三 澄明宮

「ゼェ……ゼェ……本当に、王子様はこの先にいらっしゃるのでしょうね?」


 四頭立ての馬車を用意してくれた父には悪いが、馬車は途中で不要になった。都へ向かう途中の宿場町で、書簡を持った役人から別の場所へ向かうよう指示があったのだ。新手の盗賊の罠かとも思ったが、御璽の捺された書簡を見せられては従うしかない。新たな行き先は山深い離宮で、馬車は麓で降りる羽目になった。


「最近じゃ王子は、ほとんどソルグレイグにはいらっしゃらねぇ。この山奥の澄明宮ちょうめいきゅうにいらっしゃるから、腹心らもソルグレイグと行ったり来たりで大忙しだそうだ」


 おかげでリャコは、せっかく着飾ったドレスの裾をたくし上げつつ、大きいとよくからかわれた額に、玉の汗を浮かべて山登りしている。


 心残りと言えば、少しでいいから王都ソルグレイグを見物したかった事だろうか。中央通りの建物は全て白色大理石で作られており、その合間を王国鎮護の象徴たるグリフォンナイツが行きかうというから、どれほど壮麗な景色なのだろうといつも夢想していたものだ。それなのに。


「はぁ、はぁ、いくら妾だからって、新妻に対してこの扱いはどうなんですかね」


「だから、背負子しょいこで背負って行ってやろうかって、おらぁ言ったんだが。偉い役人さんなんかはみんなそうしてるぜ」


 前を行く無精髭の男はガロンドと名乗る偉丈夫で、麓の村長に事情を話したらつけてくれた案内人だった。離宮とは何度も行き来しているので、王子とも顔見知りだというが。


「そ、そんな恥ずかしい真似、出来ません!」


 もう子供ではないのだから、大人におぶってもらって山を登るなんて格好悪い真似、出来ようはずもない。そうリャコは考えたのだが、ガロンドは笑って言う。


「そうかい、そうかい。王子様のところに行く姫君様達はみんな、足が泥で汚れる方を恥ずかしがっていたもんだが。あんたは少し毛色が違ぇようだ。おらぁ、そういう娘っ子のほうが王子には合うと思うぜ」


「それはどうも」


 顔が熱くなる。やはり自分には結婚なんてまだ早いんじゃないだろうか。しかも、正妃ではなく妾だとは。これまで考えないようにしていたものの、今になってふつふつと腹が立ってきた。


 これで王子がとんでもない不細工だったらどうしよう。パンを食べる時、くちゃくちゃ音を立てる男だったら? 所構わず鼻毛を抜くような男だったら、自分は果たして王子を愛せるだろうか。


「ホホ。あまりいじめておやりでないよ。ガロンド」


 助け舟を出してくれた声があった。もっとも、ガロンド自身は先の発言がリャコを密かに傷つけていた事には気づいていない。声の主はマール。彼はオムシュエットと呼ばれる種族で、人族とはかけ離れた見た目をしている。


「ん? 何かおりゃ、マズい事言ったか?」


「あんたの無神経にゃほとほと呆れるね。まぁ、姫さんの前で蒸し返すのもナンだ。いつか教えてやるから、今は前を向いて歩きなさいな」


 マールはメンフクロウに似た涼やかなおもてを風切り羽で隠して笑う。


「おめぇがそう言うなら忘れるけどよ。おれっちとしちゃ、褒めたつもりなんだがなぁ」


「あたしゃ、あんたが人間のメスにどれだけフラれようが構いやしないけどね。もう少し、機微ってモンを覚えなきゃ。いつまで経っても嫁の来手がないのも頷けるよ」


「う~む、おめぇさんの言う事はいつもよく分からん。まぁいい。ちょうど洞窟が見えたところだ。よう、姫君様。あの洞窟が離宮への入り口だぜ」


「入り口……? って、この辺り、どこを見渡しても宮殿どころか建物の影一つ見当たらないんですけど。本当にあんな所に宮殿なんて……あっ、まさか! あの暗がりへ連れ込んで、私にいかがわしい事でもするつもりじゃ」


 するとガロンドは大いに笑った。


「馬鹿言っちゃいけねぇ。おらぁ、姫君様にゃ悪いが、子供にゃ興味ねぇんだ。もうちっと乳と尻が出てたらムラっと来たかも知れねぇがよ。それに、村から半日ここまでひいこら歩いてきたんだぜ? 襲おうと思や、他にいくらでもチャンスはあっただろうが」


「ホホ。あたしも悪いが、牙持ちの啼く声にゃそそられなくてねぇ。おっと、姫さんの事が嫌いと言ってるわけじゃないから、安心おし」


 二人からあっさり否定され、少なからず自尊心を損なうリャコである。


「まったくよ。どうせ警戒するなら、もう少し早い段階で警戒するもんだ。もっとも、この先にいらっしゃる王子様は随従を連れての来訪を許さねぇからな。どの道、おれっち達を信じてもらうしかねぇんだけどよ」


「ええ、そうですよね。分かりましたとも」


 大人の女なら、そもそも無精髭面のガロンドと、種が違うとはいえ男であるマールと三人きりでの山登りという時点で警戒するものなのだ。リャコはしょんぼりしながら、ガロンド達に続いて洞窟へと分け入った。


「中は意外と広いんですね。歩きやすい」


「隠れ宮に通じる唯一の道だから、入り口は狭いけどな。ここを訪ねる腹心の方々が万が一にも怪我しねぇよう、出っ張りを削ったり、石ころが落ちてねぇか、時折見回ったりしてるんだぜ」


 ガロンドは少し自慢げに胸を張った。


「この音はなんでしょう? 水の音?」


「あぁ。今、おれっち達の真上に川が流れてる。ほれ、もう一息だ」


 真上に川? 今何か、この男は不思議な事を言わなかったか。リャコが首を傾げつつ歩いていると、角の向こうに外の光が差しているのが見えた。近づくにつれ、水音はどんどん大きくなっていく。


「滝……滝がある!」


「そらぁ、隠れ宮っていうぐらいだからな。深い山ン中の谷底に、ひっそりと建てられたのが澄明宮だ。周りは急峻で、この滝の裏からしか出入りする事は出来ねぇ」


 白く光る絹糸のような水流が幾本も降り注ぐ。澄んだ水の向こう、深緑の中に佇む白亜の滝殿が見える。滝殿の周りにはいくつかの木造家屋が立ち並び、さながら小さな村のようだ。


「おっと。わざわざ王子自らお出迎えのようだぜ」


「えっ、どちらです?」


 滝壺のほとりに幾人かの影が見えた。みな武装している。ガロンドを仰ぎ見ると、顎をしゃくって彼らを示す。


 あの中に、王子がいるのだろうか。となれば、一番位の高い人物だから、こちらに背を向けて、兵らに指示を出している者……一際目立つ白い髪。動きやすそうな軽装から見える肩は少年らしく無駄な肉のない、かと言ってひ弱そうにも見えない、よく鍛えられたもの。


 彼がこちらに気づく。両側、ガロンドとマールの大きな体が沈み、跪いて礼を取る。顔の仔細は、滝にけぶって、ここからではまだ見えない。彼が近づいてくる。リャコも慌てて礼を取った。


「ようこそ澄明宮へ。君が死罪となるゼルマリルの娘、リャコ・ルーレイロだね。お父上については残念だったが、君に罪はない。歓待しよう」


 逆光の中、彼の薄い唇が柔らかく、父の死を宣告した。

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