第5話 七夕さらさら

七夕さらさら 今年は織姫と彦星が会えるらしい。なんでも、一年に一度、七月七日の夜に天の川が増水して、カササギという鳥が翼を広げて橋を作ってくれるのだそうだ。

「だから雨だと駄目なんです」

と彼女は言った。

その日も雨だった。

夕方から降り始めた雨は夜になってもやむ気配を見せず、むしろどんどん強くなっているようだった。雨粒が窓を叩く音が聞こえてくるほどだ。こんなときでもなければ、僕は外の音など気にせずに本を読んでいただろうけれど、今日ばかりはそういうわけにもいかなかった。

なぜならば。

「うーん……どうしようかなぁ」

ベッドの上であぐらをかいたまま、僕は首をひねっていた。目の前には一枚の紙切れがある。そこに書かれているのは数字の羅列だ。

携帯電話で日付を確認する。六月二十二日水曜日、時刻は夜の九時四十分。あと三十分もしないうちに、待ち合わせの時間である十時になろうとしていた。

「……やっぱり行くしかないよなぁ」

ひとりごちながら、僕はもう一度手に持ったメモを見る。そこには電話番号が書かれていた。そしてその番号の主こそ、今日の待ち合わせ相手なのだ。

しかし電話をする踏ん切りがつかない。電話をかけるというのはなかなか勇気がいる行為だと思う。特に僕みたいな人間はなおさらだ。

迷っているうちに時間は刻々と過ぎていく。時計を見ながら何度もため息をつく。それでも決心できないままに、とうとう約束の時間になってしまった。

「……よしっ!」

気合いを入れるように声を出して立ち上がると、僕は意を決して電話の前に移動した。深呼吸をして、受話器を取る。

『はいもしもし?』

すぐに若い女性の声が聞こえてきた。ちょっと緊張したような感じだ。

「あの……こんばんは。えっと……」

いきなり詰まってしまった。何を言おうか決めていなかったからだ。

「えっと……その……」

焦りまくった僕の脳裏に、ふと昼間読んだ雑誌の記事が浮かんできた。

『女の子へのプレゼント』

そう、今日はこれを買うためにわざわざ外出してきたのだ。なのに肝心のプレゼントを渡す相手が見つからない。なんて情けないんだろう……。

自己嫌悪に陥りながらも、僕は必死に言葉を探した。

「あ、あの……こないだの話ですけど」

『え?……ああ! はい!』

向こうの女性が何かを思い出したような声で答えた。

「あれってまだ有効ですか?」

『もちろんですよ! いつでもOKです!』

弾むような明るい返事を聞いて、ほっとすると同時に嬉しさを感じた。良かった、なんとかなりそうだ。

「じゃあ明日とか大丈夫ですか?」

『はい、いいですよ。どこにします?』

「えーっとですね……」

それから場所を決めて、待ち合わせ時間を決めた。

『わかりました。それではまた明日の朝連絡させてもらいますね』

「はい、よろしくお願いします」

通話を切ると、どっと疲れが出てきた。なんというか、すごい緊張感だった。この瞬間までまったく実感していなかったけれど、これはデートということになるんじゃないだろうか。

今までの人生で女性とお付き合いをした経験はない。そもそも異性に対してあまり興味がない方なので、自分から積極的にアプローチしたこともなかった。そんな僕にとって、今のこの状況はかなりハードルが高い気がする。

「でもまあいいか……」

何しろせっかくのチャンスなのだ。ここで頑張らなくていつやるのか。

それにしても。

「……織姫と彦星かぁ」

窓の外を見ると、相変わらず雨は降り続いていた。カササギが翼を広げて橋を作ってくれるという話だけど、天の川は増水しているらしいし、果たしてうまくいくだろうか。

そんなことを考えているうちに眠くなってきた。僕はあくびをすると、電気を消して布団に入った。

目が覚めると昼だった。

「しまった……寝過ごした」

慌てて起き上がって部屋を見回す。昨夜遅くまで頑張っていたせいで、机の上には何冊もの本が散乱していた。どうやらそのまま突っ伏して寝てしまったようだ。

「まずいなぁ……早く出かけないと」

とりあえず服を着替えようと立ち上がったところで、電話が鳴った。

「はいもしもし?」

『おはようございます。昨日お伝えした件なんですが、今日の午後一時に新宿東口でよろしいでしょうか?』

昨日の彼女からの電話だった。時計を見て確認すると十二時五分前である。

「はい、大丈夫です」

『ありがとうございます。それではまた後ほど』

電話が切れると、僕は急いで着替えを始めた。

待ち合わせ場所は、新宿駅の東南口改札を出たところにある広場だった。休日だけあって、かなり人が多い。僕は待ち合わせ場所に指定した柱の陰に立って、腕時計を見た。十二時二十七分である。

「さすがにまだ来てないか」

辺りを見回しながらつぶやく。

「……あれ?」

そのとき視界の端で何かが動いた。見ると、駅の反対側にある百貨店の入り口あたりに、何人かの人の姿が見えた。しかもその中の一人である女性が、こちらに向かって歩いてくるではないか。

