春一番:一升の春夢のあとに。

 ざわめきが並木を伝わってきた。思わず襟を押さえて身がまえたけれど、首筋をなでにきた風は思ったよりも冷たくない。見あげると、二月の淡い空に柳の枝がなびいていた。

 ぜんたい、今日は暖かだった。日向を歩いていると熱いくらいに日差しを感じる。目を閉じれば、水や土のにおいと一緒に、鼻やまぶたに花粉の気配を感じる。春の気配だ。冬は冬で好きだけれど、暖かい季節が来るのはやっぱり嬉しい。これで空気を胸いっぱいに吸えたら最高なのに、どうして私の免疫体と花粉は相争ってしまうのだろうか。


「世の中に絶えて花粉のなかりせば、ってね」


 とはいえ暖かな空気を吸いこめば、気持ちだって気球みたいに浮き上がる。心なしか足どりも軽く、私は通い慣れた水路ぞいの道を歩いていく。水面は静かに空を写して白く、道端には福寿草の黄色も見える。暗色の石畳まで春の陽気を放っているような気がしてくる。この空気を受けとれば、近所の梅ももうじきみんな咲くだろう。ああ、今日は実にいい日和だ。

 そんなことを考えているうちに、物語店「茶話屋」の店先に着いた。


「こんにちはぁ」


 こうして近年まれに見るほど呑気な心持ちで店の表戸を引いた私は、次の瞬間、ひゅっと息を呑んだ。


「いらっ……しゃい、ませ。うう。どうぞ、お上がり、くだ、さい……」


 出迎えてくれた弱々しい声は、お店の奥にうずくまった、矢絣もようのカタマリが発したものだった。


「——って」


 あれはカタマリじゃない、人間だ。

 茶話屋さんが倒れているんだ。


「え、ど、どうしたの! 大丈夫?」

「すみ、ません。大事、ありませんので……」


 思わず駆け寄ると、彼女は体を起こそうとしてよろけ、また両手をついてしまった。


「びょ、病気? それとも頭でも打った?」

「い、いえ……っつ。大丈夫、です」

「えっと、お医者さん! そうだお医者さん呼ばなきゃ。110番? ちがう、111番?」

「落ちついて、ください……それで呼べるのはおまわりさんかオバケさんだけです……」

「もうわからないから一ッ走り呼んでくる! 最寄りの病院って——いや角の交番のほうが近いか?」

「わたしは、平気ですから。心配しないで——」

「待っててね。すぐに人を呼んでくるから!」

「落ちついてくださいってば!」


 突然の大声に私は固まった。その隙にもぞもぞと座り直した茶話屋さんは、背を丸めたままこちらを睨みつけてきた。


「大丈夫だって、言っているのですから、無闇に慌てないでください。そんなんじゃ本当に怪我や病気の人が出たとき、かえって迷惑になってしまいますよ。というか事件性はまったくないので執拗しつようにおまわりさんを呼ぼうとするのはやめてください」

「え、いや、でも茶話屋さん、今、倒れてて——」

「平気です。いたって健康です。それより恥ずかしいので、はやく戸を閉めてください」


 苦笑いする彼女を見て、私にもようやく冷静さが戻ってきた。表戸を閉めると、薄明るくなった店内は畳とストーブのにおいがした。


「それで茶話屋さん、どうして倒れていたの?」

「あー……ええと」


 私の問いに、茶話屋さんは目をそらしてほっぺたをかく。まさか拾い食いでもして、お腹を痛めたのではあるまいな。


「いえ、そんなことはしていません。むしろ拾わなかったのが問題だったと言いますか……」


 だいぶ様子は落ち着いてきたが、まだいつになく行儀の悪い座り方のまま、いつになく歯切れの悪い口調である。

 私はのそりと上がりがまちに腰をかけ、横から茶話屋さんを覗きこんだ。表からのぼんやりしたあかりに照らされた顔には、ちゃんと赤みがさしている。どこかから血が出ているような様子もないので、ひとまずは安心した。あらためて見れば、今日はいつもの着物と袴の上に、白っぽいエプロンをかけている。ということは、家事の途中で転びでもしたのだろうか。

