桃源水滸伝

斉藤希有介

白き恋の君

月の章

一 恋の果実

 初めに蝙蝠があった。蝙蝠の流した涙は小さな額を伝い、下界へと滑り落ちた。涙からは恋が生まれた。


 恋は尋ねた。


「蝙蝠よ、何故に泣くのでしょう」


 蝙蝠は答えた。


「恋よ、見るがいい。あなたの落ちた世界を。我が涙はいつしか湖となり、立ち込める霧の中には煌めく夢幻の世界が生まれた。我はその世界が恋しゅうて泣くのじゃ」


 恋は言った。


「そうして垂れ下がっていては、こちらの世界に来れぬのも道理。その手を放して、こちらへ落ちて参ればいかが」


 蝙蝠は言った。


「出来ぬのじゃ。我はこうしてにしがみついておらなんだら、恐ろしゅうて恐ろしゅうてならぬのじゃ。我もそちらへ参りたい。なれど、恐ろしゅうて恐ろしゅうて、ここを離れる事が出来ぬ。じゃからこうして、我は泣くのじゃ」


 恋は思案して言った。


「こちらの世界は確かに美しいが、動く物は一つとしてない。さすれば蝙蝠よ。私がこの世界に、恋の火を灯して回って進ぜましょう。恋の火が一つ灯った暁には、あなたのすぐ下の丘に、桃の花を一つ咲かせて報せます。桃は一つ花を咲かせるたび、恋の話をあなたに語って聞かせる事でしょう。あなたの淋しさも幾分かは紛れましょう」


 恋はそう告げると、蝙蝠の元を去った。こうして、蝙蝠は再び独りになった。


「それでっ!? それから蝙蝠は、一体どうなったの?」


「どうもこうもないさ。これで蝙蝠の出番はおしまいだ。この世界は蝙蝠の涙から生まれた。美しいけれど動きがなかった世界へ、恋が火を灯して回った。蝙蝠はもう二度と、お話には出てこない」


「え~っ、ひっどぉ! 王子様、ひどい!」


 子供たちの笑い声が聞こえる。季節は春。王宮の中庭では今、桃の花が満開に咲き誇っている。リャコは彼女の主がすぐ近くまで来ている事を知った。


「なんだい、ひどいだなんて。とんだ言いがかりだ。君たちが、桃の季節が待ち遠しいから、桃の話を聞かせろとせがんだのじゃないか」


「だけどさ。蝙蝠のやつがかわいそうじゃん。ぼくたちの世界が賑やかになればなるほど、蝙蝠はますます淋しくなるでしょう。恋のやつ、嫌がらせしてんじゃないの」


「さぁて、どうだろうね。少なくともお話では、蝙蝠は桃の花が香るたび、一つ涙の雫を垂らすという。それが赤ちゃんとなって、母親の胎に宿るそうだよ」


「やっぱり、泣いてんじゃんか!」


「ははは、確かにそうだ」


 乾いた風が砂を含み、王子の月白げっぱくの髪を乱す。子供達と楽しそうに笑いあう主には悪いと思いながら、リャコはあえて声を荒らげた。


「王子! ユーシュン王子! こんなところにいらしたのですか!」


「やぁ、これはまずい。リャコ隊長のお出ましだ」


「いっけねー! おい、ガキ共! 解散だっ!」


「えーっ、王子ともっといたい」


「馬鹿! 王子はこう見えてこの国の王子だぞ! 色々と体面ってもんがあんだ!」


「たいめん? たいめんってなぁに」


「いいから行くぞっ!」


 年長の少年が、小さな女の子の手を引いて建物の陰に消える。


「あんな小さな子供にまで御身の体面を気にされて、お恥ずかしいとは思われないのですか、王子?」


「あんな小さな子供までこの国の政治の機微を理解できるだなんて、我が国はなんと人材豊かで未来の明るい事だろうと、僕は思っているよ」


「まぁた屁理屈を! んもう。王子が演習をサボるものだから、ジェナス将軍がお怒りですよ」


「演習の事ならジェナスに任せておけば、万事問題ない。それより、君のほうこそけんの腕は磨いているのかい? 僕の目付けにかこつけて、訓練をサボってはいないだろうね」


「その訓練を付けてくださるはずのパーセル様が、王子の代わりにジェナス将軍の演習に付き合わされてしまっているのです!」


 すると、王子は大きな翠玉の目をぱちくりさせ、しまったというふうにべろを出した。


「やぁ、それは予想して然るべきだった。僕のミスだ」


「そうです。王子がしっかりしてくださらないと、私が困ります」


「すまない。では、圏の稽古は僕が代わりにつけてあげよう」


「えっ?」


 予想外の展開に、今度はリャコが面食らう番だった。


「そ、そんな事をしていただくわけには。そもそも王子が今日のご予定通り、ジェナス将軍の演習にご同道してくだされば、パーセル様のお手が空き、私の訓練もつけてもらえるのですが」


「演習と言っても、普段の教練とは違う。今日の演習は道中のロックアント討伐も兼ねた、タカランとの国境まで出向いての大がかりなものだろう? もうとっくに、城を発っていないと、今日中に中継地には辿り着けまい。今から追ったところで追いつくのは夕刻。そこからパーセルが取って返していたら、明日の朝になってしまう。君の訓練が一日分疎かになってしまうだろう」


「そ、それはそうですけど……でも」


「いいのかい? 君は少なくとも僕ぐらいなら、簡単に倒せる程度には強くならないとマズいんじゃなかったのかな。さもなくば、僕のよ? もっとも、僕はそれでも、一向に構わないわけだが……」


「わ、私は構います!」


 顔が火照っていくのが自分でも分かった。リャコはこの半年でだいぶ小慣れてきた手つきで両の腕輪をくるりと返し、しかと握りこんだ。鉄製の打撃用の輪、圏だ。


「分かりました、王子! 手加減しませんからね!」


「その意気だ。では、どれほど腕を上げたか、見てあげるとしよう」


 一方の王子は無手むて。とは言っても、王子に初めて会って以来、何度手合わせをしても王子には一度も打撃が入った事はない。リャコはまだ少しぎこちない動きで王子との距離を詰めながら、あるじにこうして直に仕えるようになった経緯いきさつについて、思い返していた。

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