「もしかして……あれが?」

僕は少しの間、あっけに取られて立ち尽くしてしまった。まさかこんな偶然があるとは思わなかった。

「こんにちは」

女性は僕の目の前に来ると、笑顔を見せて挨拶した。

「どうも……」

戸惑いながら僕が答えると、彼女は「うふふっ」と笑って言った。

「びっくりしました? 実は私も同じなんですよ」

「同じ……ってことは、あなたもこの近くで用事があったんですか?」

「そうなんです。それで、ちょっと早めに来て待ってようと思って。そしたらそこに、ちょうど私が会いたいと思っていた人が来ちゃったので、思わず声をかけてしまいました。すみません、驚かせて」

「いえ、それは別に構わないですけど……」

僕は改めて彼女の姿を眺めた。

背丈は百五十センチくらいだろうか。髪は肩にかかる長さで、毛先がゆるいカールを描いている。年齢は二十歳前後といったところだろう。服装は白いブラウスに紺色のロングスカートというシンプルなものだ。

「……あの、何かついてますか?」

じっと見つめる僕の視線に気がついたらしく、彼女が恥ずかしそうに聞いた。

「あ、ごめんなさい。えっと……その服似合ってるなって思って」

「あ……そうですか。えへへ」

照れたように笑うと、彼女は右手を頭に持っていき、指先で髪をいじり始めた。その仕草が妙にしっくりきて、僕は思わず見入ってしまった。

「あの……やっぱり変ですか? こういう格好」

「いや、全然! すごくいいと思いますよ!」

僕は勢い込んで答えた。「ほんとですか? 良かったぁ。最近買ったばかりなんだけど、ちょっと地味かなって心配してたんです。ほら、この辺って派手目なお店も多いじゃないですか。だからつい」

「いやいや、いいですよ! とてもよく似合っています!」

「ふふふ、ありがとうございます。嬉しいです。あ、でもこのスカーフってちょっと子供っぽいかな?」

「え?」

彼女が手に持っているのは淡いピンク地に花柄の模様が入ったものだった。確かに普段使いには向かないかもしれないけど、女の子らしさが出ていて可愛らしいと思う。「大丈夫ですよ。むしろそれぐらいの方が、あなたの大人っぽさに合うんじゃないかな」

「ええ!?」

彼女は驚いたような顔で僕を見た。

「……どうかしましたか?」

「い、いえ、なんでもないです。なんか……男の人にそんな風に言われたの初めてだったので。……なんだか不思議な感じ」

「不思議……っていうと?」

「だって、今まではだいたい『可愛いね』とか『綺麗だね』とか言われることが多かったから。『似合ってるね』なんて言ってくれたのは、今日が初めてかも」

「……」

「でも……ありがとうございます。そんなこと言ってもらえると、すっごく嬉しいです」

彼女は本当に嬉しそうに笑った。僕はそれを眩しい思いで見ていた。

「あ、そうだ。まだ名乗っていなかったですね。私は……」

そのとき、突然横合いから声をかけられた。

「おい、何やってんだお前?」

驚いて振り向くと、そこには一人の男が立っていた。背は僕と同じくらいで、痩せ型。黒縁眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな男だった。

「誰だよ、こいつは?」男は僕を睨みつけた。

「あの……こちらは……」

戸惑っていると、彼女は一歩前に出て僕をかばうようにして言った。

「私の待ち合わせ相手です」

「は?」

「ですから、今来たのが待ち合わせしていた人なんですよ」

「なんだよそれ。聞いてねえぞ?」

「言ってませんでしたから」

「……」

男はしばらく黙っていたが、やがて諦めたのかため息をついた。そして僕の方を見ると、「悪いな」と言った。

「どういうことかわかりませんが、とにかく失礼します。じゃあな」

彼は僕の肩に手を置くと、そのまま歩き去ろうとした。

「待ってください。まだ話は終わっていません」

「もういいだろ? あんたの勘違いだったってことだ」

「それはおかしいでしょう? どうしてあなたがここにいるんですか?」

「俺はただの付き添いだ。約束の時間になっても現れないんで、様子を見に来ただけだ」

「……嘘つき」

「あ?」

「本当は私が出てくるのを待ってたんじゃないですか?」

「……何を言っている?」

「さっきの電話、あなたでしょ?」

「電話?」

「昨日、私に電話してきたじゃないですか」

「知らねえよ!いい加減なことを言うんじゃねぇ!」

「……」

「……」

二人の視線が交錯する中、僕は呆然と立ち尽くしていた。どうやら何か大変なことが起きているようだ。しかし残念ながら、僕には何もできないようだった。

「わかった。悪かったよ。俺が謝るから、許してくれ」

男は両手を合わせると、頭を下げた。しかし彼女は首を振った。

「……駄目です」

「頼むよ」

「嫌です」

「何でも言うことをきくから」

「……」

「お願いだから、機嫌直してくれないかな?」

「……」

彼女は無言のままそっぽを向いたままだったが、しばらくしてぼそりと呟いた。

「……お腹が空きました」

「え?」

「お昼ご飯、奢ってくれたら考えてあげてもいいです」

「……了解」

男はほっとした表情を浮かべると、僕に向かって手を差し出した。

「というわけなんで、この場は見逃してもらえないだろうか」

「……はい」

僕は仕方なく握手に応じた。

「ありがとう。恩に着るよ。ほら、行くぞ」

「あ、ちょっと待って。せっかくだから、あの人と……」

「いいから早く来い!」

強引に腕を引っ張られていく彼女を、僕は苦笑いしながら見送った。……結局、彼女の名前を聞くことはできなかった。まあ、また会う機会もあるだろう。その時こそ名前を教えてもらおう。