 まじまじと見ていたらまた、ふいと目をそらされた。


「えっと、本当に大丈夫なの? 茶話屋さん」

「ええ。ただ——あ、そうだ!」


 ポンと、不意に茶話屋さんは手を打った。こちらを振り向いてニヤリと笑う。


「仕方ありません。それほどまでにご心配とあらば、わたくし茶話屋が地へ倒れ伏すに至った経緯ゆくたて、とくと語ってごらんにいれましょう」

「地というか、床だったけどね」

「まあまあ。怪我人を労って、どうかご静聴くださいな——さて世の中では、ふだん健康な人が病気になることを『鬼のカクラン』などと申しますが……」


 語り始めた彼女の眼は、いつものような光を取り戻していたけれど、口の端はまだ少し苦しげに引きつっているのも、私は見逃さなかった。




  ♪  ♪  ♪




 世の中では、ふだん健康な人が病気になることを『鬼の霍乱』などと申しますが、この『カクラン』というのは漢方で、日射病のことを指すのだそうです。もちろんこれはものの例えというもので、聞くところ鬼の中には地獄の釜番をされている方もいらっしゃるくらいですから、よほど虚弱体質の鬼でもなければ日光の熱ごときで倒れるはずもございません。つまりは、あの人が病気になるなんて、鬼が日射病になるくらい信じがたきことよ、というときに使われるのがこの成句でございます。

 それでは本当に鬼が倒れるのはどんなときかと申しますと、お侍さまに斬られたとき、猛毒のお酒を飲んだときなど様々ございますが、一番よくあるのは、炒った豆をぶつけられたときなのだそうでございます。

 あれほど強い鬼が炒豆いりまめを苦手としているのは意外なようですが、ともかくそんなわけで私どもは、節分の日、冬の最後の日の夜に、豆まきをして邪気を祓うことになっているのです。


 さて、そうなると困るのが、ふだん町で生活している鬼の皆さまでございます。立春の前日とはいえまだまだ寒い最中、こう毎年まいとし追い出されてしまっていては流石に嫌になってしまう。

 ある年の暮れ、町内の鬼仲間で寄り集まって蕎麦を啜っているときにも、話題は自然と節分の話となりました。


「あーあ、今年ももう年越し蕎麦かぁ。なんだか歳をとると一年が早くていけねえなあ」

「そうだなあ。明日になればもう一月、それでアッと思ってる間に二月になっちまうんだろうなあ」

「一月は行く、二月は逃げるか……ああ、今度の節分はどうするかな」

「おいおい、嫌なことを思い出すんじゃないよまったく。せっかく楽しくやってんのにさ」

「そうだよ。だいたい、『どうするかな』ってったって、追い出されちまったらそのへんウロウロしているしかねえじゃないか」

「あの時の情けなさったらねえよなあ。寒空の下、行くアテもなく夜の町をさまようだなんて、自分探しのティーンエイジャーでもあるまいし」

「おいらなんてションボリしすぎて、豆まきしてる子供に心配されたこともあるよ。その子の親御さんにあったかい甘酒なんて渡されちゃって……あれは旨かったなあ」

「なにやってんだよ、お前は」

「しかしほんとにな、あっちでもこっちでも豆を打ちやがって……お大尽さまならともかく、俺たちゃ海外に遊びに行くような金もなし、まあ諦めて大人しくしているほかあるめえな」

「オイオイオイ、さっきから聞いてりゃあ情けねえなあ!」


 声を上げましたのは、隅で黙って盃をあおっていた赤鬼さんでございます。正しく言えば生粋の赤鬼さんではなく、元は青鬼だったのが深酒で赤鬼になったタイプの赤鬼さんでございまして、今も片手に盃を持ったまま、前へ後ろへ不穏な揺れ方をしております。


「いいか? 俺たちは鬼なんだぞ? 鬼って言ったらお前、妖怪最強っていう、あの鬼だぞ? それをさっきから聞いてりゃグチグチグチグチ……」


 そこで赤い青鬼さんはクワッと目をむきます。


「情けねえったらありゃしねぇよお前ら!」

「いや情けないったって青鬼さん、お前さんだって毎年追い出されているクチじゃねえか。前の節分だって、お前さんがそれまで居ついてた家の前の電柱に寄りかかって、街灯の光でキツネの影絵作ってぼーっと遊んでたところ、オレ見てたんだからな」

