異世界年越譚


 テントに入り込んだ羽虫型のミトラが、鉱石灯の周りをくるくる飛んでいたかと思うとぽたりと落ちた。ミトラ避けの香を焚いていたためかと思い、零夜は地に落ちたミトラを摘み上げた。既に死んでいるのか、指が触れてもぴくりとも動かない。

 「禍母祓の日だからな」と、キヤは言った。

 一年の最後の一日を禍母祓かぼはらえといい、一年間に溜まったわざわいを祓って翌年の幸福を願う。禍母とは死をつかさどる女神ギーヴェリを指し、今日はギーヴェリが最も活動的になる日なのだという。ゆえに小さく弱い生き物は、禍母祓の日に息絶えることが多い。ミトラも、人間も。


 不安げな顔をした零夜に「俺たちは大丈夫だよ」とキヤは笑ってみせる。

「俺たちは若いし健康だし、身体の中に死が溜まっていない。でも病人とか、赤ん坊や年寄りなんかは気をつけなきゃいけない。死に近いからな。そういう人らは、禍母祓の日は家でゆっくりしとくのが一番良いのさ」

 零夜は、摘み上げたミトラの死骸に視線を戻した。香にあてられたのか、寿命だったのか、あるいは死の女神に命を吸い取られたのか。とにかくもう二度と動くことのないその小さなものを、テントの外に捨てる。他のミトラに食べられるか持ち去られるかして、死骸は夜にはどこかへ行ってしまうだろう。


「さて、俺たち健康な若者は、やることがたくさんあるぜ」

 キヤにならい、零夜も腕まくりをする。禍母祓の日は太陽が昇っている間に全ての作業を済ませなければならない忙しい日だ。身の回りの清掃に、特別な夕餉の支度。そして年越しのために行なう儀式の準備だ。

 まずは清掃。身の回りや普段使っているものを清める。といっても特別な道具や手順は必要なく、禍母の夜に道具としての寿命を迎えないように、祈りを込めながら汚れを落とすだけだ。

(要するに、大掃除だな)

 零夜は靴を磨きながら、元いた世界での懐かしい記憶に思いを馳せる。家の大掃除では、零夜は風呂場と台所の換気扇掃除と窓拭きの担当だった。旅をしている今となっては、換気扇も窓も無縁のものだ。その代わり、雨風を凌ぐ天幕や厚手のマント、石やぬかるみから足を守る靴、日々の食事を支える鍋や食器類が「清め」の対象となる。


 火を囲んで零夜の右手では、キヤがほつれたマントの裾を繕っている。その向かいでは、ティエラが白磁の食器を丁寧に磨いている。陶器の触れ合う音と火のはぜる音だけが響く天幕の中で、零夜は無心で手を動かした。やがて沈黙に飽きたのか、ティエラが小さな声で歌い始めた。彼女が歌い終えると、次はキヤが歌い始める。お前も歌え、とキヤに目配せをされたので、零夜も下手なりに沈黙を埋める手伝いをする。「ゆきやこんこ」を歌うと「分かる分かる、猫ってそうだよね」とティエラが喜んだので、零夜はなぜだか「してやったり」という気持ちになって、ひそかにほくそ笑んだ。



 午前は清掃だけで時間が潰れた。昼に軽い汁物を胃におさめ、午後からは日暮れの時間に気を付けながら、時間配分を考えて作業をしなければならない。

「よし、じゃあまず晩飯の準備だな。禍母祓の夜は穀物と植物の葉、生き物の肉、塩、水もしくは酒を用意して食う。なるべく普段から食べてるやつがいいんだが、なんかあるか?」

 零夜は食料袋の口を大きく広げ、キヤが述べる食べ物を探す。穀物は米が充分にあり、植物の葉はその辺りで食用の山菜を摘んでくればいい。この一帯は植生が豊かで、そういったものを探すのに特に苦労はしないだろう。

「生き物の肉ってのは、ミトラ肉でもいいのか?」

「いや、ミトラは避けた方が良い。羊の肉がまだあったろ。それにしよう。塩と水はあるし……よし、問題なく揃うな」

 自分たち三人の分と、神餞として生の女神メシエ・トリドゥーヴァに捧げる分とで合計四人分、食材と食器の準備をする。ティエラは山菜と、儀式に使う物を調達してくると言って丘の方へ出掛けていった。その間、零夜とキヤは午前にやり残していた清掃の続きをする。天幕の大きな布の隅から隅まで、汚れやほつれがないかを確認し埃をはたく。作業をしながら、零夜はキヤに「しりとり」なる言葉遊びを教え、それに興じた。異世界の知らない単語が次々に飛び出し、これは単なる暇潰し以上に思いがけず良い勉強となった。


