第46話エピローグ(鯛)



 始まりがあれば終わりもある。


 春から始まった俺とエリザの生活だが、いつかは終わりの時が来るのだろう。

 それがいつかは分からない。

 俺が大学を卒業して、このアパートを出る時か。

 雪菜ちゃんに実家に連れ戻される時か。

 それとも、ずっと先。俺がこのアパートを終の住処として、寿命を迎える時か。

 もしかしたらエリザが俺に愛想を尽かして出ていくこともあるかもしれない。

 ありえないかもしれないけど隕石(メテオ)が直撃(ストライク)してアパート自体が崩壊とか。

 他にもアパートがタイムトラベルして『漂流アパート編』に突入とか。ネカフェが漂流するくらいだし、アパートが漂流してもおかしくない時代だ。


 ともかく。

 どんな終わりが訪れるかは、今の俺には分からない。

 

 もしかすると、俺が想像していないような終わりがあるのかもしれない。

 誰でも想像できるような、ありふれた終わりかもしれない。

 だが分かっていることはある。

 始まりがあれば終わりがある。

 

 終わりはいつか必ず訪れるということだ。



■とある妹のエピローグ■


 一ノ瀬雪菜は電源を切ったスマートフォンをベッドに放り投げ、そのまま自らも背中からベッドに倒れこんだ。

 

「……」


 天井を見上げる。

 天井にはこの部屋の主が張り付けた、どこぞのアニメのポスターが貼ってある。

 満面の笑みでこちらに笑いかける触手の生えた美少女に煽られているような気がして少しイラっとした。その苛立ちから逃れるようにゴロリと寝返りを打った。

 枕に顔を埋める。部屋の主が去って暫くは匂いの残っていた枕だが、もう埃っぽい匂いしかしない。


 部屋のテレビではラグビーの試合中継が流れている。


「兄さんの癖に……兄さんの癖に……」


 顔を押し付けた枕に向かって処理しきれなかった感情を吐き出す。 

 普段は何があっても動じず、どんな感情もコントールできると自負する彼女だが、こと兄が関わる感情の動きに関しては、この年になっても振り回される。


「……っ」


 完全に想定外の出来事だ。

 まさか兄がダイエットを完遂するとは思っていなかった。

 本来なら既に家を出て兄を迎えに行っているところなのだ。

 がっくりと肩を落とした兄を見下ろしつつ、勝ち誇った笑みを浮かべていたはず。

 情けなくも我が身可愛さから媚びへつらう兄を眺めつつ、これから訪れるであろう愉しい日々に想いを馳せていたはず。

 

 それなのに――

 

「ぐぬぅ……ぐぬぬ……」


 どうしてこうなってしまったのか。不本意ながら内省してみる。


 兄が家を出て早くも3か月が経った。


 家を出てすぐの頃は、1週間も持たずに泣き言を言って帰ってくるものとばかり思っていた。

 何せあの兄だ。自分の事は何もできない兄。

 兄の身の回りの事は全て自分がやってきた。

 部屋の掃除も、兄の食事も、衣服の購入、翌日着る衣服の選択、明日の授業の準備、その他諸々……全て、何もかも自分がやってきたのだ。

 自己管理ならぬ妹管理――ありとあらゆる事象をすべて、妹である自分が行ってきたのだ。

 万象あらゆるものを自分の委託した愚かなで無能な、そんな愛しい兄。


「うぅ……」


 これからもそれは続くはずだった。永遠に。

 

 だがふと思ってしまったのだ。

 

