い職員の皆さんにしても、そうかもしれません。ですから、できるだけ短くお話ししますね。


 よつ葉園は、児童養護施設という名の施設です。はるか昔、私が生まれた頃には、「孤児院」と呼ばれていました。今日こちらに来られている作家の米河さんは私の上の息子より1歳上ですが、彼がよつ葉園におられた頃は、単に養護施設と呼ばれていました。

 よつ葉園のような子どもを育てる施設の名前は、国会で決められる法律によって定められています。その法律が変わったから、このように名前も変わっていったわけですが、よつ葉園という名前は、80年以上前から、ずっと一緒です。児童養護施設の役割や雰囲気は、今では昔とかなり変わりました。しかし、様々な事情によって家庭で暮らせない子どもたちを預かって育てていく場所であることは、昔も今も変わりません。よつ葉園だけじゃない。児童養護施設と呼ばれる場所にいる子どもたち、皆さんもそうですけど、育ってきた中で、家の中や外、その他いろいろなところで、厳しく辛い環境にいた子がほとんどです。それはもちろん、あってはならないことですが、それでも、そのような子どもたちのために、よつ葉園もまた、国の法律で定められた児童養護施設のひとつとして、この83年間、最初は津島町で、そして今はこの丘の上で、存在し続けてきました。

 私は、このよつ葉園を日本一の児童養護施設にしたいと思い、50年間ここで仕事してきました。その間に、日本一の施設にできたかどうかはわかりません。しかし、それを私たち職員がこれからもたゆまず目指していくことが、今この地で暮らしている皆さんの将来にとって、何かのプラスになってくれたらよいと思っています。

 私は、ここにいる子どもたちみんなに、ひとりひとり、今どんな状況でどんな悩みを持っているのか、将来どうしていきたいのかを尋ねて、解決策を一人一人に合せて作ってあげたい。ですが、私一人でできることじゃない。そのために、児童指導員や保育士、臨床心理士といった先生方に来ていただいています。先生方は、皆さん一人一人のためになるよう、頑張ってくれています。


 もちろん、ためを思えばそれでいいというものでも、「一所懸命」やりさえすればいいというものでもありません。それは効果のある対応でなければいけない。

 社会常識や法律から外れたことや、本人の意思を無視したことをしてはいけない。そのことを厳しく指摘してくれた卒園生の方がいます。

 こちらの米河さんと同じ年のZさんという人がいました。彼はこのよつ葉園が始まって以来、初めて国立のO大学の法学部に現役で合格し、昼間印刷会社の正社員として働きながら大学を卒業しました。彼がこのよつ葉園にいた今から30年ほど前はまだ、私には力がなかった。彼は、私にとっても当時の先生方にとっても、厳しい指摘をたくさんされました。それに対して、私たちが何かを返せたかというと、胸を張ってよくやりましたとは、とうてい言えません。今ここにいる皆さんに対しても、よつ葉園の先生方の至らないところは、あるでしょう。


 ここにいるみんなに尋ねたい。今はこのよつ葉園で日々の生活が送れていますね。例えば、小遣いが少ないとか、あの先生が気に入らないとか、ちょっとした、いや、大きなものかもしれませんが、不満はいくらもあるかもしれない。単なる不満ではなく、実際に思うようにいかない、うまく行かない、そんなこともあるでしょう。そんなことを、私は誰かを名指して、どうかなどとこの場で問うことはしません。

 思うようにいかないこと、うまく行かないこと、悩みは、みんなあると思います。 私にもありますし、職員の皆さん、それに今日お越しの米河君にも、皆さん、今の置かれた状況の中に、うまく行かない辛さのようなものを抱えているはずです。


 そんなときは、人に頼ればいいのです。


 さてここで、皆さんに尋ねたい。仕事って、何のためにあると思いますか?

 あなたは、台所で今日の食事を作れるかもしれない。今日のすき焼き、ちょっと、考えてみてごらんなさい。野菜、こんにゃく、牛肉、卵・・・。いろいろな食材がありますね。

 昔は七輪に炭火を起して炊いていましたが、今はガスコンロで炊いています。そのガスコンロにしても一緒。

 それらをすべて、あなたは、一から作り切れますか?

