八 それからのこと

 貞観十七年、四月。あれから一年が経った。


 李承乾しょうけんは廃され、庶人に落とされた。魏王李泰もまた皇室を荒らしたとして廃され、こちらも庶人に落とされることとなった。二人はともに都を追放され、はるか地平の彼方へと追いやられた。皇帝はそれまでの間、幾度となく二人の息子の元を密かに訪ねたと言われている。

 皇太子が廃されたことで比武召妃は中止となり、一切の記録からも抹消された。皇太子妃の座を得られなかったことを悔やんだ妃嬪もいたが、もしも皇太子妃になってからあの謀反騒ぎが起こっていたらと思えば誰もがぞっとして口を噤んだ。そうしていつしか誰もその話はしなくなった。


 後宮にはまた退屈な日々が訪れていた。


「待ってよ、ねえ武姐々ねえさん、待ってってば!」

 後宮の庭を少年が走る。彼が追いかけるのはそのずっと先を行く妃嬪の後姿だ。これがまた風に乗るかのように早い。少年がぜいぜいと息を切らしていると、いつの間にやらすぐ目の前まで戻ってきては追いつくのを待っている。

「急ぎなさいな。もうあの人は待ってくれないかも」

 そんな、と漏らす少年を置いてまたさっさと先に行ってしまう。そんなことを繰り返し、少年はようやく玄武門に到着した。韋貴妃が景気よく花火で吹き飛ばしたあと、その再建はようやく八割がた進んだところだ。


 門前ではまた別の妃嬪が待っていた。隣には近侍が一人並んで立っている。徐恵と楊怡だ。

「武才人、遅刻よ。あなたともあろう人が珍しい」

 徐恵がからかうように言う。武才人がわざとらしくしかめっ面を作ってやると花開くように笑うではないか。楊怡までもが笑みを隠さないでいる。いくらなんでも侍女が妃嬪に対して遠慮がなさすぎではなかろうか。武才人はやれやれと肩をすくめてこちらも微笑を浮かべる。

「私一人なら遅刻なんてしない。でもこちらの方がどうしても一緒に行くと言ってきかなくて」

 武才人がそう言って徐恵の肩を小突くと、そこへようやく少年も到着した。徐恵は膝を折って少年にあいさつする。


「ごきげんよう、皇太子」

「や、やめてくれよ。まだそう呼ばれるのは慣れていないんだ」

 ぶんぶんと両手を振って応じたのは晋王李だ。ただし今の彼は晋王ではない。李承乾が廃されたのち、彼が新たな皇太子に立てられたのだ。

「じきに慣れます。それに少しずつ、皇太子としてのあり方を学んでいかなければ」

 徐恵の言葉に李治は不安そうな表情を浮かべた。眼前の二人の妃嬪を見比べる。

「僕は二人の兄上以外で文徳皇后の血を引く唯一の男児だから皇太子にされたんだ。絶対に承乾兄上が次期皇帝にはふさわしい方なのに」

 言ってしまってから、李治は自身が失言したと悟った。今や自分自身が皇太子なのに、謀反を起こして廃された兄を皇帝に推すとは。


 だが徐恵も武才人もその発言を気に留めた様子はない。むしろニコニコとして、徐恵は李治の頭を撫でたほどだ。

「生まれながらに皇太子にふさわしい人間なんていません。あなたはこれから少しずつ、あなたなりの形で学んでいけば良いのです。そしてあなたなりの皇太子になればいい」

 なれるだろうか、との不安を李治は飲み込んだ。きっとその疑問はこれからずっと付いて回る。そのたびに誰かに気休めを言ってもらって何になるだろうか。なれるかどうかではなく、ならねばならぬのだ。


 婕妤、と楊怡が声をかけ、徐恵と武才人そして李治は示された方角を見た。

「おっと美女が二人も見送りとは、モテる奴はつらいねぇ」

 やってきたのはへらへらした猿顔の孫だ。その手には手綱が一つ、旅装を整えた馬を連れていた。さらにその後ろから胡服に剣を佩く人物が一人。

「変なことを言わないでよ。私は別にモテたりなんか」

「あら、私は流螢のこと、好きよ?」

 すかさず徐恵が被せたので、胡服の人物――流螢は顔を真っ赤にしてしまった。


 あの日、流螢が飲んだのは解毒薬だった。もちろん流螢は皇太子の脚を不自由にした責任を再び追及される覚悟だったが、皇帝はそれを不問とした。曰く、処刑されるべき飛麗雲はすでにこの世にいない、と。