 少しくらい……自分の有難みを感じてほしい、と。

 ちょっとくらいは感謝をして欲しい、と。

 当たり前のようにある自分という存在が、実のところは世界中を探しても見つからない、砂漠に落ちた1粒のゴマのような稀有な存在である、と。

 やっぱり兄にとって自分は掛け替えのない存在であり、自分がいなくては兄は生きていけない……その事実を改めて認識して欲しい、と。


『やっぱり雪菜ちゃんがいないと、俺ダメだよー。おろろーん』


 そんな想像するだけでも、臍の下が熱くなる光景を見てみたい。


 それだけだったのだ。 

 そんな些細な、だが今となっては愚策でしかない考え。


 もって三日……いや、二日でしょうか。


 それくらいのほんのわずかな期間だろうと、兄を手放した。

 自らの庇護下外へと、見送った。 

 だが兄は帰ってこなかった。

 1日経ち、2日経ち、3日、4日、1週間、1か月……いくら待っても帰ってこない。 

 そうこうしている内に留学の話が進み、その間に兄が帰ってくるかもしれないという危惧で色々無茶をして早めに帰国した。

 だが兄はここにいない。


 結果として兄は不可能とも思えるダイエットを完遂している。

 まったくもって想定外の事態だ。

 果たして、兄の為にわざわざ作ってやった手料理達はどうすればいいんだろうか。


「……っ、……っ」

 

 溢れる感情を口に出すのは腹立たしく、かわりに足をばたつかせる。

 掛け布団から埃が舞い、ほんのわずかに兄の残滓が漂ったような気がした。


「…………ふぅ」


 男子三日合わざれば刮目して見よ、という言葉がある。

 どんな男でも3日経てば、成長する、そんな意味の言葉だ。

 あの自堕落な兄もことわざ通り成長して自立心が芽生えた、というのはどうだろう。

 1人で生活をしなければ生きていけないという極限状況下において、埃を被っていた生存本能が覚醒した。錆びついていた危機意識が芽生え、最低限の生活スキルが人間に刻まれた遺伝子から呼び起こされた。そう考えるのはどうだろうか。


「……ばかばかしい」


 ありえない。それはない。マジでない。ありえんてぃーだ。


 なにせあの兄だ。

 もともとそういう気質があったが、あの出来事以来……思い出すだけでも腸が煮えくり帰るあの出来事。あれ以来、妹である自分にありとあらゆる取捨選択を委ねるようになった。

 掃除や洗濯といった家事以外にも、授業の準備、通学する際の通学路、制服の下に着る肌着、その他祝日の過ごし方、その日使う入浴剤――全てを自分に委託していた。思い出すだけでも愉しいあのめくるめく日々。兄の全てを自分が管理している、あの充実した日々。


「ふふ……」


 そんな兄が進学を機に1人暮らしをすると言った時は驚いたが、それも一過性のものだと思っていた。

 幼少期の子供がはしかにかかるような、一瞬の出来事。

 すぐに自分の無力さを悟り帰ってくる。そう思っていた。

 人はそう簡単に変わらないのだ。特にあの兄は。それは自分が一番よく知っている。

 この世界で一番、兄の事を理解しているのは自分なのだ。


 なのに、このザマはなんだ。


「……んー! んんー!」


 苛立ち紛れに、布団を叩く。

 ばさばさと埃が舞って、ゴホゴホとむせてしまう。


「……げほ」


 いつだって世の中の自分の想定内の出来事に収まっていた。

 自分が他の人間より優れているのは理解していたし、世の中の出来事は実際、自分が想定した範囲で推移していた。

 今までそうだったし、これからもそうなるはずだったのだ。


 だったら何故想定外の出来事が発生したのか。どうやって兄は自分でも素直に見事だと感嘆してしまったダイエットを成功させたのか。

 いくつかの可能性を切り捨て、その中で最も可能性が高い物。


「……協力者なんて……まさかありえない」

 

 最も一番高い可能性が浮かぶ。

 自己管理出来ない兄が、他者にその管理を委ねる――。

 自分以外の誰かが……という感情的な意見は無視をすると、その可能性が一番高い。


 だが――ありえない。ありえないのだ。


 あれほど見事なダイエット、兄の体調や癖、生活リズムを完全に把握していないと不可能だ。

 普段の生活、それ以外の余暇にも全て兄に情熱を注ぐ。義務的ではなく、心情面、精神面でも兄に奉仕をするような――そんな、それほどまでに兄に熱を注げる奇特な人間がこの世界にいるはずがない。