 

 ここにおられる米河君は、小説家になっておられます。確かに小説に限らず、人が読んですごいと思う文章を書けます。たいしたものです。ただ、酒を飲むのが好きで、ちょっと飲みすぎだぞと思うこともありますけどね。

 ですが、彼が自分の飲む酒を自分で造ったという話は、聞いたことがありません。米河君は小説を書いて読者の皆さんからいただいたお金を持って酒屋に行って、ビールを買って飲んでいるのです。酒屋さんやビール会社の人は、酒を買ってくれた人たちからいただいたお金をもらって、生活しています。

 そこで米河さんが、何を思ったのか、自分は酒が造れるぞとか何とか言い出して、自分でビールを造って飲んだり売ったりしたことがばれたら、税務署の人に捕まって国の法律で罰せられますよ(笑)。

 仕事とは、人ができないことを代りにして、その代りにお金をもらうことで成立っているのです。

 先程の酒の話を、よく考えてごらんなさい。

 何でも一人でできるものではないし、できるとしても、してはいけないことがあるのです。


 仕事といっても、お金の絡む話ばかりじゃない。

 今、あなたの悩みを聞いて、それを解決してくれる人がいます。その人は、お金なんか請求しない。あなたが問題を解決して元気になってくれること、それが一番の喜びだと、おっしゃる。その人には、甘えてもいいのです。

 一人でできることは、それほどたくさんは、ない。

 ですから、今、思うようにいかないことがあるとか、うまく行かないことがあるとか、そういうとき、あなたは、その人に頼ったらいいのです。あなたがいい方向に向かっていけること。それが、頼られた人にとっての最大の報酬なのです。


 ここで一言だけ、断っておきたい。単にわがままなだけの甘えは、駄目ですよ。

自分さえよければいい、この問題さえ解決すれば、あとはどうでもよい。ましてや、その人を利用して何かしてやろうとか、そういう行動をとるようでは、もちろん駄目。頼ってばかりでは、いつか、人から相手にもされなくなります。それで人に救われたなのなら、同じように困っている人を助けてあげなさい。そして、いつか、あなた自身が、人から頼られる人に、なって欲しい。それが、助けてくれた人たちに対する一番の恩返しです。

 

 笑いあり涙あり。大槻理事長の話は、この後しばらく続いた。時間にして、10分程度だっただろうか。子どもたちには、涙を流して聞いている子もいた。若い女性職員の何人かもまた、彼の話を、じっくりと味わうように聞いているうちに、涙がこぼれるのを禁じえなかった。米河氏は、大槻氏の若き児童指導員時代、そして園長就任後の姿を思い出して、感慨深いものを感じていた。目の前の老紳士は、もうすぐ75歳。今の彼には、若い頃の激情家の要素はない。これまでのことを自ら総括し、そこから醸し出される円熟味のある言葉を、彼は、今の子どもたちと若い職員たちに、静かに淡々と示した。今年で50歳になったばかりの中年作家は、その光景を、黙って見ていた。


 大槻和男理事長の話の後、米河氏をはじめ、来賓の何人かから挨拶があった。最後に、伊島吾一現園長があいさつをした。かくして、式典は30分程度で、無事に終了した。


 この後は、いよいよ、創立記念日恒例「すき焼き」の会。集会室にこたつが置かれ、その上に、ガスコンロと食器、そして、食材が次々と並べられていった。やがて、子どもたちと職員たちが各自のテーブルに着き、いよいよ、毎年恒例のすき焼き会が始まった。

 このすき焼き、生卵につけて食べるのが昔からの吉例。少し年長になると、卵を1個と言わず複数個使って食べる子も。今や卵は昔ほどの高級食材ではない。

 だが、この卵こそがこのすき焼き会の「目玉」であることは、昔も今も変わらないようである。

 

 実はですね、一度だけですけど、免税店のものじゃなくて、日本国内で作られた税抜き密造ビールを飲んだことがありましてね。あれは、鉄道趣味の会の幹部をされている柳田町の酒屋の藤木さんという方が、ビールのキットを買ってきてそれで発酵させて、アルコールのあるビールにしたものでした。ビールの大瓶40本分ほど作って、結局、16本ほど成功しました。スパークリングワインのような味でしたな。


 米河氏は、同じテーブルに着いた大槻理事長と伊島園長の前で、すき焼きを煮込みつつ、用意されたビールを飲みながら、語った。

 「おい米河君、そのワインみたいな密造ビールとやらは、うまかったのか?」

 大槻理事長の問いに、米河氏は、グラスの中のビールを飲み干して、言った。

 「ええ、大槻さんの御期待に沿える味かはともあれ、私が飲む限り、旨かったです。鉄道趣味の会関係者が何人か集まって、朝から飲みまして、おおむね1時間半で昼前に全部飲み切りました。その後はカラオケ喫茶に行って、今度は普通に酒税のかかったビールを飲みながら、夕方まで歌いまくっていました。あとにも先にも、酒税のない日本製の酒を飲んだのは、このときだけですけどね」

 「そりゃまた、米河さん、すごいものを飲まれましたね。しかし、うちでそんなものを作ったら、大問題になりますよ。私は、子どもらのために、時々、たいやきを焼いています。密造酒よりもたいやきの方が、リスクもないし子どもたちにも喜ばれますよ」


 「泳げたいやきくん」世代の米河氏より一回り若い伊島園長が、少し面白おかしく答えた。彼は何かの行事のときには、たいやきを作って子どもたちに食べさせることがあるという。そのたいやきだが、もっぱら、おいしいとの評判だ。

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