 日が大きく傾く前に、ティエラは山菜と青い野花を抱えて戻ってきた。青い花は汁を絞って儀式に使うのだという。

 零夜とキヤは夕餉の支度をし、その間ティエラは新年の儀式の準備をする。今日だけでなく明日――新年の儀式にも色々と使うものがあるらしく、しかしそれはティエラひとりで準備しなければならないといって、零夜は手伝いすらさせてもらえなかった。

 禍母祓えの日の夕餉は、調理法も簡素な方がいい。米を炊いたものに、羊肉と山菜を炒めたもの。それに、塩と水を少し。腹が満たされるほどの量ではなく、これでは夜には空腹になってしまいそうだった。しかしそれくらいがちょうど良いのだという。

 神饌として捧げる分は白磁の器に収められ、天幕の隅に布をかけて置かれた。あんなところに放置して、ミトラが入ってきてつまみ食われやしないかと零夜には不安があったが、その心配は無用だとティエラは笑った。

「今夜は禍母祓えだもの。ミトラたちも、死の女神が恐ろしくてじっとしているわ」


 さて、ここからは駆け足で行なわなければならない。ついに禍母祓えの儀式そのものが始まるのだ。「ついに絶えたり」と唱えながらかまどの火を落とし、水がめに蓋をし、糸巻きの糸の端を固く結ぶ。

「糸巻き? アランジャではそうするのか。俺んとこは小刀を鞘におさめて、それに真っ黒な布をかけてたな」

 キヤが興味深そうに言う。「地域によって結構違うのね」と、ティエラも納得したように頷いている。

「要するに、人の世は終わりましたよって、ギーヴェリに思い込ませるための儀式なの」

 零夜に向けて、ティエラが噛み砕いて説明をしてくれる。

 死の女神ギーヴェリは、全ての人間の死と文明の終焉を望んでいる。そのため文明を象徴するものを儀式的に「終わらせる」ことにより、死の女神を欺こうということだった。

「アランジャは生活の中で糸をよく使うから、糸巻きの糸を結ぶということが象徴的な『終わり』なのね。でも、そしたら旅人はどうすればいいのかな」

 旅人にとって象徴的な「生活」とはなんだろう、とティエラと零夜は考え込むが、その答えはキヤが持っていた。まだキヤが零夜たちと出会う前、行きずりの旅人に教わったらしい。

 靴を逆さまにして置く。なるほど確かに、靴は旅のかなめである。全てが清められた空間で、火は落とされ、携帯水瓶の口は固く閉じられる。三人分の靴が逆さまに置かれ、天幕の中に奇妙な沈黙が満ちた。昼に感じた心地よさはない、いよいよ夜を迎える重苦しい沈黙だった。


ついに絶えたり」

 キヤの声と共に、ひとつの鉱石灯を残して全ての明かりが落とされた。この儀式が終わったのちは、日が昇るまでは決して家の外に出てはいけないし、他者と言葉を交わしてもいけない。日没後は、ギーヴェリが人間の生き残りを探して外を徘徊するためである。悪神の前に非力な人間は、ただ身を寄せ合って息を潜めるしかない。

 空は茜色から濃藍色へと変わり、やがて闇が広がれば夜がちる。三人は早々に寝具を広げ横になった。天幕の布一枚を隔てた向こうに死の女神が摺り歩くような不気味さ。その陰鬱な気配から逃れるには、眠ってしまうのが一番だった。

「おやすみ」

 キヤがを呟いた。禍母祓えの夜は会話をしてはならないが、どうしても会話をする必要がある場合は独り言というていで言葉を交わす。「おやすみ」と、零夜とティエラも呟いた。あくまで独り言だ。

 零夜は顔を半分寝具にうずめ目を閉じた。血の巡る音が耳元でごうごうと鳴る。今この瞬間、死の女神は深海から這いずり出て、生あるもの全てを終わらせんと徘徊しているのだろうか。そんなことを考えながら寝たためか、零夜はその夜酷く恐ろしげな夢を見た。細かな部分までは記憶に残らなかったが、暗く冷たく、寂しい夢だった。夢の中で彷徨う零夜を、死の女神の緑色の瞳がじっと見つめていた。



 翌朝、真っ先に行動を開始したのはティエラだった。新年の儀式をしなければならない。禍母祓えの儀式が死の女神を遠ざける儀式ならば、新年の儀式は生の女神を呼び込む儀式だった。