 仕方なくそれを行っている自分――世界で1人しか存在しない妹である自分以外に、そんな人間が――いるはずがない。それも兄が1人暮らしを始めてというわずかな期間で。絶対にありえない。


 はっきりと断言する。

 

 故に――分からない。

 いないはずなのだ、そんな人間など。だがその存在無くしては――この度の成功はありえない。

 圧倒的な矛盾。

  

「………………仕方ないですね」


 枕の顔を埋めたままの長い逡巡の後、半ば諦めた表情で顔をあげた。


「不本意ですが……ええ、仕方ありませんね」


 彼女は認めることにした。

 今この瞬間、ただこの部屋にいるだけでは分からない。

 直接兄の下へ訪ねて、自らの目で確認しなければ分からない。

 

 これは一種の敗北宣言だ。


 兄に対して感じた初めての敗北。

 少女はベッドから体を起こし、立ち上がった。

 

「今すぐに……とはいきませんが、近いうちに訪ねるとしましょう」


 窓を開け室内の空気を入れ替える。

 実に久しい行為だ。

 兄である男でこの部屋を去って実に3か月ぶりの行為。

 ほんのわずかに残っていた兄の残滓が、夏の暖かな空気に攫われていく。


「――首を洗って待っていてくださいね、兄さん」


 外に流れていく空気に乗せるように、少女は告げた。



■とある美少女探偵の話■



「――そろそろ時間か」


 少女――漆黒のゴスロリ服を身にまとった少女は、時計を見ながら言った。

 現在時刻は16時。

 相手との予定――といっても自分が勝手に定めた予定だが。その予定よりも2時間ほど早い。

 だが少女は自分の家であるマンション、そのリビングの椅子から立ち上がった。


「ただ待つのというのも、なかなか楽しいものだね」


 クスクス笑う。

 以前までの自分――大学に入学し、彼に会うまでの自分では想像しなかった。

 探偵にとって貴重な『時間』をこんな唯の余暇として過ごすなんて。

 待ち合わせ時間よりも早く目的地に着いて、相手が辿り着くまでの時間を色々と思索に耽って過ごす。

 それは考えるだけでも楽しい行為だった。探偵として難しい謎に挑んでいる時の様な感覚。


「さてさて、彼は見事ダイエットを成功させたのか、それとも失敗したのか……ま、どちらにしろ、ボクの下を訪ねるわけだが。ふむ、こんなこともあろうかと、隣の部屋を片付けておいてよかった」


 心底楽しそうにクスクス笑う。

 笑いながら思い出す。彼と出会う前、大学に入学する前――祖父である先代の『遠藤寺』に謁見した時のことを。

 あの時はてっきり、遂に自分の探偵としての功績が認められ次代の『遠藤寺』を襲名出来ると思った。やっとアマチュアとしてではなく、プロの探偵として活動が出来ると期待をしたあの時。

 だが――


『あー……遠藤寺、あげるわ。その代わり、■■ちゃん、大学行きなさい。高校生の時みたく、たまーに行くとかじゃなくて、ちゃーんと単位とって卒業しなさい。これが遠藤寺譲る条件ね。よろしくねー。あ、でもテニスサークルとかには気をつけてね。ほら大学にはヤリサーっていう乱こ――』


 あの時は、とうとう最高齢探偵である祖父がボケたかと思った。

 探偵である自分に大学教育を学ぶ意味など全く無いし、ただ時間の無駄遣いだと思っていた。

 実際、入学して暫く経つまではそう思っていた。

 自分にとって大学で学ぶような知識は不要だし、大学生活で得られるであろう一般的な交友関係なんてまったくもって必要がない。

 そう思っていた。


 ――彼、一ノ瀬辰巳に会うまでは。


「ふふ、ふふふ……」


 今でも彼と初めて出会った日のことははっきり覚えている。

 適当に参加したサークルの新人歓迎コンパだ。

 何かのスポーツサークルだったか。テニスだったか、ダイビングサークルだったか、学生生活を支援とか、ごらく、隣人、木工ボンド、ジャージ、鉱石、新大陸発見、合唱時々バトミントン……よく覚えていないが、まあその辺のサークルだ。

