七 契りの魔物

 夜。


 何もない部屋に一人、リャコは月を見上げていた。


「たった数日の間に、王都が襲撃されて、トレントが実在して、桃源に連れていかれて、グロズヌイの育て親に話を聞いて……一体何から驚けばいいのやら」


 ベッドに飛び込むと、本心が口をついた。


「きっと大丈夫。きっとご無事のはず」


 考えないようにしていた、人といると紛れていた不安が、むくむくと湧き上がる。


「王子……ご無事、ですよね? また、クルーグに乗って帰ってらっしゃいますよね?」


 チーメイを担いで山を下っていた時、クルーグに乗ってリャコを助けてくれた。農夫相手に恐慌を起こした時、自分の命も顧みず、守ってくれた。それより何より、鮮烈に思い出すのは、初めて会った時に見た、深い海の色をした目――


「だけど、あの血の量……」


 ぶんぶん首を振って、不安を振り払う。


「師匠が、アレイザさんが止血をしていたのを見たって言っていたじゃない。大丈夫。大丈夫よ。あの場にはジェナス将軍だっていたのよ? きっと守ってくださる」


 リャコはそれから幾度も、不安を口にしては打ち消すのを繰り返した。


「だって、王子なのよ? あの王子があのまま何もなく、亡くなるわけないじゃない」


 親しい人の死を経験した事がなく、物語でしか死を知らないリャコは、死とは何の前触れもドラマもなく、唐突に起こるものだと知らない。それが、リャコの故なき楽観の源でもあったが……、徐々に不安が、リャコの心を塗り潰していく。


「愛する人の涙が、勇者を死の淵から呼び戻してくれるんじゃないの? ……じゃあ、死にゆく人の傍に、誰もいられなかったら? ただ、後になって死んだと知るだけ?」


 死を前にして、人は何ができるのだろう。今自分がこうして希望と不安の境を行き来している事も、すでに消えた命に対しては等しく無意味なのかも知れない。今ここでどんなに願っても、祈っても、もはや手遅れなのかも知れない。


 けれど、リャコは手を組み、祈っていた。


「お願い、〝盗人の書〟よ。あなたが本当に望むものを手に入れてくれるというなら、どうか。どうか、王子を助けて」


 と、どうだろう。リャコの言葉に反応したかのように手の甲に八重桃の蕾が芽吹き、今にも浮かび上がらんとリャコの手を引いた。風が逆巻き、桃の花弁を巻き取っていく。花弁はいくら千切れても一向に減る様子はない。やがて、渦を巻く桃色の球体が出来た。


「本当に、王子でいいのか」


 不思議な声が聞こえた。男とも女ともつかぬ、もしかしたら、ただ自分が聞こえたと思っているだけの錯覚なのかも知れぬ、そんな声。


「だ、だれなのっ!?」


「言え。ただ一言『イエス』と。しからば我は存在する」


「な、何よ。貴方、どこから話しているの!?」


「我はまだ存在せぬ。貴様が決めるのだ、リャコよ。我は〝盗人の書〟……そなたが欲するものを与えてやる。貴様が願ったのだろう。王子が欲しいと。言え、リャコ・ルーレイロ。ただ一言『イエス』と。しからば我は存在する」


 鼓膜ではなく魂に直接訴えかけてくるような声だ。リャコは逡巡した。


「引き換えに、何を要求するの?」


「何も。お前からはすでにもらっている」


「すでに? どういう事?」


「お前が知る必要はない。失うものは何もないはずだ。リャコよ、これはお前の力だ。お前が好きなように振るってよい力だ。さぁ、望みを言え。本当に、王子でいいのか」


 望むものを? 本当に? 与えてくれるというのか――。実感こそなかったが、本当に自分の手にした力が〝三十七戯曲〟の一つなのだとしたら、そんな事も可能なのかも知れない。リャコは藁にもすがる思いで、首肯する。


「い――イエス


「良かろう。ならば、契約は成立した」


 瞬間、部屋を舞っていた桃の花びらが、ぎゅんと一つのところに吸い込まれ、空間に穴が開いたかのような黒点になった。夜の闇が凝縮したような黒点は、徐々に膨れ上がっていき、人の姿を形作る。