 日が昇ると、家人のうちひとりが生の女神メシエ・トリドゥーヴァの代行者を演じる準備をする。代行者は必ず成人女性でなければならない。つまりティエラこそが適役だった。

 ティエラは青い野花から絞った青い染料で、顔や身体を装飾した。模様は幼い頃から教わって何度も描いたため正確に覚えている。額や頬、おとがいから首にかけて、そして鎖骨や腕や脚にも、なめらかな曲線を描いていく。

 それが終わると、夜に用意されていた神饌を食べる。布をかけてあったそれはいくらか乾燥こそしているものの、ミトラにかじられた形跡はない。量の少ないそれを食べ終わると家の外に出て、ティエラはひとつ柏手を打った。

「かりのよにかみありてしんのよにかみなし。ひとひととなりてかみついるこそさいわいなり」

 凛と張り詰めた声で祝詞のりとを唱える。もう一度、手を打つ。そのまま祝詞を唱えながら、天幕の周りを反時計回りにゆっくりと歩く。早朝の空気は氷のように冷たく、薄手の聖装では寒さから身体を守るに心もとない。ティエラは身体の芯から沸き立つような震えを抑え込み、祝詞を唱え続けた。

 天幕の周りを三周すると、ティエラは布戸に吊るされた鈴を鳴らした。少しの間があり、布戸が持ち上がる。零夜とキヤが無言で彼女を迎え入れ、彼女もやはり無言で天幕の中へと入った。


 零夜とキヤはティエラの前に座り、ティエラは厳かな仕草で青い染料の入った小皿を掲げた。二人の頬に青い染料で簡易的な模様を描く。染料は零夜の顎を伝い膝の上へ垂れたが、零夜は言われた通り目を閉じたまま微動だにしない。

「ただしきひとなり」とティエラが唱え、目を閉じたままの零夜の口に聖餞が差し込まれた。

 人から神へ捧げる食物が神饌ならば、聖餞は神から人へ贈られる食物だ。聖餞は穀物を丸め固めたものに加え、甘いもの、塩っぱいもの、苦いもの、酸っぱいものを一口ずつ用意する。この時、差し出された聖餞は必ず代行者の手から直接口で受けなければならず、自分で手を使って食べることは禁忌タブーとされている。

 口に差し込まれる聖餞を咀嚼して飲み込むと、また次の一口が差し込まれる。最初に炊いた米。次に蜜を絡めた胡桃くるみ。塩で揉んだ青菜。生薬の原料にもなる根をおろし丸めたもの。種を抜いた酢漬けの小桃。

 それらを全て食べ終わると、零夜は目を開けた。隣りにいるキヤはまだ目をつぶったままだ。零夜はキヤに教わったように、「おんみのにわに、とこしえに」と返しティエラに一礼した。キヤも食べ終わると同じように返礼し、これで儀式の全ての過程が終了した。



「あーーー疲れた!」

 ティエラが倒れ込み、零夜も気が抜けて無意味に笑ってしまう。禍母の危機も去り、無事に善なる女神を呼び込んだ天幕の中は、こころなしか昨日より明るく澄んで見えた。

「ティエラ、お疲れさん。外寒かったろ。なんか温かいもん食べようぜ」

 キヤがティエラをねぎらい、携帯かまどに火種(植物の種子。乾燥させた火種の殻を割ると中から火を噴出する)を投げ込んで火を起こす。零夜はお茶の準備をするため、荷物の口を開いて茶葉の缶を探す。

 儀式が終われば、あとは新年を祝って盛大に宴を催すだけだ。とはいえ旅をしている彼らにそうそう贅沢はできず、せいぜいいつもより騒ぎながら飲み食いを楽しむ程度だ。

 まずは湯を沸かして熱いお茶を淹れ、「あー寒い寒い」と毛布にくるまっているティエラに差し出す。ティエラは一口飲むとほうっと大きく息を吐き「無事に終わってよかったねえ」と言った。かじかんでいた彼女の指は、お茶の入ったカップに温められてほんのりと赤く色づいている。

「ティエラ、何食べたい?」

「んー、こないだ作った燻製肉! あれにチーズ乗せて食べようよ」

「おっ良いなそれ。じゃあ酒も開けよう」

 零夜は燻製肉とブロックチーズをいつもより分厚く切り、キヤは私物の酒瓶を眺めてどれが宴の場に相応しいか吟味している。ティエラもお茶を飲み終わると上着を羽織って毛布から抜け出し、昨日のうちに大量に作っておいた棒餅を火にかける。

