第14回

 蟲笛が蟲の生体に――魂と呼ぶべきものが存在するとすれば魂に、強く作用するということを、千代は把握していた。久遠に教わったのか、あるいは自ら学び取ったのかは、今となっては判然としない。ともあれ、特別な吹き手の奏でる蟲笛の旋律は、蟲に号令をかけるのみならず、その性質に影響を及ぼしさえするのだと、人間たちは理解した。

 蟲の変身能力を制限できないか? そう人々は考えた。蟲の取りうる姿が、人間の想像力で卑小な生物と認識しうるものに留まるならば、安心だ。人間の与えた言葉も取り上げ、忘れさせよう。それだけのことができる「封印の旋律」をおまえが吹けるならば、蟲たちは生かしてやってもいい。千代、それができるか?

 彼女は成し遂げた。蟲たちの生命と引き換えに、彼らが人間とともに育んだものすべてを奪い取ったのだ。

(悲しまないで、と久遠は千代に言った。ただ元に戻るだけだから。ほんのいっときでも、人間と一緒にいられて楽しかった。私はあなたを忘れてしまうけど、あなたはどうか、たまにでいいから私を思い出してね)

 久遠の心を形作ったのは、他でもない千代の心だった。その事実がまた、千代を苦しめた。自分が久遠を愛しはじめていることに、彼女は薄々、気付いていた。

 橋は落とされた。長い年月が過ぎ、人間もまた代替わりして、かつて蟲と取り結んだ関係を知る者はいなくなっていった。なにもかもが元どおりになる――はずだった。

(でも手違いが起きた。かつて久遠だった蟲たちのすべてが死に絶えても、その記憶だけは留まった。さざめきとして、明滅する光の規則性として、水の流れとして、森全体が久遠という記憶を守りつづけた。つまり封印の旋律は、完璧じゃなかった)

 そして、久遠は眠りから覚める。蟲たちは再び、人間という物語を想像し、演じはじめる。ただし、その自己認識は完全ではない。

(今の久遠は、自分が蟲の集合体であることを知らない。人間たちが生み出して繰り返し語った、そしてあなたもまた信じ込んでいる迷い子の伝承が、久遠の意識に作用している)

 久遠は人間ではない。蟲に憑かれた迷い子が人間ではないのとはまったく違った意味で。

 久遠が人間であったことはない。人間よりも人間らしく蟲であろうとした久遠は、生まれたその瞬間から蟲だった――。

(過去の物語は、定められていたように現代の物語へと繋がる。巡るように。水琴の成す円環のように)

 西の森の蟲たちが騒いだのはなぜか。人間たちのあいだに高まった憎悪、この争いの前兆を、彼らが鋭敏に感じ取ったからだと、私は考えてきた。

 しかしそれだけではなかった。遥か昔にかけられた封印の旋律の一部が解け、久遠が甦ったから。

(蟲たちは久遠の存在を、人間の目から隠そうとした。だからあなたたち調査隊がやってきても、初めのうちは静まり返っていた。しかしあなたたちは引き返さず、久遠のすぐ近くにまで来てしまった。蟲たちは慌てて、あなたたちを追い払おうとした――大蜈蚣の姿になって。結果は半分成功、半分失敗、といったところ。大蜈蚣に敵わないと見た男たちは逃げ帰った。でもあなたが、久遠に出会ってしまった)

(それは安珠が)

 と思わず言いかけた。それだけで私の思考は伝わったらしく、

(そう。傷ついたあなたを放置していれば、久遠は見つからずに済んだかもしれない。でもできなかった。できなかったの。あなたは千代ではないのに)

 浮かんでいた涙が頬を伝って落ちた。私を包み込む水に溶けて、消えていく。

(あなたは、森? 森の命?)

(水であり、蟲であり、久遠でもあり、あらゆる生命であり、死者であり、森そのものでもある。理解しがたいでしょうけど)

(――分かる気がする。私、夢を見たの)

(そう。どこかで会ったのかもしれないし、いつか会うのかもしれない。結局のところ私が何者なのかは、あなたが時間をかけて考えればいいこと。今は目を覚まして、あなたの成すべきことをして)

(待って。これも夢なの?)

 気配が遠ざかった。いくら待っても返事は来ないだろうという確信が生じ、同時に、心身に現実感が伴いはじめた。視界を満たしていた光は失せ、眼前にはただ洞窟の壁面と薄闇ばかりがある。体はまだ水に浸されたままだが、夢見るような浮遊感はもうない。ただ純粋に、冷たい。

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