四 樹人

 深い森の中で、そこだけ陽の光が差し込んでいた。


「来たね」


「えと、あの方が? 私てっきり、皆さんと同じサイズの方かと」


「ゴート様は我らが寄る辺の大樹。失礼のなきようにな」


 つんと甘酸っぱい香りが漂う。そこにいたのは、リャコより少し背の高い男だった。丈なす黒髪が木漏れ日の中で艶めく。切れ長の目は、柔和な笑みの形に細められている。花びらのような薄い唇が澄んだ音色を発した。


「そなたを待っていた。リャコ・ルーレイロ」


「え、私の名前」


「怪我をしているようだ。どれ、見せなさい」


 言われて腕を見れば、肩のあたりから血が垂れてきている。


「あの、痛みもないですし、かすり傷ですから」


 と、ゴートの手が垂れた血に重ねられ……、手の甲から、何やら根のようなものが伸びた。


「ひゃっ!?」


「もう傷はないだろう」


「い、今何か……血を、吸った?」


「血というより、傷、そのものを」


「傷そのもの……? ゴートさん、その手……いや、その背!」


 ゴートの背後にある茂みだと思っていたが、彼の背からは小ぶりの姫林檎の樹が生えていた。


「それ……、背から直接、生えてるんですか?」


「生えている、というより、私の一部と言った方がいいだろう。私はそなた達の言葉で言うところのトレントという種族だから」


「トレント!」


 頭を殴られたような衝撃。驚きの余り、何も言葉が出ない。


「そなたの〝傷の実〟が生ったようだ。食べるかい?」


 ゴートは無造作に背中の林檎に手を伸ばし、一つもぎる。


「い、いえいえ。結構です。ちょっと気味悪いかなぁ、と」


「なら、これは私のペットに食べさせるとしよう。リリタ、おいで」


 樹の中から顔を出したのは、小さな白い蛇。体格に似合わぬ大きな口を開けて、姫林檎の実を丸飲みにした。


「夢蛇という。望めば好きな夢を見せてくれる」


「それは何というか、便利ですね」


「あぁ。……本題に移ろう。リャコ、残念ながらそなたは選ばれてしまった」


「え?」


「ジャマル達からは何も?」


「ええと、はい」


「心から同情するが……、そなたは夜を統べる大蝙蝠に目をつけられてしまった。〝夜王の三十七戯曲〟の一つ〝盗人の書〟の語り手として」


「〝盗人の書〟?」


「そなたはフェリカの生まれだね? 〝夜伽の書〟については今でも禁忌かい」


「はい。でも、少しだけ知っています。お気に入りの読み手に、夜の王が力を貸してくださるのだと」


 実際に、リャコは〝夜の王〟に力を請う儀式を目の当たりにした事がある。リャコの言葉にゴートは少し笑みを歪めた。


「力を貸す? そんな可愛らしいものか。まぁ、彼の者について話すには、どうにも私怨が混じってしまう。端的に、事実だけを話そう。創世の物語について書かれた書が世に三十七ある。〝悪魔の書〟〝恋の書〟〝騎士の書〟〝盗人の書〟――王の世が乱れ、地に戦乱はびこる時、それらの書を持つ者がいずこからか現れ、天に代わって道を行うとされる。その大役に、そなたは選ばれてしまった」


「はぁ? え?」


「フェリカの地に、運命によって導かれた侠客達の集う兆しがある。この地のはらんだ戦乱の風は、そなたを中心に逆巻き始めるだろう。そなたにはその風を御す力が与えられる。それが〝盗人の書〟だ」


「ご、ごめんなさい。急な話過ぎて。つまり、私にも〝書〟の使い手のような力が?」


「そう。理解が早くて助かる。見た事があるのか?」


 リャコが見た事のある〝書〟の使い手は、〝蜘蛛の書〟の眷属〝琴蜘蛛の書〟の使い手であった。


 二十人程の農民が彼によって意志を奪われ、連れ去られたが、リャコによって助け出された。尋問をしたマールによると、同時に操れるのが二十人なだけであり、一日に何度でも何人でも操る事が出来ると自慢していたそうだから、百人程度の部隊であれば、彼一人で壊滅させる事も容易であろう程の力だ。


「〝琴蜘蛛の書〟を使っているところを、一度だけ」


「眷属書などとは比べ物にならぬよ。三十七戯曲は全ての物語の源泉。物語の原型イデアとでもいうべきもの。文字通り、世界そのものを書き換える事もできる力だ。……一つだけ問う、リャコ。力を得たいと思うか」


「力、ですか」


「あぁ、そうだ。その力があれば、望むは何でも手に入る。だが一方で、普通の娘としてのささやかな幸せはもはや望めまい。否応なく、そなたは激動の渦に飲み込まれてしまう。そのさなかで、命を落とすやも知れぬ。それでも、手に入れたいと望むものが、そなたにはあるか」


 真っ先によぎったのは海の色の瞳をした青年。どうか、無事で。無事であってくれと、暗殺者達から逃れ、隠れ宮に落ち延びてくれと、避難民達を先導するさなかもずっと祈っていた。


「そなたはあくまで語り手。主人公ではないようだ。このような事は稀に起こる。夜王の詮索も、そう激しくはなかろう。もし、そなたが望まぬのなら、私の力でそなたを夜王の目から隠してやる事もできる。このようにな」


 ふと、奇妙な感覚が走った。ゴートが■■■の頭上に手をかざした瞬間からだ。


「あっ、あの、何だかすごく落ち着かないです」


「そなたは今、塗り潰されている。不便も多かろうが、夜王の目を誤魔化すには、この方法しかないのだ、■■■よ」


 ■■■は自分が自分でないような、自分が何者だったか思い出せないような感覚に陥っていた。


 それは、ひどく疲れて帰った時の、散逸する思考に似ていた。


 何かを思い出そうとして、それを知っている、という事を強く確信しているのに、ぼんやりとして一つの像を結ばない。その感覚は■■■の平常心を大きく揺さぶった。自分。自分は――ゼルマリルの娘、首打ち鋏パーセルの弟子。


「大丈夫。すぐに慣れる。今は混乱しているだけだ。二つ名を使う事もできる」


「私、私は……」


 自分。自分とは何だろう。自分は何をもって自分としていたのだろう。


「それとも、やはり力を望むかね? そなた自身が欲するというなら、止めはすまい」


 私自身。私。私は――王子の警ら隊、三番隊隊長。私が欲するのは――


「力……力がいります。ある人を、お守りする力を。絶対に、マールさん達が助けていてくれていると信じているから……。二度と、あんな事が起こらぬような……もし今、囚われでもしているなら、助けに行けるような……そんな力が」


「そうか……なら、仕方があるまい。三十八番目の書たる、我が〝黒の書〟よ……」


 ゴートが再びリャコの頭に手をかざすと、先程まで感じていた妙な欠落感、足元の覚束ないような浮遊感はかき消えた。


「リャコよ、桃源へと案内させよう。〝盗人の書〟を受け取って参るがよい」


「案内?」


「ああ。私はあの場に足を踏み入れる事ができぬ。――ジャマル、ギャビ、これへ」


「はっ」


「……ここに」


 ずっとそば近くに控えていたジャマル達が、浮遊したまま片膝をつくポーズを取った。


「リャコを桃源へ」

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