三 天幕

「おい、なんだこの天幕は」


 フェリシア嬢は天幕に案内されるなり苦い顔をした。


「あの、えとやはり、質素過ぎましたでしょうか」


「ここは下士官用の天幕だろう。私の為に下士官を追い出したのか」


「はい。事情をお話して、お譲りしていただきました」


「阿呆が。下士官が兵に軽んじられるようになったらどうする。その士官には詫びの品を差し入れてこちらに戻ってもらえ。そもそも私は五月蠅いところじゃ眠れないんだ。宿営地から少し離れたところに天幕を作り直せ」


「しゅ、宿営地から離れてしまうと、フェリシア様をお守りできません」


「リンディンゲンがいるから大丈夫だ。それにお前達、警ら隊にも仕事を作ってやらないとな。私が宿営地から離れた場所を希望する事、マールなら知っているはずだが。聞いてなかったのか?」


「マールさんは今お疲れで」


「聞く手間を惜しんだおかげで、二度天幕を設営する羽目になったわけだ。汗を流すのはお前たちだから、私は一向に構わないが。……それから、この花を生けたのはお前か」


「は、はい」


「花を切って生けるのは首切りに通ずる。特に戦地やこうした宿営地では慎め。読書が趣味と言いながら、そんな事も知らんのか」


「お、お言葉ですけど。青嵐記ではそれは古い慣習だと。中には天幕に花を飾った女将軍の話だってありますし」


「その、古い慣習の体現者がお前の目の前にいる女だ。よそから〝古王国〟と呼ばれるフェリカでも一、二を争う旧家だぞ、私の家は。それにあの女将軍だって、旧家の家臣団に嫌味を言われて、生けている花は敵国を代表する花、この束ほど首を取ってご覧に入れるという誓いの意味だと答えていただろう。本当に青嵐記が好きなのか、お前? 読み込みが足りぬようだが」


「ぐぬ……」


「そもそも青嵐記の作者はその後考えを改めたようだぞ。『雪白の指』では時代が後であるにも関わらず、たとえ迷信でも験を担ごうと花瓶を撤去するシーンがあった。まさか、読んでないのか?」


「よ、読んでません……」


「なに!? 読書が趣味と言っておきながら、『雪白の指』を読んでいない!? じゃあまさか、『恋歌桃』も読んでないだなんて、そんなことはないよなあ?」


「そ、そっちは読んでますともっ!」


「なら問題だ。『恋歌桃』は今、無毒化された品種が出回っている。その名は」


水恋桃すいれんとうです! そのぐらい、常識です!」


「じゃあ、その水恋桃は、恋歌桃と、何という品種を掛け合わせて作られたものだ?」


「えっ、そ、それは……そのう」


「分からないか。やはりな。……氷水蜜ひすいみつだ。まるで夏に氷を含んだかのように瑞々しいと、この名がついた。名付けたのは青嵐記の作者だ。ファンとして、この程度は基礎知識だぞ」


「そんな、作品外の事を言われましても」


 しゅんとしていると、横合いから助け船が入った。ブラムドだ。


「おいおい、その辺にしといてやれよ。嬢ちゃんが可哀相じゃねえか」


「ふん。お前のような穢れた仕事に就いているやつが、こんなどうでもいい事で慈悲を見せるのか? お前は仕事で殺した相手に、同じ慈悲を垂れなかっただろうが。こんなところでお飾りの慈悲を見せているぐらいなら、さっさと足を洗って修道者にでもなれ」


「ぐっ。相変わらず口の減らねぇやつ!」


 せっかく参戦してくれたのに、ブラムドはわずか一試合で退散してしまった。


「リャコとか言ったか。こっちはお前が暢気に外を駆け回っている間、一日中、暗い屋敷に捨て置かれて、本だけを友として生きてきたんだ。軽々しく読書が趣味などと、言ってほしくはないな」


「……で、でも。好きっていう気持ちは、変わりません」


「強情なやつめ」


 今にも掴みかかってきそうな様子に、一瞬身を引く。と、二人の間にブラムドが体を差し込み、二人を隔つ壁となった。


「よぉ、お前、そんなんだから若との結婚もうまく行かなかったんだろう。自分自分ばかりじゃなくて、少しは他人の想いも汲んでやれるようになれよ」


「私と王子は〝仮婚〟の頃に円満に別れている。お互い、十かそこらの話だぞ。王家の結婚は手続きがややこしいんだ。フェリカの伝統に則り、結婚とは見なされん」


「それでも、うまくいってたら、正式に結婚するはずだったんだろ」


 思わず、耳をそばだててしまう。まだ小さかった頃の話と分かり、なぜか少しほっとしているリャコがいた。


「こっちからフってやったんだ。立場上、王子から切り出した事になってはいるが」


「だが、お前、今でも若の事が好きだろう?」


「……ちっ。ずけずけと、他人の内心にまで、土足で踏み込んでくる」


「悪い」


「どっちが他人の想いを汲めていないんだ。阿呆が。それに、私の想いは好きというよりは、もっと、……まぁいい。王子に情報を売ったら、とっとと出て行ってやる」


「その事なんだが……ちょうど今、若のところは人手が足りてねぇらしくてな。リンディンゲンにも、来てもらう事になるかも知れねぇ」


「何だって?」


「お前の秘密主義が招いた事だぞ。若に恩を売る為とはいえ、若がこんな辺境くんだりに足を伸ばすまで、情報を秘匿していたんだから。普段なら警ら隊がいるが、あいにくと今は三十人ばかり、保護しなきゃなんねぇお荷物を抱えているらしくてな」


 そこへ、王子に詳しい情報を説明に行っていたリンディンゲンが戻って来た。

 

「お嬢様。少々、面倒な事になって参りました」


「……ふん。今そこの野蛮人に聞いたばかりだ。お前の協力が欲しいと言われてきたんだろう?」


「ええ。ですが、命令、という形ではありませんでしたので。お断りしてきましたが」


「いや、いい。行け」


「お嬢様。わたくし、お傍を離れるわけには」


「今、この宿営地にはジェナス将軍がいるんだぞ? 彼でさえどうにもならないような事態が起きたら、お前がいたところで変わりあるまい」


「代わりに死をお引き受けする事なら出来ます。むろん、一度限りではありますが」


「お前が死ぬような事態なら、一度ぐらい肩代わりしてもらったところで、どの道私もすぐ死ぬ。行け。精々恩を売って来い」


「お嬢様……」


「あぁ、滞在中、私にはマールをつけろと、言づけておいてくれよ」


 リンディンゲンは何か思案していた様子だったが、すぐに頷いた。


「かしこまりまして。では、お二方、王子がお呼びですので、王子の天幕へ。そこでわたくしから、お嬢様の掴んだ情報について、説明させていただきましょう。この辺りで密かに起きている怪異と〝夜伽の書〟……こほん。〝グロズヌイの本人稿〟との、関係について」

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