 無料でお酒が飲めるという誘いだけで参加した。

 そこで彼と出会った。


『えっと、一ノ瀬辰巳です。うわ……ゴスロリ……ゴス……かわ……』


 彼と初めて言葉を交わしてから今日までの全てを自らの脳に記憶している。


 彼――一ノ瀬辰巳という存在が、どうしてこんなに自らの琴線に触れるか分からない。

 その振る舞いも言動も……少し変わった所はあるが、一般の域を脱しない。

 だが――引かれる。

 どうしてもいつだって彼の事を考えてしまう。

 今は辛うじて仕事の時は考えないようにコントロール出来ているが、将来的にはどうだろか。そんな事を考えるのも楽しい。


「今日はどれにしようかな」


 何種かのゴスロリ服が吊るされているクローゼットの前で悩む。

 これも以前には無かった行動だ。

 目の前にあるのはただの服。

 それでもこうやって悩んでしまう。

 なぜや悩んでしまうのか――その思索に耽るのも楽しくて仕方がない。


「~~~~♪」


 CMで流れていた曲を鼻歌で奏でていると、部屋の扉をノックして誰かが入ってきた。


「あのぉ……」


「おや、タマさん。どうかしたのかい?」


 入ってきたのはメイド服を着た女性だ。

 金髪でそれなりに整った容姿をしているが、これといって特筆すべきことがない女性。


「あのぉお嬢様……ほんとに今日の夕食、用意せんでいいんですか?」


 メイドの言葉に遠藤寺は分かりやく溜息を吐いた。


「……昨日も言っただろうタマさん? 今日の夕食はいらない。愛すべき親友である彼と過ごすからね。……1週間も前から伝えていたはずだけど」


「や、それは覚えてるんですけどぉ……んん、そのぉ……ねぇ?」


「ふむ、何が言いたいんだい? ボクの行動に何かおかしいことでも?」


 メイドは困ったような表情で自らの金髪、その少し上の何も無い部分を掻いた。

 普通のメイドだが、唯一変わったところといえば、この癖だ。


「いやぁ、間違いというか、確かに間違いやねんけど……それを間違いって指摘するのはお嬢さんが可哀そうっていうか――そんな友達、実は存在せえへんねんでっつうかなーりきっつい事実を突きつけへんといけないわけで……ああぁぁっ! わっちはどうすればいいんやぁ! どうやって説得すればお嬢さんを傷つけずに済むんやぁ! 誰か教えてぇ! Yah〇o知恵袋では誰も教えてくれなかってん!」


 慟哭と共にその場で蹲るメイド。

 その嘆きは真に迫っていた。明日世界が滅びる時に人が感じる絶望を表していた。

 そんなメイドを見て遠藤寺は――


「では行くよ。多分、21時は過ぎるだろうし、一応2軒目も予定しているけど……鍵は開けておいて欲しい。2軒目はこのマンションの近くであることは関係ないけど、ほら……酔い潰れた彼を彼の家まで運ぶのを断念するかもしれないしね、うん、ボクも酔っているだろうし……もしかしたら、彼をこの家に招き入れることになる可能性もないとはいえない、うん、言えない言えない」


 そう早口で告げて部屋の扉を開けた。

 そのまま機嫌よさそうな足取りで家を出る。

 

 残されたのは台所に蹲るメイドが1人。


「こんなんいつまで続けるんですか……お嬢さん、ほんとは友達なんていーへんの分かってるのに……色々とアレなお嬢様に友達なんて出来へんの、わかってるのに……お嬢様、お労しや……ひんひん……」