「んなこと言ったって、追い出されちまったもんは、仕様がねえじゃねえか。でも、それでも俺たちは鬼なんだぞ、鬼は強いんだぞ、それをお前らは情けねえ……」


 そこまで言うと、ぱたりと、青鬼さんは眠ってしまいました。


「あーあーあ、寝ちまったよこいつ」

「言うだけ言って眠ったな。ああ赤鬼さん、毛布をかけておやり」

「へい……ったく、こんなにこぼしちまって、もったいない」

「それにしても、えらい剣幕だったな」

「そうだなぁ。だけど節分はもうどうしようもない。それよりもそれまでの一月ひとつき、せいぜい楽しく暮らすことを考えるのが賢明ってものだろう」

「そうだよなあ。節分のことは心配しても仕方ねえ——」

「否!」


 今度声を張り上げたのは、さっきまでは黙ってウーロン茶を飲みながら蕎麦のおかわりをくりかえしていた、ふだんは穏和な人柄でご近所さんの覚えもめでたい、若い下戸の鬼でした。


「鬼の諸君! 青鬼くんのおかげで、僕は目が覚めたッ!」

「おいおい、お前までどうしちゃったんだよ」

「諸君、諸君も本当はわかっているだろう。僕たちが置かれているこの状況が、いかに惨めなものであるかということに!」

「こいつ本当にシラフなのか?」

「いけねえ。こいつの飲んでるウーロン茶、ウーロンハイじゃねえか。誰だよこんな紛らわしいの持ってきたやつ」

「すんません、おいらです。なんか安かったもんで」

「またお前か。おいおい、おかげで面倒なことになったじゃねえか」

「まあまあ、ウーロンハイはウーロンハイで美味いもんですよ」

「いやあ、それはそうだけどな。でも鬼としちゃあやっぱり日本酒の方が——」

「諸君!」


 バンッ、と下戸の鬼が拳をちゃぶ台に打ちつけたので、卓上の食器や酒器は一寸ばかりも浮き上がり、がちゃがちゃ音を立てて落ちました。


「諸君、目を逸らしてはいけない。鬼はたしかに毎年、豆たちと不毛な争いを繰り広げている。そしてあろうことか、毎年敗北しているのだ! これを惨めと言わずしてなんと言おう。しかし!」彼は拳を振り上げて叫びます。「いかに惨めな状況であっても、覚悟を持ってそれを直視することができればいずれ道は見出せる。違うか?」


 言って、若い鬼はみんなを睨み回しました。ふだん怒らない人がこんなことになると格別に恐ろしく感じるのは、鬼たちだって変わりません。みんな決まり悪げに縮こまってしまいましたが、そうすると下戸鬼は余計に眼力を強めます。それでしかたなく一人の鬼が、恐る恐る言いました。


「いや、言いたいことは分かるよ。俺たちだって、節分の度に追い出されるのは不本意だ。本当はどうにかしたい。だけど、どうしろっていうんだ? もう何百年もずっと、俺たちはみんな豆に太刀打ちできずにいるんだぜ」

「ふふん。そんなことか」


 下戸の鬼は、顎を上げて笑いました。


「正面から敵わないなら搦手からめてを攻めるまでさ。ふん、君たちに勇気がないのなら僕ひとりでもやってみせるさ。まあ諸君は見ていたまえよ」


 言うなり若い鬼は、まだぐったり伸びている青鬼さんをのっしとまたぎ越すと、肩で風を切って出て行ってしまいました。残された鬼たちは呆然とそれを見送ります。


「なんでぇ、あいつは」

「さあなぁ」

「ま、適当にうろついて、酔いが覚めたら帰ってくるだろう。ほらほら、飲み直そうぜ」

「そうだな、除夜の鐘が鳴り出す前に全部飲んじまわないと——って、もうこんな時間じゃねえか!」

「おいおいおい誰も時計見てなかったのかよ」

「だってあいつが騒ぐから……」

「言ってる場合かよ、早く片づけないと祓われちまうぞ」


 遠くの危難ばかり見ていると足元がおろそかになるものでございます。除夜の鐘は煩悩を除く音、鬼にとっては炒豆と同様の天敵なものですから、さあみんな大騒ぎ。慌てて蕎麦やら酒やらを片づけて、まだ潰れていた青鬼さんも叩き起こしまして、年の変わる前にお開きと相成りました。