そう思って踵を返したとき、視界の端で誰かが動いたような気がした。

「?」

見ると、先ほどの男がこちらを見てニヤリと笑っていた。……気のせいか。僕は軽く頭を振って、その場を離れた。

それからしばらく経ったある日、僕は大学からの帰り道にある書店で本を探していた。特に欲しいものはなかったのだが、暇つぶしも兼ねていた。

ふと、雑誌コーナーの前を通りかかったところで足を止める。『今月の特集!』と書かれたページに目を引かれたからだ。そこには『男の落とし方』とか『女はこうして落とされる!』といった見出しと共に様々なテクニックが紹介されていた。

その中の一つに『相手の趣味を知るべし』と書かれていた。その言葉に興味を覚えた僕は、手に取ってじっくりと読んでみた。

それによると、デート中に相手に話をさせるのではなく、まずは自分が話を聞いてあげることで、相手は自分のことを知ってほしいと思うようになり、結果として打ち解けやすくなるのだという。なるほどなと思った僕は、早速実践することにした。

次の週末、彼女と会ったときに、さりげなく話題を振ってみる。

「あなたの趣味は何?」

「え? いきなりですね」

彼女は戸惑った様子を見せた。無理もない。僕だってこんな質問の仕方はどうかと思う。だけど、こうでもしないと会話が続かないのだ。仕方ないじゃないか! 彼女は少し考える素振りを見せると、「そうですね……」と言って、僕の方をチラリと見てきた。

「……もしかして、私のことを知りたいんですか?」

「え!? あ、いや、そういうわけでは……」

図星だっただけに、僕は動揺してしまった。

「ふーん、そうですか。でも残念でした。私の趣味は秘密です。でも、そのうち教えてあげますね」

彼女はそう言って悪戯っぽく笑ったが、そのときの僕には、その笑顔の意味がわからなかった。

さらに数日が経過したとき、僕は再び同じ質問をしてみることにした。今度はもう少し突っ込んで聞いてみることにする。

「休日は何をしているの?」

「……え?……う~ん、内緒です」

彼女もまた、同じように答えた。しかしこのときの僕は、まだその意味を理解できなかった。そんなやり取りを繰り返しているうちに、次第に僕の方から積極的に話しかけるようになっていき、やがて僕らは普通の友人同士のような関係になっていった。そしていつの間にか、お互いのことを名前で呼び合うようになっていた。

「ねえ、真也君」

「うん? どうしたの?」

「私、今度お休みが取れたら、行きたいところがあるんですけど」

「いいよ。どこに行きたいの?」

「海を見に行ってみたいんです」

「いいよ。行こう」

「やった!」

彼女は嬉しそうな声を上げると、ぎゅっと僕に抱きついてきた。突然のことに驚いたものの、すぐに冷静になって言った。

「どうしたの? 急に」

「別に何でもありませんよ。ただ、こうしたくなっただけです」

「そっか」

「はい」

そのまましばらく黙っていたが、ふと思いついて尋ねてみた。

「ねえ、前から聞きたかったんだけど、どうして僕だったの?」

「どういう意味ですか?」

「ほら、他にも友達くらいいるだろうに、どうしてわざわざ僕なんかと付き合おうなんて思ったのかなって」

「ああ、そういうことですか。簡単な理由ですよ」

「へえ、どんな?」

「それは……」

彼女は一瞬ためらうように視線を泳がせたが、意を決したように顔を上げて僕を見た。

「……あなたが、私にとって一番の人だからです」

「え?」

「私は、あなたが一番好きになりました」

「……」

「だから、私と……」

「ちょ、ちょっと待った」

「……なんでしょう」

「それって、つまり……」

「……はい」

彼女は小さくうなずくと、僕の目をまっすぐに見つめながら言った。

「あなたが好きなんです。だから……

私と、お付き合いしてください」

「……」……僕は無言で彼女を抱きしめると、その唇に自分のそれを重ね合わせた。………………

「という夢を昨日見たんだ」

「ふむふむ、それで?」

「いや、それだけだよ」

「え? 本当に?」

「もちろん」

「そっか……」

僕は、目の前に座っている友人に向かってそう言い切った。すると彼は、あからさまにガッカリした表情を浮かべると、深い溜息を吐いた。

「なんだ。つまんねぇの」

「悪かったね。期待に添えなくて」

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