三月の雪女

プラナリア

名残雪

その女性ひとに出会ったのは、春というにはまだ早い3月初旬、凍てついた空が夕暮れに差し掛かった頃だった。

家賃3万3千円也、安普請のアパートの前。買い物帰りに、一人、道端にうずくまる彼女を見つけた。

顔を伏せてはいるが、背に流れる艶やかな黒髪は、若い女性のようだ。これまで女性に縁が無い生活を送ってきた僕は、声をかけるのを躊躇ったが、具合でも悪かったらいけない。なけなしの勇気を振り絞り、彼女の傍らに身を屈めた。

「大丈夫ですか」

つと顔をあげた彼女は、黒目がちの瞳で僕をまじまじと見つめた。鼻梁が通り、整ってはいたが、能面のような無表情。透けるような肌の白さが眩しくて、目を逸らす。

「……どうか、しましたか」

相手が無言なので、仕方なく言葉を継ぐ。

一転、彼女の表情に生気が満ちた。

長い睫毛に縁取られた瞳が輝き、薄い唇の端が持ち上がる。

「春を、見つけまして。眺めていました」

「は?」

僕は思わず問い返す。アパートの周囲はいつも通りうら寂しい。この週末は寒波がくるとかでまた冷え込み始め、春の気配など微塵も無い。

「ほら」

彼女は手を上げ、地面の一点を指した。そのほっそりとした指先を辿ると、僕でも名を知るありふれた野の花が揺れていた。

ナズナ。

見落としそうな白い花弁、小さなハートを重ねた葉。

黙りこんだ僕に、彼女は微笑みかける。

「いつものように歩いていたら、なんだか辺りが明るくなってきたのですわ。視界の隅にきらりと光ったものがあって、何だろうと思ったら、この花が咲いていたんです。急に周りが色づきだして…あぁ、今年もまた春が巡りきたのだと思いました。嬉しいわ。3日間だけの、束の間の春ですけれども」

3日間だけの春。

混乱した僕を余所に、立ち上がろうとした彼女が、不意によろめいた。反射的に手を伸ばす。支えた背中の仄かな温もりに狼狽え、しかし同時に違和感を覚えた。丸襟がレトロな、淡いきなりのワンピース。この寒さの中で、上着も着ず。

「あなたは…?」

思わず聞いて、ひやりとした。

それを知ったら、戻れない。

果たして、彼女はひっそりと笑って言った。

「私は、雪人ゆきんと。雪女ですわ」


いつものように自室に帰り、買い物袋の中身を冷蔵庫に入れる。夕飯の冷凍うどん、小葱、玉子。僕のささやかな日常。

「変わったお部屋ですわねぇ」

容赦なく日常を壊す、彼女の存在。

僕は眩暈を覚える。何故、こんなことに。

寒空の下、薄着の彼女を見るに忍びなく、そして「雪人ゆきんと」という言葉の響きに惹かれ、つい部屋に招き入れてしまったのだ。あやかしに魅入られたかのように。

或いは、本当にそうなのかもしれない。

一口コンロに片手鍋を置き、火を点ける。鍋の水に軽くあぶくが立ったところで火を止めた。ようやく発掘した急須にほうじ茶のティーバッグを淹れ、鍋から湯を移す。湯呑みを出すような客は来ない。よって来客用の湯呑も無い。適当なマグカップに注ぐ。

炬燵こたつに茶を運ぶと、彼女は珍しげに室内を見渡していた。遠慮しているのかなんなのか、炬燵には入らずちょこんと正座している。大学生男子のひとり暮し。特に珍しいものなど無い。困惑しながらコップを彼女の前に置く。

