六 死と再生

 内廷には掖庭えきていと呼ばれる一角がある。そこは皇帝に敵対した者やその一族が戸籍を剥奪され奴婢として収容される、いわば重罪人の牢獄である。


 格子窓からふらふらと迷い込んだ蛍光が一つ。それをぼんやりとした目で麗雲は追った。

 兵士たちによって拘束された麗雲はこの掖庭の石牢に放り込まれ、戦々恐々として過ごしていた。いったい何が皇城で起こったのかは知らないが、皇太子が負傷したとなれば大事件だ。そして麗雲はその現場に居合わせた。無関係だと主張して聴き入れられるとは思えない。

 考えれば考えるほど恐ろしい。きっと今にも獄吏らが押しかけて、なぜ皇太子を害したのか、誰の命令なのか、麗雲が知りようもない事柄をひたすら問い詰めてくるのだろう。それこそ、想像もできない責め苦を与えて無理にでも絞り出そうとするに違いない。


 首を刎ねてやる――憤怒の形相で発せられたその言葉が耳に蘇る。


 ぞっとした。この身はきっと、五体満足ではいられない。それどころか生きてこの石牢を出ることからして絶望的だ。あの迷い込んだホタルのように、この儚い命はあと数刻でこの石牢の染みと変わり果てるのだ。

 どうしてこんなことになったのか、それを問うだけムダなこととは理解しつつ、麗雲は嘆かずにいられなかった。あの場で武芸の鍛錬をしていたのが間違いなのか。密談の場から遠ざかることなく、要らぬ関心で聞き耳を立てたことが誤りなのか。


 ――ああ、きっとそうだ。一生関わることのない政界の趨勢など麗雲の知ったことか。誰が誰を陥れようと、我が身には一切関わりのないことだった。例え何かしらの陰謀を知り得たとして、このか弱い女の身の上で何ができよう? 自身が何もできない無力な人間だということは、ずっと前から知っていたではないか。


 思えば母も弱い女性だった。暴力的な父にいつも服従し、その言いなりで、毎日を怯えて暮らしていた。父の暴力の矛先が麗雲に変わったときは安堵したように縮こまり、麗雲を花鳥使かちょうしへ売りに出した日さえ別離を惜しむでもなく、ただ明日からまた自分一人で暴力に耐えなければならないのだと悲観しているようだった。麗雲はそんな母を恨みはしない。ただただ、憐れと思っただけだ。


 そして今、自らも母と同じ、弱い人間だと思い知らされた。

(師父……私は結局、最後まで弱いままでした)

 抗うことのできない人生だった。誰かに利用されるばかりの人生だった。どれだけ武芸を学ぼうと、あの刺客には手も足も出なかった。弱き者は強き者によって支配される。麗雲はとうとう最後まで支配される側だった。ただの一度さえも、それを覆すことはできなかった。


(それどころか、私が弱いばかりにあの人に……皇太子に怪我を負わせてしまった!)

 これが何よりも麗雲の心を絞めつけた。誰かのために行動したつもりが、結局は他者を傷つけた。それもこの国の未来を担う皇太子に! それがどれほどの大事か理解できぬほど麗雲は愚かではない。

 いつの間にか涙を流していた。これから迎えるであろう拷問の恐怖に耐えかねての事なのか、あるいは薄幸の身の上を嘆いての事か、それとも不甲斐ない我が身を嘲笑ってのことなのか。それは麗雲自身にも判別つかなかった。


「……泣いているの?」

 床にうずくまっていた麗雲に、頭上から問いかける声が。聞き覚えのある声だ。はっとして顔を上げた麗雲の目の前、思いがけない人物がそこに立っている。

 ああ――表情が歪む。これは夢か幻影か。


「徐恵! ああ、あなたは無事だったのね?」

 格子の合間から手を伸ばすと、徐恵は優しくその手を握りしめる。

「事件については知っているわ。私たちはあなたを助けに来たのよ、麗雲」

 私たち、と言われてようやく麗雲は徐恵の背後にもう二人の姿があることに気づいた。


 一人は見覚えがある。清寧宮の侍女、楊怡よういだ。薄暗い石牢の廊下を照らしているのは彼女の手にある燭台だ。侍女らしく顔を伏せ口を閉ざしているが、ちらちらと視線を上げて麗雲と徐恵のやり取りを盗み見ている。