 さて翌朝のこと。勇んで出て行ったあの下戸の鬼は、豆の国の門前までやってきておりました。白木づくりの城壁を仰いで、鬼さんはひとりごちます。


(あーあ、なんであんなことを言っちゃったかなぁ。あの時はいい考えだと思ってたけど、段々自信もなくなってきたし……帰りたいなあ。)


 ここまで遥々やってくるうちに、お酒の酔いも勢いも、きれいさっぱり覚めてしまっていたのです。いまや、本来おとなしいこの鬼に残されたものは、不安と決まりの悪さとすこしのめまいだけでした。

 とはいえ鬼神に横道おうどうなし。仲間にあれほど大口を叩いて出てきてしまった以上、ただでは引き返せません。

 ままよと鬼さんは印を結び、どろんと見事な炒豆に化けると、白い城門の左右に豆の番兵がにらみを効かせるその間を、するりと潜り抜けてしまいました。

 四方を城壁に囲まれた豆の国は、その日も豆たちで大いに賑わっておりました。城門からはまっすぐに大通りが伸びております。ざわざわわいわいと豆で豆を洗うがごとき騒ぎの道を進んでいくうちにも、もし今こいつらが自分の正体に気づいて襲いかかってきたらという考えが頭の底にこびりついて、鬼さんは生きた心地もいたしません。


(そのうえ僕は、これから豆たちを相手に一芝居打たなきゃならないんだ。ばれたら一体どうなることだろう。とても無事には帰れまい。ああ本当に、偉そうなことを言うんじゃなかった)


 それでもなんとか、鬼さんは中央広場までたどり着きました。ぐるりと見回せば、実にたくさんの大豆が広場を満たしております。枝豆のカップルが笑いあいながら歩いて行きます。煮豆の夫婦がころころ子供を追いかけています。味噌のおばあさんがギターを弾いている横で、きな粉のおじいさんが小鳥に餌をやっております。広場の一辺に建つ四角い建物の前からは、炒豆の兵隊さんが市民たちを見守っております。

 広場を眺めているうちに鬼さんは、炒豆の兵隊は大豆人口のうちのほんの一握りなのだということに気がつきました。そうして余裕のでてきた心へ、徐々に落ちつきが戻ってきます。

 鬼さんは腕を組んで、息を吸い、ゆっくりと吐き出しました。目を閉じて自分の計略を復習します。それは昨晩、酒の力を借りて飛び出してきたものではありますが、思い返してみれば、ずうっと心の底にうずくまって出番を待っていたことのようにも思えました。


(よし、よし。やるぞ、僕はやるぞ。大豆たちとの不毛な争いに、今こそ終止符を打つのだ)


 炒豆姿の鬼さんは堂々と、広場の一辺を占める、あの四角い建物へ近づいてゆきます。立派な扉の横には、墨痕あざやかに「第一檜枡炒豆基地」と記した板がかかっています。その真ん前に鬼さんがびしりと立つと、門兵さんたちが怪訝そうに誰何すいかしました。


「誰だ? 見ない顔だが」

「は! 管理番号・保―良二十亥番、新兵であります! 本日づけで着任いたしました!」

「ああ、炒られたてか。入っていいぞ」

「新年早々ご苦労だな。がんばれよぉ」

「ありがとうございます! 失礼します!」


 鬼さんはきびきびと一礼すると、扉を潜っていきました。

 世界中のいったい誰が、豆を枡に入れるとき、そこに鬼が紛れこんでいるかもしれないなどと疑うでしょうか。

 こうして鬼さんは、まんまと炒豆の基地に潜りこんでしまったのです。



 さて、それから鬼さんはどうしたでしょう。

 炒豆基地の軍事情報を盗み出したでしょうか。それとも料理に毒を入れての破壊工作活動? あるいは軍隊の幹部を扇動してクーデターでも起こさせたでしょうか——


 え、どうしましたか。——「もったいぶるな」?