「じゃあ、改めて」

 宴の準備が整うと、キヤが杯を掲げながら言う。

「今年も息災でいよう」

 キヤは芋の蒸留酒、零夜とティエラは度数の低いニシュ。それぞれ満たされた杯を掲げ飲み干す。昨日から緊張の連続だったせいか零夜は朝だと言うのに疲れ切っていて、酸度の強いニシュが身体に染み渡っていくように感じた。

 チーズを乗せた燻製肉を串に刺し、火で炙る。溶けたチーズが垂れないように気をつけながら焦げ目をつけ、熱いうちに口へと運ぶ。

「うめーーー」

 キヤが唸った。零夜はウンウンと頷きながら無言でご馳走を噛みしめる。ティエラは「これ一回やってみたかったんだよね」などと言いながら、棒餅に蜜を絡めている。

「どう?」

 零夜が蜜餅の乾燥を尋ねると、ティエラは「蜜の甘さが強すぎて微妙……」と呟いた。苦味がほしいかと零夜が濃いお茶を差し出すと、ティエラはそれを一気飲みした。

「砂糖醤油とか、きな粉くらいの甘さが良いのかもね」

「出た、ショウユ」

 ティエラは醤油を知らないが、零夜の口から度々その単語が出てくるためにすっかり覚えてしまっていた。塩味のするものだが塩とは全く違う味で、風味豊かな調味料。以前漁港に寄った際に買った魚醤で、ある程度の味の雰囲気は掴んだようだが、零夜の言う「豆から作られた醤油」はいまだ味わったことがない。

「ショウユと砂糖を混ぜるの?」

「うん、甘じょっぱくて美味しい」

「いいなー食べてみたい。キナコっていうのは?」

「きな粉は、炒った豆を粉にしたもので」

 ティエラが「また豆!」と笑った。「レイヤの故郷は豆が好きなのねえ」

 つられて零夜も笑う。キヤが思い出したように「そういや豆もあるぞ。食おうぜ」と、小石ほどの大きさがある豆が詰まった袋を持ち出した。扁平なミトラの背に生えるその豆は、豆の中に肉汁のように油が閉じ込められており、塩を振って焼くと非常に美味い。

 火に欠けられた金網の上に並ぶ、燻製肉や棒餅や豆。親しみ深い正月の風景に近付いた気がして、零夜の口角が自然と上がる。酸っぱいニシュを飲む。


 その後はひたすら飲み食いし、何ということもない話に花を咲かせた。新年の儀式で女神の代行者を演じる成人女性がいない場合はどうするのかとか、聖餞を自分の手から食べることは禁忌であるが、一人で旅をしていたときはどうしていたのかとか、そういった実用的なことも話題にのぼる。キヤの答えとしては、女性がいない場合は男性が女装して代行者を演じる。一人で旅をしていた時は聖餞は串に刺して、なんとか手を使わずに食べた、ということだった。

「見たかったな、キヤの女装……」

 零夜とティエラがほぼ同時に同じことを呟き、キヤは露骨に嫌そうな顔をする。

「俺より零夜の方が似合うだろ。細っちょろいし」

「いやいや、キヤの方が絶対似合うって」

 どちらが似合うか不毛な言い争いをしている二人の間に、ティエラが「はい!」と手を挙げながら割り込む。

「どっちも女装してみればいいと思うな!」

 「しねえよ馬鹿!」と、笑い混じりのキヤの怒号が飛んだ。


 新年の第一日目はゆっくりと過ぎていく。空は快晴で突然の雨に困らされることもなく、刺すような寒さも天幕の中までは侵入してこない。歌ったり踊ったり、どこからか迷い込んだ小さなミトラが棒餅を齧っているのを現行犯で取り押さえたり、笑いは絶えなかった。

 用意した酒も食べ物もすっかりなくなり片付けに取り掛かろうかというとき、零夜は新年には欠かせない「あれ」を言っていないことにようやく気が付いた。

「キヤ、ティエラ。あけましておめでとう」

 キヤとティエラはきょとんとしたあとで「それ、新年の祝詞?」と訊く。祝詞というほど大したものではなく、ただ新年を祝う挨拶なのだと説明すると、二人も「あけましておめでとう」と零夜に返した。ついでに「あけましておめでとう、今年もよろしく」という一連の挨拶を、特に若者なんかは「あけおめ、ことよろ」と略すのだと余計なことも教えると、ツボに入ったのかキヤはしばらくそのネタで笑っていた。


 ぬるい黄金色の斜陽が天幕を照らす。

 禍母の気配は消え去り、息を潜めていたミトラたちもまた、かさこそと普段の営みを再開しつつあった。


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