「ありがとうございます」

彼女は大事そうにコップを両手で包み、一口啜って、ほうと息を吐いた。

「…あたたかい」

僕も向かいでコップを口に運ぶ。少し薄かったお茶を、彼女は丁寧に味わっている。

「他人様にお茶を淹れて頂く日がまた来ようとは、思いませんでした」

しみじみ呟く彼女。

「どうぞ、炬燵、入ってください」

僕が落ち着かないのでそう言うと、彼女は慎ましやかに足を差し入れ、しかし次の瞬間炬燵布団をめくって「まぁ!暖かい」と感嘆の声を上げた。

落ち着いた所作と言葉遣いで年上と思っていたが、何故か炬燵にはしゃぐ姿は、僕とそう変わらぬ気もした。

「私が彷徨ううちに、この世はだいぶ、様変わりしたようですわね」

「彷徨うって?」

彼女は改まって僕に向き直った。その瞳が遠くなる。

「長い話になります」

前置き通り、それは長い語りだった。


彼女が雪人になったのは、終戦間近の春のことだった。

一年前の春、彼女は祝言を挙げた。お見合いで出会った5つ年上の彼は、いつも穏やかで、優しい人柄だった。近所に住む姑からは嫁として厳しく躾られたが、彼女はこれも女の宿命と粛々と受け入れた。同じように黙って耐えていた、母の背中を知っていた。

彼女が住む街にも、時折冷たい鉄の雨が降った。防空壕の中で轟音に怯え、必死に祈る日々。歯の根が合わぬような恐怖は、慣れるというより心が麻痺していくのだと知った。それを抱えて日常を生きていくために。

木枯らしと共に、彼女の夫に手紙が届いた。薄桃色の令状。ささやかな幸せを紡いでいた彼女の日常は打ち砕かれた。

共に日々を重ねる中で、少しずつ降り積もっていった夫への想い。最後まで淡々と過ごす夫の前で、彼女は涙を見せてはいけなかった。姑や近所の人々と一緒に、万歳三唱で彼を見送った。


彼と再び、春を迎えることは、叶わなかった。


彼は帰らなかった。彼の永遠の不在を告げる紙切れだけが、彼女に残された。

彼女は涙を見せなかった。お国のために身を捧げた夫を、誇りに思わねばならなかった。


「そんな時、あの方に出会ったのですわ。…まるで湖面のような、静かな瞳でした。あの方は、私に言いました。『その悲しみと、共に居たいのですか』。私は、あの方と、血の交換をしたのです」


「血の交換?」


「あの方は、雪人でした。雪人と血の交換を交わしたら、末路は二つだとあの方は言いました。自らも雪人となり、永遠に彷徨うか…雪人が消えるか」


「永遠に彷徨う?」


「雪人になれば血は凍り、何も感じぬ人形のようになって、彷徨うのです。凍てついた悲しみを抱えて」


僕は言葉を失う。つまり、彼女は、悲しみと共に彷徨うことを選んだのだろうか。永遠に。


「雪人が消えるというのは…」


「分かりません。…3月の巡りきた3日間だけ、雪人の身にも血が通い、あたたかな情が湧きます。私が出会った雪人も、その束の間の春の最中さなかでした。春の間だけは、雪人も人と交わることができますから。雪人が消えるのもまた、春なのだそうです。その時は、雪が降るのだとか。三月の、名残雪ですわ」


そこまで語り、俯いていた彼女はゆっくりと顔を上げた。僕は彼女の瞳から、視線を逸らせない。


「雪人は、春の間は人の目に映りますが、すぐその存在は記憶から消え失せる。普通なら、私と長く言葉を交わすことは無いのです。あなたの何かが、私に呼応している。……あなたは、悲しみを抱えているのですか?」


僕は、意思の力で目を逸らした。


「馬鹿なことを。僕には永遠に消えぬ悲しみ等無い。そんな劇的なエピソードなど、在りませんよ。ありふれた、つまらぬ人生です。残念ですが」


僕は立ち上がる。気付けば窓の外には闇が広がっている。思いついたまま口にする。

「腹が減りませんか」

何でも良かった。凍てついていく部屋の空気を、変えられたら。

夕餉ゆうげに何か、お作りしましょうか」

彼女まで立ち上がったのにぎょっとする。狼狽する僕に構わず、彼女は嬉しそうに台所を覗く。僕が冷蔵庫を開けると、例のごとく歓声を上げた。興奮した様子で冷凍うどんに触る。成る程、戦前にはこんなもの無いわけか。