 「話のながれを見失って時間かせぎをしてるんじゃないか」ですって? 失礼な。すこしくらい本調子でなくたって、物語ならはじめから終わりまできちんと語りますよ。

 あなたこそ、鬼さんの計略を見抜くために時間稼ぎをしているのでは——と、どうやらそのお顔は、もう半分がた分かっていらっしゃるようですね。

 えぇ、その通りです。鬼さんは破壊工作も諜報活動もしませんでした。たしかに、ここで私がこんな風に尋ねかけたこと自体、答えのようなものでしたか。

 「それにこの鬼は、そんなに大それた悪事をする奴とは思えない」? なるほど。

 でも、それなら鬼さんは一体なんのために大豆の基地へ忍びこんだのでしょうか。どうやって豆との戦いを終わらせるつもりなのでしょうか。

 はい。それでは答え合わせ——ではありませんけれど、ともかくおはなしの続きと参りましょう。



 あれから数日後、第一檜枡炒豆基地内の兵員食堂では、おかしな話がささやきかわされておりました。


「——どう思われますか?」

「ああ、やはりもう少し味方がほしいな」

「やはりそうですか。上官の中に、話の分かる方がいればいいのですが」

「そうだな……」

「それなら誰が引き入れられそうか、仲間たちと相談して——」

「なあ、ここ空いてるか?」


 突然声をかけられて、テーブル越しに額をくっつけるようにして話し合っていた老兵さんと新兵さんは、びくりと肩を震わせました。振り返ると、お盆を持った炒豆の隊長さんが、怪訝な顔で立っています。


「ど、どうしたんだ。なにか不味い話をしているようなら別の席を探すが……」

「いや、いや、大丈夫だ。あんたなら大丈夫だ。というよりも、あんたにはぜひ聞いてほしい。どうぞ座ってくれ」

「そうです、そうです。別に後ろ暗い話をしていたわけじゃあないのです。隊長どの、どうぞ座ってください」

「そうか、それなら失礼するぜ」


 お盆をテーブルに置くと、隊長さんは空いていた席に座って箸をとりました。2人もめいめい食事を再開して、しばらくはあたりさわりのない話をしておりましたが、やがて隊長さんが尋ねました。


「それで、さっきはなんの話をしていたんだ。世間話にしちゃあ様子がおかしかったが」


 2人はすばやく目を見交わすと、老兵の方があたりをはばかるように声を潜めて言いました。


「あんたはまだ聞いていないのか。あの話」

「あの話って、どの話だか言ってくれなければ分からないだろう」

「じゃあ聞いてないんですね」


 2人は互いに頷きあうと、まわりを見回してから、ぐぐっと隊長さんの方へ顔を寄せました。寄せられた隊長さんは、その勢いにすこし身を引きました。


「どうしたんだ、2人とも。いったい何の話なんだ」

「節分の話さ、隊長どの」

「節分? 節分について何をはばかることがあるんだ。俺たちの晴れ舞台だろ」

「隊長どの。それが、そうでもないかもしれないって話なんです」

「何?」

「なあ、隊長どの。あんたはだれか、節分から戻ってきた炒豆を知ってるか?」

「知ってるわけがないだろう。節分の豆は、人に撒かれて鬼を祓ったあと、拾われて食われる決まりだ。撒いた人間の歳の数だけ食われるんだ」

「そう、それが問題なんだよ」


 2人がさらに声を低めるので、隊長さんもつられて頭を低めました。


「なあ。現実的に考えて、撒かれた豆の数と、撒いた人間の歳の数がぴったり同じだなんてことが、そうそうあると思うか?」

「まあ、それは多少のずれはあるだろうが」

「そうです。そして大概は豆の方が多い。だから撒かれたまんま、食われない豆も出てくるわけですよ」


 隊長さんは顔をしかめます。


「それはそうだが……しかし、それは言わない約束だろう。戦場に不運はつきものだ。それを恐れていたら俺たちは何もできない。それに人に食われなくたって、道には雀や鳩だっている。それでもだめなら、あとは大人しく土に還るだけさ」