「徐恵、本当にありがとう。そして、ごめん」

「いいのよ。流螢が決めたことだもの。本当にあの人のところへ……承乾さまのところへ行くのね。私も陛下が行くところなら地の果てだってついて行くもの」

「ええ、あの方が生きている限り、私はあの方のお側に仕えたい。たとえあの人の妻になれず、愛されることがないとしても」

 うん、と徐恵は頷いて。二人はどちらともなく歩み寄り、そして固く抱き合った。もしかするとこれは今生の別れになると、互いに察していたのかも知れない。


 李承乾が都を去ったその夜、流螢は心を決めた。徐恵に後宮を出すように願い出た。徐恵は深く聞かずにそれを許した。流螢はそうすべきなのだと徐恵も思っていたのだろう。

「これは私からの餞別よ。大事に使ってね」

 徐恵は楊怡から受け取った帷帽を流螢に被せる。その左耳がかかる部分の薄紗には布の花が縫いつけられていた。はじめて二人が出会ったとき、流螢が補修したあの帷帽だ。いつかの上元節のように流螢はまるで青年のような姿になった。


「楊怡、どうか徐恵のことをよろしく」

「もちろん。私の命を救ってくださった方だもの。一生をかけてお仕えするつもりよ」

 楊怡は皇帝毒殺を目論み、その罪は死に値する。しかしながら徐恵は皇帝を必死で説得してその一件をなかったことにした。皇帝は公には言わないものの、称心の死が皇太子謀反のきっかけとなったことを理解しており、称心を自死に追いやった誤りを認めていたようだ。その後悔がなければたかだか宮女一人の恨みなど首を斬って終わらせたはずだ。

 洪掌門の仇討ちは成った。もはや後宮に留まる理由もない楊怡がそれでもここに残ったのは、その恩義があったためである。

「おかげでもう清寧宮の備品を壊されずに済むわね。すみを焼かれることも、お茶で服をびしょ濡れにされることも」

「それはもう言わないでよ!」

 流螢はごしごしと右頬を肩にこすりつけてから、楊怡ともまた固く抱きしめ合ったのだった。


「一つだけ、心残りがある」

 ため息のように漏らす武才人の言葉に流螢は首をかしげる。何を言いたいのか察した徐恵はやれやれと頭を振った。

「武才人は本当に血の気の多い人! これからは私の練習相手になるって約束でしょう?」

「それでもやっぱり、私は朱流螢と本気の手合わせがしてみたかった」


 またその話か。流螢は苦笑いを隠せない。比武召妃が中止になってからというもの、武才人は頻繁に清寧宮を訪問するようになった。それまでは自己を守るためだった武芸が、比武召妃を通して自己表現の手法へと変化したらしい。訪問のたびに流螢との手合わせを願い出るのだが、本気になってはいけないからと徐恵が毎回なだめすかして一緒に鍛錬するに留めていた。それが今度は流螢が後宮を出ていくと知り、とうとう居を清寧宮へ移してしまったほどだ。


「できるだけ早く戻って来て。さもなければあなたの相手をするのは私ではなく、私の娘かも」

 これには流螢、徐恵と顔を合わせて瞠目した。武才人には子を産む予定があるのだろうか。皇帝はあれからも妃嬪を夜伽に呼ぶことはないと聞いていたが。

 すると武才人はちらりと視線を背中側へ。そこでは李治が武才人の服の裾を握って流螢らを覗き見ていた。

「将来有望株よ」

 小声で言ってぱちりと片眼を瞑ってみせる武才人。これには清寧宮の女三人、思わず舌を巻く。李治が自身を庇ってくれた武才人を頻繁に見舞っていたことは知っていたが、まさかそのような仲に発展していたとは。


「お別れの儀式は終わったか? それじゃあそろそろ門を開けるぜ」

 孫が急かし、流螢は馬に跨る。門が開かれるや吹っ切るように鞭を当てた。馬は一目散に走り出す。


 生涯得難い友人たちに背を見せて、海を越え山を越え、地平の彼方へ走り去った。

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