「祝福せよ」


 次に聞こえた声ははっきりと鼓膜を揺らした。涙が出るほど嬉しい声だった。


 闇が形どったのは月白の髪、南海の瞳の君。


「お前の願いは叶えてやったぞ。これでいいのだろう」


 だが、零れた涙を拭う間もないまま、強烈な違和感に襲われる。


「あ、あなたは……王子じゃないの?」


「違う。我の事は……そうだな、ヒルイとでも呼ぶがいい。お前が心から望むになら何にでも化身できる。それが〝盗人の書〟の力」


 確かに、お伽話にある盗人は、あらゆる者に化身して人々から恋の火を盗んで回ったという。書の力が物語と関連しているのであれば、納得のいく力であるが。


「あなたは……龍の首を落としたりできるの?」


「王子とやらに、それが出来るのか?」


「出来ない……と思うけど」


「なら出来ぬ。それが貴様の望みなのだろう?」


 詐欺だ。リャコは叫びたくなった。


「あ、あなたなんか、王子じゃないじゃない! 私が望んだのは本当の王子の方。私はただ、王子に無事でいて欲しかっただけ。姿形だけ似せられても、ありがたくもなんともない!」


「本当にそうか? お前はこの声を、この顔を、望んでいたのではないか。お前が望むならしとねだって共にしてやろう」


 ぐい、と腰を引かれた。


「ほら、もっとよく見ろ。貴様が望んだ男の顔だ。貴様は我を好きにしてよい。思うままに欲望を満たすがいい。古今、誰もが望んだ力だ。恋い慕う相手を、自分の思い通りにしたいというのは。貴様とて、さっき我の声を聴いて、涙していたではないか」


 思わず、身を任せてしまいたくなる。それほどに、盗人の書の化身とやらは王子と瓜二つだった。透き通った翡翠の瞳に見つめられると、何もかも溶けて、飛び込んでしまいたくなる。――けれど。


「ばっ、馬鹿にして!」


「……馬鹿になぞしておらぬが」


 突き飛ばされたヒルイはいささか憤然とした面持ちである。


「ふっ、ふざけるのもいい加減にしてくださいっ! あなたみたいな紛い物、私が望んだお方じゃない! そ、それに……別に恋い慕っていたわけじゃ……尊敬はしていましたけれど」


「……そうなのか? 我がこの姿で現れたという事は、貴様にこの者を恋しく思う心があったという事だと思うのだが」


「どっ、どうでもいいでしょう!? 何なんです、あなたは! ヒルイ……でしたっけ? あなたも〝夜王の三十七戯曲〟だというなら、運命でも何でも捻じ曲げて、王子を助けるぐらいしてみなさいよっ! たっ、ただ姿だけを真似るなんて……余計に酷だわ……」


「ふむ……」


 ヒルイはしばし考え込んだ。


「何よ、何とか言ってみなさいよ」


「お前が姿だけでは満足できぬというなら、仕方があるまい。これからは行動を通して、時間をかけて我が虜としてやろう」


「どうしてそうなるのよっ!」


「分からん女だな。お前が望んだのだぞ、この男が欲しいと」


「そんな……仮にそうだとしても、姿だけの事ではないわ」


「ならば問うが。貴様はこの男の何を知っている? 内面を、過去を。貴様が思う理想像をこの男に被せて、勝手に内面を知った気になってはいなかったか」


「そ、それは……」


「どうせ他者の内実なぞ、誰にも知る由はないのだ。姿さえ同じであれば、人は勝手に同じ人間だと錯覚を起こす。それとも……そうか、この喋り方がいけないのか。……やぁ、リャコ隊長。元気にしてたかい? 王都の襲撃ではぐれちゃったけど、またこうして会えて良かった。泣きはらして酷い顔だ。見せてご覧、慰めてあげよう」


「や、やめて」


「どうしてだい? 君はこれを望んでいたんじゃなかったのかい? 王子に愛されたいと心の底では願っていたはずだ。僕はそれを、君に見せてあげているだけ――」


「やっ、やめて! お、お願いだから……」


 両手を伸ばし、ヒルイを突き放すと、ヒルイはひどくつまらなそうに、


「ふん。強情な女だ」と呟く。


「お願い。王子の顔で、そんな酷い事しないで。もう、王子の顔で笑って見せるのをやめて。お願い。お願いだから……」


「……貴様が望んだ以上、この顔を変える事は出来ん。……だが、貴様が、その王子とやらが髪を染める事ぐらいありうると考えるならば、髪の色ぐらいは変えてやろう」


「なら、お願い。そうして。それで、もう出てって。一人にして……」


「髪の事は分かったが、一人にする事は出来ん。我は貴様の傍を離れる事が出来ぬからな」


「なら、それでもいいわ。早くして」


 ヒルイが溜め息をつくと、彼の月白の髪はみるみる染まっていき、毛艶の良い若駒のような栗色になった。白い眉が暗い色になっただけでも、ずいぶんと王子とは印象の違った顔になる。リャコはその様に一瞥をくれ、


「もう寝るわ。ベッドには入って来ないで。そっとしておいて」


 そうヒルイに告げるのだった。

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