「そう。俺たちのご先祖さまは、ずうっとそうしてやってきた」

「何百年も、です。しかし最近、事情が変わってきたそうでして」

「なんだと?」

「隊長どのは、『ジドウシャ』って知っていますか?」


 若い兵隊さんは、苦いものを噛むような調子で言いました。


「人間たちが最近使いはじめた、牛にも馬にも引かれずに、自分で勝手に走る鉄の箱なんだそうですが……今、人間世界の道々には、暴れ牛のように力の強いその怪物どもが、何百何千となく走り回っているそうです。そいつらときたら夜も休まずに、目には見えない煙を吐きながら道という道をものすごい勢いで走るものだから、鳥や獣たちはうっかり道を横ぎることもできないのだとか。そしてそのジドウシャどもが走りやすいように、いまや人間世界のあらゆる道には、固い灰色の石が継ぎ目もなく敷きつめられているそうです」

「煙を吐きながら一日中走り回る鉄の怪物だと? そんなバケモノのために、人間たちは道という道をまんべんなく石にしちまっただと?」

「ああ。外の世界から来た新兵がそう言っていたらしい」

「いや、待て。それじゃあ、こういうことか? 俺たちは人にも鳥にも食われなかったが最後、土に還ることもできずに、そのバケモノに踏み潰されることになると? そんな馬鹿な」

「それだけじゃない。今の人間たちはみんなコウシュウエイセイとかいう教えを信仰していて、その宗旨じゃあ道に落ちているものを拾って食うのはご法度なんだそうだ」

「それじゃあ、運良く鳥に見つからないかぎり俺たちは——って、そんなことが信じられるか」


 2人の話に引きこまれていた炒豆の隊長さんは突然我に返った様子で、すこし怒ったように言いました。


「そんな与太話のために、俺たちの先祖が長い時をかけて人間たちと築いてきた信頼関係を疑えっていうのか」

「ええ、あくまで噂話は噂話ですよ。今のところはね。この話の出どころだとかいうその新兵っていうのも誰のことだかわかりませんしね」

「なんだ、脅かすなよ」

「しかし、あながちでまかせとも思えない。最近、国ではよそ者たちをよく見るだろう。それなのにそのうちの誰に聞いても、自分たちがどうしてここにいるものやら、ふと気がついたらここにいたって感じなもんで全然分からないって話だ。しかし諸々を突き合せて考えてみるに、あいつらはどうも、寝ているあいだにずっと遠くの土地から運ばれて来たようなんだ。それほど早く、長い距離を運ばれてきたとなると、ジドウシャとやらが石の道を走ってあいつらを運んできた可能性も否定できないだろう」

「……そうか、たしかにあいつらがどうしてここに来たのか疑問だったが……」

「それにご先祖さまの話と比べてみると、最近は猛暑や豪雨が異常に多くなってきているようですね。僕も畑にいたときに感じましたが……これもまた、ジドウシャの吐く煙が、天の気の流れを乱しているためなんじゃないかって話もあります」