 ただ悲しむ。本心から仕える主を悲しみ、涙を流すメイドが1人。

 彼女は知っている。幼い頃……それこそ赤子の頃から主を知っている彼女は、誰よりも主の事を知っているのだ。探偵として必要な知識と経験のみを、他者そして自ら得てきた主は、ぶっちゃけ人としてはかなりアレな部類なのだ。正直、自分がメイドじゃなくてパンピーだったら、興味本位近づきはするものの少し話して「あ、コイツヤベーやつだわ」と察してバックステップで距離を置くと。そんなアレな主に友達なんて、とてもとても……出来るわけがないのだ。だったら何故、主は友達が出来たとか戯言をほざき始めたのか。


「お、おのれぇ……大学めぇ……わっちはお前を許さんでぇ……」

 

 主が通う大学に怨嗟を声を叩きつける。

 きっと主はパンピー共が通う大学で過ごす事によって、ほんのわずかだがパンピー共の一般的な感性に汚染されてしまったのだ。高校にはほとんど行かなかったせいで大丈夫だったが、大学には普通に通う必要があった。だからあの年になって気づいてしまったのだ。一般的な感性を少しでも得たことで――


『あれ? ボク友達いないけど、これ4年間1人で過ごすの? ヤバくなーい?』


 と思ってしまったのだ。

 その恐ろしい考え、今までの主なら考えても全く動じなかったが、一般的な感性に汚染された主はその考えから逃避する為に――架空の友人を作り上げたのだ。 

 架空の友人と大学で学び、放課後には飲み歩く。そういった設定を作ることで、主は自分を守っているのだ。

 家で自分に架空の友人との楽しい日々を語る主。その姿を見る度にメイドは心の中で涙を流していた。もういい、もういいと。自分の前では嘘を吐かなくてもいいと。そう言ってやりたかった。だが今日までその行動は実現できていない。仮に自分がそう告げたところで、主の精神はその現実に耐えられるのか、そもそも理解が出来るのか……架空の友人の口調やら普通の人では気づかない癖、何度思い出しても笑ってしまう彼の話、手を引かれて胸が不思議と温かくなった思い出、そんな話を楽しそうにする主を見る度に、この強固な妄想設定を崩すのは自分には無理だ……そう思ってしまうのだ。


「わっちは弱いから……ハァハァ、敗北者やから……お嬢さんを助けられへん……畜生、畜生……もう辛い……マジで無理、しんど……いなろ……」


 四つん這いになりながら涙を流し、精神を安定させる為に稲荷寿司を食べるメイドの嘆きは、無駄に防音性の高いマンションの壁に消えていったのだった……。


■とある美少女大家の1日■


 ここはとあるアパート『一二三荘』の一室。

 1人の少女が椅子に座り、机に向かって熱心に何かに取り組んでいた。


「……」


 普段の朗らかな笑顔ではなく、スッと目を細め、真剣そのものな表情。

 小さなな顔には大きめの赤い縁の眼鏡、そして業務用のマスクが顔のほとんどを覆っている。

 わずかに露出した肌には、拭っても拭いきれない汗がんでいる。

 服はいつもの和服だが、いつも着ている物には無い、着色料の汚れや埃が付着している。

 

 彼女はこの一二三荘の大家である。

 彼女の仕事はこのアパートの管理業務である。家賃の徴収、アパートの掃除や修繕、入居者間のトラブル解決、特定入居者に対する過剰なお世話……とその仕事は多岐に渡る。小柄な体でいつも愛らしい笑顔を浮かべながらでその多岐にわたる仕事を十全にこなす彼女は、入居者からも非常に評判がよかった。通知表で例えるなら『とてもよい』と評される働きである。

 

 そんなスーパー美少女(自称)大家である彼女。

 

「……ふむぅ……ムムム」


 そんな彼女にはここだけの話、いくつもの顔がある。女にはいくつもの顔がある的なアレだ。


 優しい美少女大家さんという顔、敷地内に勝手に自分の菜園スペースを作って野菜やら果物を作る農業系女子という顔、ある特定の入居者に対してちょっとアレな感情を抱いている恋する乙女の顔、本人は知らないが勝手にファンクラブを作られ偶像として『幼聖王オベイロリ』『お親チャマ』『人魚の肉を食べさせたいロリランキング1位』などと呼ばれ祭り上げられているアイドルとしての顔、斎藤〇和に声が似ているということでそこそこ有名なゲーム実況者としての顔、そして――


