【ヒマワリ:大学編】ジンブンのオノミチさん②

 三限が終わってしばらくすると、真面目そうな男の子が傘を三本持ってやってきた。

 この人は知ってる、写真科一年のサツキくんだ。美術科と写真科は、教養科目で同じ講義を取ることがある。彼は「清潔感あるし、育ち良さそうだし、ちょっと少年っぽさがあって可愛い」と美術科女子の間では中々の評判なのだけど、それを跳ね飛ばす勢いで「オノミチさんの取り巻き一号」という称号が頭上に輝いているのだ。


「リコちゃん、傘取って来たよ」

「メイくぅん、ありがと~! 良かったぁ、つい置き忘れて来ちゃったのぉ!」


 急激に甘くなったその声は、噂のオノミチさんをそのまま表していた。なるほど姫キャラを演じてるんだ、という感想を持った私に、サツキくんがビニール傘を差し出した。


「あなたは、これを使って」

「え?」


 ぽかんとする私に、サツキくんはにっこりと笑って「彼女に頼まれたんです」と言った。


「傘忘れ同士で相席してるから、傘を一本買って来るようにと。ワンコインの安物なので、後はそちらで処分して下さって結構です」

「え、わざわざ買ってくれたの?」

「ええ、でも本当に気にしないで。リコちゃん行こう、四限に遅れる」


 サツキくんは自然な振る舞いで、オノミチさんの手を引いた。彼女は慌てたようにバッグを掴み、私に向かって隙のない笑顔を浮かべた。


「それでは失礼しますね。機会があれば、またどこかで」

「えええ、えっとっ、あのっ、いろいろありがとう!」


 私がロクな反応もできないうちに、二人はさっさとカフェから出て行ってしまった。彼女が捨て忘れた紙製のタンブラーはホットココアのもので、なんとなくそれを自分のカフェラテ用タンブラーに重ねた。

 そんなことをしても、私は彼女になれないのに。


 お店を出て傘を開くと、透明なビニールに雨粒が散らばった。キラキラ光って、なかなか悪くない……あの二人との出会いも、悪くはなかった。

 ご機嫌で芸術学部棟の横を抜け、日本庭園の前を通って裏門から出て、ハヤトが住んでるボロアパートの階段を上がる。

 二階の最奥、二〇四号室のブザーを鳴らすと、中からハヤトが出てきて「傘」と言った。視線が釘付けになったビニール傘を玄関の傘立てに突っ込んで、そのまま部屋へ上がり込む。


「それ、わざわざ買ったのか。居場所を言えば持って行ってやったのに」

「へへへ、言えないところにいたんだよーん」

「は? まさか男と会ってたんじゃないだろうな? 俺は許してないぞ?」

「ざーんねんっ、そんなんじゃないでーす!」


 ハヤトの保護者っぷりに笑いながら、勝手に冷蔵庫を開けて牛乳を取り出し、洗いカゴの中のコップも勝手に拝借した。

 口の中に残るはちみつカフェラテの香りを、牛乳で流し込むイメージ。

 オノミチさんと接触した痕跡を、消したかった。


「ねー、お夕飯、何食べたい?」


 適当に荷物を放り出してダイニングチェアを拝借すると、ハヤトは私の正面に座った。


「あ、今日はスガさんが食いに来いって。野菜が届いたから、バイト休みのカメイ料理長が腕をふるうらしいぞ」


 ハヤトが嬉しそうに笑う。スガさんの実家は専業農家で、毎月のようにお米や野菜を大量に送ってくる。うちの実家も、おじいちゃんが元気だった頃は兼業農家だったから、大量の野菜を見ると懐かしくなるのだ。


「カメイくんって、居酒屋でバイトしてるんだっけ?」

「だな、今日はニシも来るらしいぞ。アイツ実家住みのくせになぁ」

「あはは、ほんっとありがたいよねー。このアパートでスガさん配給にお世話になってない人っているのかな?」

「いないだろ、大家にも持って行ってるらしいし」

「あはははは、スガさんさすがー!」


 こんなくだらない話をしながら、この部屋にいるのが好きだ。だけどハヤトに彼女ができちゃったら、私はここに来られなくなってしまう。

 オノミチさんは、すごく可愛かった。ほぼ完璧に近いレベルで、彼女は「理想の女の子」だった。ハヤトの心が持って行かれてしまったのは、今更どうしようもないのかもしれない。

 だけど、オノミチさんがハヤトを相手にするとは限らないじゃないか。サツキくんは多分、彼女に本気で恋をしてるんだと思うし……もしかしたら、既にこっそり付き合ってるんじゃないか、とも思う。

 このまま私たちとの接点がなければ、同じ大学に可愛い同期がいたねって、いつか思い出話になるだけのことだ。

 じゃあ、オノミチさんじゃない誰かが、ハヤトを好きだと言ったら?

 ずっとずっと、今のままでいられるだろうか。

 ハヤトは、誰のものにもならないでいてくれるだろうか。


「ねーハヤトー、彼女って欲しい?」


 いらない。興味ない。そんな返事を期待しながら、聞いた。


「なんだよ急に」

「いーじゃん、ハヤトそういうのあんまり言わないし」


 ハヤトはしばらく考えて、そうだなぁ、と難しい顔をした。


「俺が彼女を作っても、幸せにしてやれるとは思えないからな……作るべきではない、とは思ってる」

「なんでやねん」


 予想外のネガティブな返答に、思わず芸人さんみたいなツッコミをしてしまった。エセ関西弁。


「結婚とか全然興味が持てないし、だからと言って遊び感覚で付き合うような、無責任なこともしたくはないしな。そういうことを考えてたら、彼女とか面倒でしかない」

「わたしらまだ十代デスヨ!? それちょっと先走りすぎじゃない!?」

「そうか? まぁ、そもそも女と喋るの自体が苦手だしな。だいたい一方的に自分の話を喋り続けて、返事が気に入らないと泣くかキレるかだろ?」

「それはハヤトが毒を吐くからでしょ……」

「そうは言ってもなぁ。機嫌を取る為の言葉を真に受けて、実害を被るのは本人じゃないのか?」


 らしさ全開の発言をぶちかましたハヤトは、一瞬だけ動きを止めて、急に耳まで赤くなった。


「多分だけどさ……本気で誰かに惚れたら、きっと、こんな話はどうでも良くなるんだろうな……」


 そう言ったハヤトの顔は、とても優しかった。その心の中には既に、オノミチさんがいるような気がして――もうあの人には勝てないのだと、思い知らされるような気分だった。

 ずっと一番近くにいたのに、家族という立場を捨てられなかった私は、結局「妹」にしかなれなかった。

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