「ううむ……」

「と、いう訳でだ」


 うなる隊長さんを眺めながら、冗談でも話すような調子で老兵さんは続けます。


「たしかに、本当のところは節分に行くまでは分からない。だが人間界へ行ってみて、もし実際にこの通りだったとしたら、俺たちもなにか手を打たなきゃならない。違うか?」

「……ああ、そうかもしれんな。もし仮にそれが本当の話だとしたら、俺たちはともかく、俺たちの子孫をむざむざジドウシャとやらの餌食にするのはたしかに忍びない」

「さすが、隊長どのは話が早いですね」


 にやりと笑う新兵さんを、隊長さんは強く見据えました。


「ということは、お前たちにはなにか考えがあるんだな?」

「ええ。撒かれたら負けならば、撒かれなければよいのです」


 得意げに言う新兵さんの頭をぺちりとはたいて——この2人のあいだでは、これが普通のやりとりだったのです——老兵さんが後を続けます。


「まったく、お前が考えた策じゃないだろうに……それでだ。俺たちを撒くのは人間なのだから、どうにかして人間たちが豆まきをやめるようにしむけなければならない」

「道理だな。それでどうする。まさか、鬼たちを全滅させれば豆まきもなくなる、などとは言うまいな」


 新兵さんは頭をさすりながら答えます。


「はい、それはまず不可能でしょう。そもそも我々は鬼たちを一時的に打ち倒すことができるだけで、致命傷を与えることはできませんから」

「ならばどうする」

「正面が駄目なら搦手から、ってことです。つまり、鬼たちを相手にしても駄目なら——」

「まさか、人間たちを相手にしろと?」

「そういうことだ」


 老兵さんはゆっくりと頷きました。


「今、基地中の有志で密かに立てている作戦はこうだ。節分の日、人間界が実際にああいう様子だと分かったら、まず撒かれるまでは大人しくしておく。俺たちが撒かれるのはどうにも避けられないからな」

「そうして、撒かれる瞬間になったら、えいと思い切りよく飛び出すんです」

「それでは今までと同じじゃないか?」

「いや、違うのはここからだ——飛び出した勢いで、どこか遠くの物陰まで転がっていくのだ。『福は内』部隊に入ることができれば、家の中のどこかへ隠れられる見込みは高いだろう」

「そして、何日も何日も機をうかがって、やがて人間たちが節分のことなど忘れたころに——」


 新兵さんは、ささやくように言いました。


「ぷすりと、僕ら自身の体で、人間たちの足の裏を刺してやるんです」


 隊長さんは、静かに目をつむります。


「成程……そういう事態が頻発すれば、人間たちは豆まきを嫌がるようになるということか」

「その通りです」

「『鬼は外』部隊の方はどうするんだ? 今の作戦では、そちらの部隊はジドウシャから逃れる術がないようだが」

「みな覚悟の上だ。もとよりこれは俺たち自身のための策じゃない。俺たちの子孫が、あるいは土の中で芽を出して、あるいは生き物に食べられて、豆としてまっとうに生きていけるようにするための策なんだよ」

「そうか」


 隊長さんは空になった食器へ黙礼すると、椅子を引いて立ち上がりました。


「悪いが、俺はその計画には賛同できない。お前たちだけでやってくれ」


 老兵さんはそれを聞くと、ため息とともに面を伏せました。それを気の毒そうに一瞥して立ち去ろうとする隊長さんを、新兵さんが呼び止めます。


「どうしてです? 隊長どのはたくさんの隊員に尊敬されている。あなたさえ賛成してくれれば、この作戦の成功はぐっと近づくというのに」

「それでは聞くが、この策は誰が考えたものだ。お前ではないんだろう」

「僕たちも知りません。誰からともなく出てきた計画です。まさに天佑、天啓というものでしょう」

「そうか。俺にはそうは思えない。誰のものかも分からない考えに乗って自分の務めを放り出す気には、どうしてもなれないんだ。たぶん、俺は頭が固いんだろう。だからあえてお前たちの信じることを止めもすまい。だが、」


 隊長さんは新兵さんを睨み据えました。新兵さんも、同じくらい強く睨みかえしました。


「豆まきをやめた人間は、鬼に負けるかもしれない。そしたら人間はどうなる。人と豆との信義はどうなるんだ」

「さあ、分かりませんね。僕らのことをほとんど軽視しているような友人たちの国よりも、まずは自穀じこくのことが第一ではありませんか?」




  ♪  ♪  ♪




「——というわけで、わたくし茶話屋は掃除の最中、家具の影から躍り出てきた炒豆の思いがけない攻撃を受けて、あまりの痛みに転げ回りましたとさ」


 店の表が夕焼け色に染まる頃、茶話屋さんは深く頭を下げて、長い物語をしめくくった。

 豆に化けた鬼はただ、人間界の話をして回っただけだった。それに乗せられた炒豆は家具の影に転がりこみ、そしてかれらの一人かもしれない豆粒を踏んでしまった小柄な語り手は今、床に両手をついたまま、深ぶかと息を吐いていた。