「ここをこうして……うん! この調子でいけば、期日には間に合いますねー。うむうむ、我ながらいい出来です!」


 知る人ぞ知る、フィギュア造形師――『おーやーちゃん』としての顔である。

 あくまで大家業の副業としてのフィギュア造形師だが、ハイクオリティかつオリジナリティもあり、エロリティに溢れたシコリティ全開のフィギュアは、固定のファンが多く、ネットを介して依頼される仕事が後を絶たない。


「いやぁ、楽しいですねぇ」


 もともと手先が器用で学生時代からアニメや漫画のグッズを趣味で作成していた彼女だが、いろいろあって趣味と実益を兼ねたこの副業を楽しんでいる。最近はこの副業の為に、わざわざアパートの1室を専用の部屋にした。


「よし、と。じゃあ最後の仕上げに取り掛かりましょう!」


 砂糖を3杯ほど投入したミロを一気に飲み干し、腕まくりをする大家さん。

 大胆かつ繊細な手さばきで、デザインナイフ(銘:村正ちゃん)を走らせ、ヘラ(銘:大典太くん)をペタペタし、造形用ヤスリ(銘:パブリチェンコたそ)やピンセット(銘:大泉ピン子)、彫刻刀(銘:5本刀)をアレして、何やかんやすると――


「……しっ。完成でーす! わーい! いえーい! Huー!」


 完成したフィギュアの原型を前に万歳をする。

 

「いやー、我ながら素晴らしい、いやスバラシーバってお礼と賛美を込めた全く新しい言葉で自分を褒めたくなる出来ですねー! あはは! スバラシーバ! うふふっ、大家ちゃんマジスバラシーバ! OMS! OMS!」


 期日ギリギリで徹夜をしていた彼女は、ちょっと頭がおかしくなっていた。結構いつもの事である。

 

「フゥゥ……はぁ、ほんとにいい出来……」


 頬を薄っすら赤く染め、うっとりとした表情でメイドバイ自分のフィギュアを眺める。

 今回依頼されたのは某超有名漫画家の代表作の某太陽編の狼の皮を顔に被せられた某主人公だ。

 体の造形もそうだが、特に狼の顔のクオリティが凄まじい。

 狼の顔でありながら、人間としての顔も想起させられる恐ろしいまでのクオリティ。 


「……ん?」


 その顔を見た彼女は、何か違和感を覚えた。

 何かがおかしい。

 出来そのものに問題はない。

 出来の良さに思わずおわんこペロペロしたくなるくらいグンバツのクオリティだ。


「ん? んんー? ……あ」


 そして彼女は気づいた。気づいてしまった。

 自分が作り上げた作品の違和感に。


「これ……一ノ瀬さんの顔じゃないですかぁ!」


 フィギュアを持ち上げ、至近距離で顔面を覗き込む。

 その顔は狼の皮を被せられた、アパートの住人である男子大学生の顔そのものだった。


「ひぇぇ……ぜんっぜん気づかなかった。うわぁ……自分でもヒくくらい、一ノ瀬さんに似てますねぇ……」


 ジっと見つめる。


「ふーむ、ふむふむ……えへへ」


 そしてニヤける。


「えへ、えへへ、わんこ一ノ瀬さん可愛い、えへへぇ……って、そうではなく!」


 ダン!と勢いよく机を叩く……とフィギュアが壊れてしまうので、そっと机の上に置く。


「あぁぁぁぁ……やってしまったぁ。もう時間無いのにぃ……んもー、ちょっと雑念が入るとすぐこれなんだから……」


 前々から、ふとした拍子に例の男子大学生が頭にちらつく彼女だが、最近は集中しないといけない副業中にも頭をよぎるので困りものだ。極度の集中と頭に浮かんでしまったイメージが混ざり合った結果、こうして顔面のみオリジナルなフィギュアが完成してしまったのだ。