 もう一人はひょろりとした小柄な老人だ。枯れ木に服を着せたような印象を受けるが、その衣冠は位の高い大臣のものであると麗雲は一目で見抜いた。徐恵もその視線を負って麗雲の疑問を察する。


「こちらは諫議かんぎ大夫だいぶおよび太師たいしを務める、ちょうさまよ」

 麗雲は慌ててその場に膝を突いてひれ伏した。徐恵が述べた二つの役職、そのいずれも朝廷の要職ではないか。真正面から立って直視するなど無礼も甚だしい。

奴婢ぬひ麗雲、魏大人たいじんにお目通りいたします」

「礼は要らぬ。立つがよい」

 温和な中にも強い意志を感じる、そんな声だ。麗雲は礼を述べてまた立ち上がった。顔は伏せたままだ。老大臣は徐恵と入れ替わりで石牢の前に立つ。


「今宵の事件について、見聞きしたすべて、話してもらおうか」


 麗雲がちらりと徐恵を見ると、徐恵は静かに頷いた。二人の関係はすでにこの魏徴に知られているということだ。そこで麗雲は己の見聞きしたすべて、洗いざらい話した。承慶殿で武芸の鍛錬をしていたこと、何者かが現れ密談を交わしていたこと、隠れていたのが見つかり殺されそうになったこと、皇太子がそこへ駆けつけ窮地を救ってくれたが、麗雲を庇って負傷したこと。


 魏徴はやれやれと呟きながら頭を振った。

「皇太子には困ったことだ。いつでも我一人ひた走り、家臣を置き去りにして単身敵陣に飛び込むとは」

「皇太子のご容態は? 無事なのですか?」

 その問いには徐恵が答えた。

「まだ気を失われたままだけれど、命に別状はないそうよ。ただ……」

 濁した言葉の先を魏徴が引き取る。


「太医が言うには、膝蓋骨を砕かれて完治は無理とのことだ。生涯に渡り歩行に難が残るだろうと。まったく、たかが宮女を妃嬪と見誤り、あげく御身を損なうなど愚の骨頂! 明日には誰もが噂しておるだろうな。皇太子は天命なく、ゆえに皇后の亡霊に脚を折られたのだと!」

 その言葉にぞくりとした麗雲は慌ててまたひれ伏した。明らかに怒りの感情が混じった言葉だ。皮膚が裂けるのも構わず額をごつごつと石の床に叩きつける。

「奴婢の罪は万死に値します!」

「そうだとも、万死に値する! 陛下は迷わずそなたを斬首するように命じられた」


 ぷつ、と何かが麗雲の中で切れた。心のどこかで期待していた生への執着、その最後の頼みが立たれたのだ。やはり己は今夜死ぬのだ。その運命をはっきりと突き付けられた瞬間、麗雲の体から一切の力が抜けた。ひれ伏した体勢からそのまま床に這いつくばる。

「私はやはり、死を賜るのですね……?」

「違うわ、麗雲。それは違う。あなたにはまだ生きる道が残されている」

 徐恵の言葉にがばっと顔を上げる。切れたはずの命綱が再び眼前に垂れ下がる。麗雲は迷わずそれに飛びついた。


「どうすれば? 私はどうすれば良いのですか?」

 徐恵はその問いに直接答えず、ちらりと楊怡に目くばせした。楊怡は前に進み出て魏徴にこうべを垂れる。


「恐れながら申し上げます。この者の話にあった、下手人が口にした品――麗人草、月華蝶、紫根女人花、そのいずれも女性を賦活する希少な薬草です。髪に艶を与え肉付きを良くし、肌を潤します。さらには招子丸しょうしがんという妙薬の材料となり、これを夜伽よとぎの直前に服用すれば懐妊しやすくなると言われています」

「宮中でそのような妙薬を求めるのは、いまだ陛下との間に子を持たぬ妃嬪以外にあり得ぬか」

 うむ、と魏徴は頷き、そして麗雲に向き直る。


「そなたには二つの道がある。一つは、このまま掖庭に捕らわれ、遠からず皇太子暗殺未遂の下手人として死罪となる道」

 うっ、と呻いたきり麗雲は何も言えなかった。当然の帰結だ。夜の内廷を勝手に歩き回り、要らぬ好奇心で政争に首を突っ込んだ末路として当然のことだ。

 死にたくない、まだ生きていたいと叫ぶことは簡単だ。だがそれで何が変わる? 麗雲は黙って魏徴の次の言葉を待った。この身に死以外の道があるとすれば、それはいったい何だ?

