二 観桃

 ――考えてみれば王子と二人きりというのは初めて会ったあの日以来かも知れない。無論、目と鼻の先にある王城には今日もアレイザ達が詰めているだろうし、あの日も他の隊員達は宿舎に戻っていただけで、事あらばすぐ駆けつけられる状態だった。とは言え。


「実は、リャコがここまで頑張るとは予想していなくてね」


 桃並木の下を歩きながら、王子。


「正直、驚いている。パーセルの訓練によくあれだけ耐えられるものだ。僕の師はジェナスだったが、パーセルほど気分任せじゃなかったからね。訓練も全て理に適っていたし、納得ずくで励む事が出来た。パーセルが師だと、理不尽と思う事もあるんじゃないか?」


「そ、そりゃあ、父上の為ですもの。……まぁ、お師様はちょっと調子が上がってくると、手加減を忘れておしまいになる事が多いのは悩みですけど」


「今でも、僕の妾になる道も残してあるからね。辛くなったらいつでも言うといい」


「もうっ! お情けで妾にしていただくぐらいなら、師匠の特訓にだって耐えます! 武統祭にだって、勝ってみせますとも」


 なんて事はないように言うのが腹の立つ。貴族の間ではそうでもないのかも知れないが、地方役人の娘にとっては、結婚など一大事である。


「位が不満なら、多少は色をつける事も出来る。元々は采女の予定だったが、リャコも頑張っている事だし、もう一階級ぐらいならば」


「階級の問題じゃありません!」


 フェリカ王室において、妾、つまり側妃の間には主に出自からなる明確な序列が存在する。采女は第四位、すなわち最下級の妻だ。


「悪かった。そんなに怒らないでくれないか」


「べっ、別に! 怒ってなんていませんとも」


 怒っている。なぜだか分からないが、無性に腹が立って仕方がない。


「同じ女性にこう何度もフラれたのは初めてだよ」


「その割には楽しそうで、ようございました事」


「やはり、怒っているね? すまなかった。リャコの頑張りに水を差すような事を言ってしまったようだ。機嫌を直してはくれぬだろうか」


「別に……本当に、怒ってなどいませんとも。……それに、私がブラムド様に求婚されていた時も、お止めにならなかったでしょう。王子のお言葉も本気じゃなくて、庶民出の娘をからかわれておいでなだけだと、分かっていますから」


「そうか。……リャコにはそう見えていたんだね」


「え?」


「いや、からかうつもりなどなかった、許してほしい」


 王子のすまなそうな顔を見ていたら、怒りも冷めてきた。むしろ、自分は何を傲慢にも、これ程父の事を考えてくれている人に怒りを抱いていたのだろうとさえ思う。


「あ~っ、王子様だぁ~っ。まぁたリャコ隊長に怒られてらぁ!」


「えー、おうじきたの? どこー?」


 と、王子の姿を認め、王都の子供達がわらわら集まって来た。子供達の声に誘われたかのように、町人達が王子に挨拶をしていく。


「あら、王子様! 今うちの苺が実をつけて真っ赤なんです! さ、隊長さんも一つずつ持っていってくださいな」


「おや、王子。養老院の雨漏りの修理、ありがとうございますじゃ。工事をしてくれた警ら隊の方々にも、お礼を言っておいてくだされ」


「お、王子。バルジエフの野郎を懲らしめてやってください。あいつ、王都に来るたび、町の女達に無体な事を……」


 あまりに入れ替わり立ち代わり、王子の周りに人が集まるから、リャコは少し面食らってしまう。


「すごい人気ですね、王子」


「まいった、これじゃろくに話も出来やしない」


「並木の影を歩きましょうか」


 大通りの端、一斉に咲き誇る桃並木の外側を歩く。子供達に詫びを行って帰らせると、あれだけ騒がしかったのが急に凪のように静かになった。


「私が武統祭で勝てさえすれば、これ以上、王子のお手を煩わせずとも済むのでしょうけど」


 そうなったら、お役御免だ。ガロンドやアレイザに比べて、何とも頼りない隊長は任を解かれ、リャコは一人になる。獄中の父の世話をせねばならぬから、ソルグレイグを離れる事は出来ないだろうが、王子とこうして話す事も、もはやなくなるだろう。


 いや、王子は父を研究家として高く評価してくれているから、もしかすると、父の付き添いで話す機会もあるかも知れない。それにしたって、今のように二人きりで桃並木の下を歩く事など、この先永久にないはずだ。


「君達父娘には、本当にすまない事をしたと……」


「もう、いいじゃないですか。それより、ほら。綺麗ですよ、桃」 


 今だけ。今限りの景色。例え、武統祭に勝とうとも負けようとも。ならば今だけは、この景色を楽しんでも罪にはなるまい。王子がぼうっと桃の花を見上げる。


「ん。そうだね。もう何年も、ゆっくり楽しんだ事はなかったな……」


「そうなんですか?」


「父の容体が悪くなってからだいぶ経つからね。むしろ物心ついてからと考えると、父の容体が悪くなってからの方が、もう長いかも知れない」


「王子はどんな子供だったんです?」


「僕かい? そうだな……昔は今より、体が弱かった」


「えっ、本当ですか?」


 いまだ一度も打撃を入れる事が出来ないでいる相手が、意外だった。


「あぁ。リャコと同じように、本ばかり読んでいたよ。リャコは日中は外で遊び回っていたそうだが、僕は日中でも外に出たりはしなかった。おかげで、パーセルはいつもつまらなさそうにしていたな。あいつは武門の家柄で、僕のお守り兼遊び相手として僕の傍に付き従うのが役目だった。僕があいつの時間を奪っていなければ、今より、もっと強くなっていたかも知れない」


「今よりも、強く……」


「ぞっとしないか?」


「ええ、確かに」


「父の容体が悪くなっていくのと入れ替わるように、体が丈夫になってね。パーセルと共にジェナスに師事して、多少は剣も振れるようになった」


「ふふ。まぁ、私はその〝多少〟の剣を一度も抜かせた事はありませんけどね」


「まだまだリャコに後れを取るつもりはないが。最近は、あわやと思う事があるよ」


「本当ですか? それは嬉しいです。でも、もう残り二月ですよ。こんな事で本当に武統祭勝てるんでしょうか。せめて、相手の事だけでも知れたらいいんですけど」


「残念ながら、対戦相手はその日その場で卜占によって決められるからね。こればかりは、僕にもどうしようもない。もっとも、他国のようなトーナメント方式と違って、うちの祭りは一試合勝てば褒美がもらえる。そう思えば、気楽なものだろう?」


「う~ん。そうですね、気にしない事にします。お師様にも、今日は難しい事は考えずにしっかり心と体の疲れを取れって言われていますし」


「そうか……なら、悪い事をしてしまうな」


「え?」


「リャコ。振り返らないで」


「あれ、王子。この先、城門ですけど。町を出るんですか?」


「あぁ。そのまま、何気ない風を装って。……尾行けられてる」

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