「もー、一ノ瀬さん、私の頭の中に出てき過ぎです! あんまり私を困らせないでください。 ……あ、も、もしかして好きな女の子にはいじわるをしたいとか、そーいうアレですか? だ、だったら……許しちゃいます! えへへ! しゃーねーなーもー♪」


 机の上に置いたフィギュアに向かって話しかけるその姿は、誰が見てもヤベー人だった。

 そのまま顔を突いたり、撫でたり、キスをしようとして……ギリギリで思いとどまったりしていると、1時間ほど経ってしまった。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!? 私の馬鹿ぁぁぁぁぁっ! 時間ないのに! 期限過ぎたらすっごく怒られるのにぃ!」


 ヒンヒン涙を流しながら頭を抱える。

 今から新しく作り直すとして、期限に間に合うかかなり微妙だ。それも万全の状態でという前提であり、今の疲弊した体とフィギュアに話しかけちゃうくらい朦朧とした意識ではかなり危うい。


「ど、どうしましょう……」


 このままだと訪れるであろう絶望を前に、虚ろになった瞳が宙を泳ぐ。

 まるで助けを求めるかのように、その瞳が今しがた出来たばかりのフィギュアを捉えた。


「そ、そうだ……一ノ瀬さんに手伝ってもらえば……! あれ? これいい考えじゃないですか? 他の人は私の趣味を知らないからアレですけど、一ノ瀬さんなら……いや、フィギュア作ってることは言ってないから、ちょっとヒかれるかも……いやいや! 一ノ瀬さんだったら大丈夫! だって一ノ瀬さんだもん! こう……『もう、しょうがないなぁ仁……じゃなくて大家さんは』みたいな! な!? そんな感じで助けてくれるはず! 困ってる私をいつも助けてくれる一ノ瀬さん、好きー! そうと決まれば――」


 笹食ってる場合じゃねえ!といった具合に部屋を飛び出そうとする。

 が、その直前、今まで依頼された物を作る最中で出来てしまった失敗品が収まっている棚が目に入った。

 そこに収められているのは――一ノ瀬辰巳の顔をしたフィギュアの数々だった。


 傷一つ無い、新しい一ノ瀬辰巳が在った。

 未だ完成していない、骨格が剥き出しの一ノ瀬辰巳が在った。

 ロボットですらない一ノ瀬辰巳が在った。

 巨大な一ノ瀬辰巳が在った。

 小型の一ノ瀬辰巳が在った。

 獣の型の一ノ瀬辰巳が在った。

 気体の一ノ瀬辰巳が在った。

 電離体の一ノ瀬辰巳が在った。

 幽体の一ノ瀬辰巳が在った。

 神になった一ノ瀬辰巳が在った。

 魔に堕ちた一ノ瀬辰巳が在った。

 イカになった一ノ瀬辰巳以下略


 そういう感じのフィギュアがいっぱいある棚を見て「あ、これはちょっと部屋に入れられないですね」と大家さんは思った。

 

「これはちょっと部屋に入れられないですね」


 そして口にも出した。

 先ほど出来たばかりの新しい一ノ瀬辰巳フィギュアを棚に収め、机に向かう。

 

「孤軍奮闘……フフフ、いい言葉です。やりますよ、やってやりますよ」


 たった一人で締め切りという敵に立ち向かう。 

 その表情は絶望ではなく、どこか晴れ晴れとしていた。

 諦めた者の顔――否、それは違う。

 彼女は知っているのだ。

 心の奥底では理解しているのだ。

 自分は1人ではない、と。

 自分の作品を純粋に待ってくれているファンがいる。ツイッターの創作アカに自分が作ったフィギュアで何回アレしたとか報告してくるファンもいる。自分が作ったフィギュアを勝手に魔改造しておっぱいをエ〇ケンのキャラばりに奇乳化したファンもいる。

 そして自分の背中を見守ってくれているたくさんの作品(いちのせさん)たちがあるのだ。

 負けられない、そう、敗北は許されないのだ。

 

「よぅし! 私の戦いはこれからです!」


 おーやーちゃんの来世にご期待ください!



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