「もう一つは――我らに協力し、皇太子殿下の敵を排除する道だ」

 皇太子の敵を排除する――何を言われたのか、麗雲にはすぐには理解できなかった。


「今宵、殿下は夜警の責任者を務めていた。しかし何者かが――そなたが見たという女が――あろうことか皇帝のおわす甘露殿に迫り剣を振るった! 幸い死傷者はなかったが、あのような不届き者の侵入を許した時点で夜警責任者の罪は重い。下手人の目的もまさにそれ、殿下の地位を揺るがすことが目的だったのだ」

「それはつまり……皇太子を廃位させることがあの人たちの目的であると? そうだ、そういえば……亭の下にいた人物は、殿下と呼ばれていた!」


 そうだ――魏徴は大きく頷いた。

「不届き者は剣を振り回すばかりで陛下に迫ろうともせずあっさりと引き上げた。元より騒ぎを起こすことだけが目的だったのだ。殿下の評価を貶め続ければやがては廃位されることになる。それもこれも次の皇太子位を狙ってのことだ。今宵皇城に滞在し、なおかつ殿下と呼ばれる地位にある者の中で、疑わしい人物が三人いる」


 魏徴は手を掲げ、まず一本指を立てる。

「一人目は呉王ごおう、李かく。陛下の三男だが、前朝の公主楊淑妃の子であるため皇太子位からは遠ざけられている。二人目は斉王さいおう、李ゆう。陛下の六男で殷徳妃の子だ。素行が悪く度々陛下によって叱責され、今は遠方の地に留め置かれていることを不服としている」

 三本目の指を立てたとき、魏徴は深く息を吐いた。

「そして三人目が魏王ぎおう、李たい。陛下の四男で文徳皇后の子、そして陛下の関心を買おうとさまざまな策を巡らせている。今回の件についてももっとも怪しいが、なにぶん証拠が何もない」


「私は何をすればよろしいのですか?」

「皇太子を害した下手人を探し出せ。下手人が女であり、三種の妙薬を求めていたのであれば、それは後宮の妃嬪に違いない。ほんのわずかでも良い、手掛かりを見つけ出すのだ。――できるな?」


 魏徴の瞳が老人とは思えないほど鋭く光る。麗雲は心臓を掴まれるかのような感覚を抱きつつ、冷静に記憶を掘り起こした。

 亭の下で話していたあの特徴的な甲高い声。麗雲はまだそれを覚えている。声さえ聞けばその正体はたちどころに知れるだろう。それになにより、ここで「できません」と答えられる道理がなかった。


(ああ、麗雲よ麗雲。いったい何を迷うことがあるの? 引き受けられなければ死罪が確定する。他に選べる道などありはしないのに。結局はここでも、お前は誰かに望まれたようにしか生きられない。そのような天命の下に生まれてきたのよ)

「――できます。必ずや皇太子殿下の敵を見つけ出します。それで私の罪が少しでも償えるのなら」

「よろしい!」


 魏徴が手招くと、楊怡が歩み寄って扉の鍵に手を伸ばす。獄吏から預かったと思しき鍵がその手にあった。カシャンと音を立てて扉が開かれる。

「策は追って知らせよう。これよりそなたは清寧宮の侍女として徐婕妤と共に過ごし、機が熟すのを待て。飛麗雲という名の宮女は今この瞬間を以て死罪となった。徐婕妤、この者に新しい名を与えてやりなさい」

 はい、と答えた徐恵の眼前を、ふわ、と緑の光が飛んだ。徐恵はそれを横目で追って、それから何か納得するように小さく頷く。


「――では『夕殿せきでん珠簾しゅれんを下ろし、流螢りゅうけい飛んでむ』の一節から、姓をしゅ、名を流螢りゅうけいでいかがでしょう?」


 学のない麗雲にはさっぱりその文句の意味を理解できなかったが、どうやら有名な詩歌からの引用らしい。牢の扉を一歩出たところで跪き礼を述べる。


「飛麗雲改め、朱流螢。魏大人と徐婕妤の計らいに感謝いたします」

 こうして飛麗雲の名を持つ宮女は死に、朱流螢は清寧宮の近侍となった。

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