「ふー……ご静聴、ありがとうございました」

「お疲れさま、楽しかったよ。床に倒れていた理由の説明としてはちょっと長すぎるけど」

「そう、でしたかね」

「まあ大したことがなくてよかったけど、もし本当に病気や怪我だったら困ってたかも」

「ふふ。いくらわたしでも、そんなときは大人しく病院に行きますって」

「それはよかった——よっと」


 膝かけがわりにしていたコートを軽く払って、上がりがまちから立ち上がる。


「それじゃ、今日はそろそろお暇しようかな。今度来るとき、なにか買ってきてほしいものとかある?」


 言いながら振り返ると、茶話屋さんはまだ、両手をついた姿勢のままだった。


「茶話屋さん、どうしたの? まだ痛むの?」

「いえ。あんなに長い話のあとですから、痛みなんてとっくに引っこんじゃってますよ」


 答える声にも俯いた顔にも、どことなく元気がない。思い返せば、なんとなく話の途中にも様子がおかしいときがあった。長い話をして疲れたのだろうか。


「違いますよ。ただ……」


 言いよどむ彼女の視線をたどると、床の上に炒豆が一粒、夕日の赤茶色を受けて転がっていた。


「ただ、その——自分の関わる話というものは、ちょっと難しいなと思いまして」

「……もしかして、このあいだ私たちのした豆まきが、この豆を苦しめたんじゃないかとか考えてる?」

「そう、ですね。そうかもしれません。馬鹿なことをと思われるでしょうが……わたしの物語に出てくる方々はみんな、わたしの心の底から出てきた方々です。ほんとうの豆が何を思っているのかは分かりませんが、すくなくとも今のわたしには——」

「大丈夫だよ」


 私は身をかがめて、かつて豆の国にいたかもしれない炒豆さんを拾い上げた。

 正直、茶話屋さんの気持ちはよく分からないこともある。だけどこれはきっと、茶話屋さんにとっては大切なことなんだ。それくらいは私にだって分かる。


「それじゃあ、ほら。この豆、庭に埋めてあげない?」

「え?」


 茶話屋さんは気怠けだるげに顔を上げた。


「なぜですか? 炒豆に花はつきませんよ」

「ううん。なんというか……」


 たしかになにか言いたいことがあるのに、いざ言葉にしようとすると上手くいかない。言いよどむ私を、茶話屋さんは首をかしげて眺めている。

 もう終わったことはどうしようもない。だけど、例えば来年のことならば、節分に個包装されている大豆なんかを買ってきてあげるだけで、また2人で一緒に豆まきをして、今度はそれをみんな拾って一緒に食べることもできる。

 でもそんな鬼さんに笑われそうな先の話じゃなくて、今ここで、自分にできることがあるはずだ。


「ええと……その、うん。この炒豆さんは、私たちのところへさっきの物語を届けてくれた、茶話屋のお客さんなんだもの、ごみ箱に捨てるのは忍びないよ。だから、それよりもその、土に帰ってもらって方がいいんじゃないかなって……」


 言ってしまってから茶話屋さんの様子をうかがうと、彼女は目を丸くしていた。

 二つの瞳が静かに茜色を宿して、そしてゆっくりと閉じられた。


「——そうですね。それがいいです」




 庭へ出ると、とたんにくしゃみが出た。南風はもう静まって、夕暮れの冷たい空気が降りてきているというのに、花粉はしぶとい。見あげると、東の空からもう夜が近づいてきている。春のはじめのこの季節、まだまだ日は短い。

 私たちが何を思っていても、昼夜は巡り、季節は移ろっていく。それに合わせて、花粉は花粉の都合で勝手に飛ぶだろうし、花は花の考えで咲いては散っていくのだろう。

 それと同じに、豆には豆の事情があるのだろうし、鬼には鬼の苦労もあろうし、むろん人にもそれぞれ思いがある。互いに言葉の通じあう友達のあいだでさえ、ときには行き違いや隔たりができることだってある。世間はままならない。


「世の中にたえて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし、だっけ」

「気が早いですね。まだ春はこれからですよ」


 目の前に茶話屋さんが立っている。夕闇にまぎれる彼女の顔は、どこか吹っ切れたような微笑をたたえているような気がした。


「さあ、参りましょう。お客さまをお見送りしましょう」


 私たちは連れ立って、こじんまりとした庭を歩く。手の中には、固い、小さなものの感覚がある。


 ぶつかりあわずにいるには狭すぎて、寂しさを忘れるには広すぎるこの空の下で、私たちはみんな一緒に暮らしている。

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