「大したものは、無いのですが…」

もともと食にこだわりは無い。近所にコンビニや定食屋が無いため、少し離れたスーパーに出向き自炊することもあるが、大したものは作れない。惣菜で済ますことも多い。

今夜も簡単にうどんを湯がく予定だったが、どうしたものか。

振り向くと、彼女は勝手に棚を開けている。

「こちら、使ってもよろしいですか」

郷里から送られてきたが、持て余して存在を忘れ去っていた高野豆腐。僕は無言で頷く。

彼女は早速、鍋に水を張った。コンロの扱いに苦心しており、僕が回して火をつけてみせると小さく拍手した。

慣れた手つきでリズミカルに小葱を刻む。彼女の表情が明るくなってゆく。水を得た魚だ。

鍋が沸騰したところで高野豆腐を投入。ふわふわになったそれを取りだし、また切っていく。

出汁はあるかと聞かれてめんつゆを差し出す。

再び鍋に湯を沸かし、どこからか発見したらしい鰹節のパックを投入。丁寧にすくった後、めんつゆを回しいれて味見し、そっと冷凍うどんを沈める。頃合いを見て高野豆腐を一緒に煮る。

台所にあたたかな夕餉ゆうげの匂いが立ち込める。

玉子を適当な椀に割りいれて溶き、菜箸から丁寧に鍋に流し入れる。高野豆腐に玉子が絡んだところで火を止め、余熱で仕上げる。最後に散らした小葱が彩りを添えた。

「どうぞ」

二人分のうどんを丼に盛り、微笑む彼女。

「…いただきます」

自然に、手を合わせた。一人の食卓は、いつも無言だ。自分のために作られた食事。固く強張っていた体が、ほぐれてゆく。

柔らかな高野豆腐を口に含むと、出汁が身に沁みた。鰹節を入れたためか、いつものめんつゆが、奥深い。

向かいで彼女も、しみじみと丼を見つめている。

夫とも、こうやって、幾つもの夕餉ゆうげを共にしてきたのだろうか。

二人、無言でうどんを啜った。


高野豆腐のおかげか、思ったより腹が膨れた。久々の満足感。

食べることは生きることだ、と、昔誰かが言ってたなと思う。日々にとりまぎれて忘れているけれど、本当は、大事な営みなんだな、と。今日の食事が明日の僕を形作る。

「ご馳走さまでした。美味しかったです」

僕が頭を下げると、彼女も炬燵から出て正座し、手をついて丁寧に頭を下げた。

「私こそ、図々しく御相伴に預かりまして。…このようにあたたかいお食事、忘れません。どうもありがとうございました」

立ち上がる彼女を見て、僕は慌てた。何に慌てたのか分からないまま、声を掛ける。

「もう、行くのですか」

「すっかりお邪魔してしまいました。楽しゅうございましたわ」

「…行く宛は、あるのですか」

無い、と分かっているのに、それを聞いた。

彼女は無言で振り返る。

「こんな寒い中で…」

「たとえ血が通っても、雪人。凍え死ぬことはありません」

一度海に入ってみたのですけれど、と何気無く呟く。

「沈んでいったはずなのに、気付いたら、元の浜辺に立っていたんです。死ぬことも、出来ないんですわ」

僕は思わず、彼女の手を掴んだ。

あたたかな、温もり。

「三日だけなのでしょう。その間、ここに居てください。春でさえ、凍えて過ごすというのですか。ここで、束の間の春を謳歌すればいい」

僕と彼女の視線が交錯する。

ふっと、彼女は頬を弛めた。

「変わったお人ですね。……お名前は、何というのですか」

「晴彦です」

「晴彦さん。それでは、お言葉に甘えて、春の間お世話になります」

彼女は深々とお辞儀をした。僕もぎこちなくお辞儀を返す。

ふと、気付く。

「あなたの名前は?」

「私に、もう名は無いのですわ。雪とでもお呼び下さいませ」

名前が無い訳は無い。思い出したくない、ということだろうか。僕はしばし思案した。

「……雪子さん」

呼び掛けると、彼女は頷いた。

それが、僕と雪子さんの三日間の始まりだった。

















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