ラストゲーム 3

 強烈な眩暈に思わず目を閉じた、その一瞬のことだった。草木の生い茂る自然の中にいたはずのジョゼが立っていたのは、つるりとした床の上。白と黒の正方形が交互に並べられた、まるでチェス盤の上のような空間の隅だった。盤の端を覗き込めば、暗いばかりで底の見えない闇が広がっている。


「ここは……?」

「……くそ、何のつもりだ悪魔め! 私のヴィエルジェ・ブルーが……!」

「! あ……っ」


 盤上の対局から聞こえた激昂の叫びに、ジョゼはびくりと肩を震わせた。思わず後退ろうとして、ここから落ちれば奈落の底なのだと身を固くする。そう、こんな意味不明の空間が「現実」であるはずがない。トマが言うとおり、これは悪魔の戯れだ。一つだけ「ただの遊戯」と違うことと言えば、おそらく悪魔の用意したゲームに敗北した側は、ただでは済まされないだろうということ。――命懸けのゲームであるということである。


 微かに声を発したジョゼに気づき、トマが血走った目を向ける。目の前から「至高の絵具」を奪われたトマの怒りは相当なもので、血色の悪い顔はいっそどす黒く見えるほど真っ赤に色を変え、苛立ちで振り下ろされた足が盤の脆い表面を踏み砕いた。

 それにまた肩を跳ねさせたジョゼを見て、トマは笑う。怒りに狂ったまま、もはや何も失うものはないのだと、高く声を上げて哄笑する。ひぃひぃ、ひゅうひゅうと、漏れる吐息が苦しそうなほどの声で嗤い続ける。


「ああ、おかしい、おかしいなあ! 我々に似合いの末路ではありませんか。どちらが敗北しようとも、どちらもに後ろめたいことはあるのだから」

「あ、あたしは……あたしは、違うわ! 人を殺したりなんかしない!」

「それが何だと言うんです。私だって、人を殺したくてこうしたわけじゃない。ただ、絵が描きたかった。それだけです。そう言ったじゃありませんか」

「だけど、それは……!」

「同じですよ、ジョゼさん。ただ手段が異なるだけで。あなたが作りたいと思った香りに、もしもヒトの一部が必要不可欠なのだとしたら? きっとあなただって、私と同じことをしたはずだ。それが芸術家というものです」


 ジョゼは声もなく首を振る。そんな恐ろしいこと、ジョゼにできるはずがない。だってジョゼは、おばあちゃんの遺した「ルール・ブルー」は、少女たちの笑顔のために香りを生み出しているのだ。己の欲望のため、幸福になるべき少女たちの命を奪うなど、あっていいはずがない。


 一歩、トマが「駒を進める」。逃れるよう、ジョゼは一歩遠ざかる。けれども少女の小さな一歩と、大柄な男の一歩では、まるで歩幅が違った。その気になれば、きっとすぐにでも追い付かれてしまうのだろう。捕まれば一巻の終わりだ。ちっぽけなジョゼなど、簡単に盤の外へと放り出されてしまうに違いない。

 逆転の道は一つもないのだろうか。恐怖と混乱で酸欠になりつつある頭を働かせ、必死に考えた。「詰み」かと思えた状況から、悪魔の気まぐれで手に入れた最後のチャンス。負けてはならない。ジョゼが負けては、アンナを、あの愛すべき姫君の幸福な結婚を「なかったこと」にされてしまう。


 負けてはならないと、必死に自分に言い聞かせるジョゼを嘲笑い、トマは悠々と歩み寄りながら言う。両手を広げ、まるで演説でもするかのように。


「ジョゼさん、誤解しないでいただきたいのです。私はあなたが憎いわけではありません。さっきも言ったとおり、あなたという『天才』を、私は尊敬している。だからこそ、あなたにも私の才能を認めてほしいんですよ」

「……こうなる前のトマさんの絵は、好きだったわよ。人殺しの描いた新しい絵のことなんか見てもないから知らないし、あたしには、そりゃ絵の良し悪しなんて分からないけど。でも、昔の絵は知ってる。優しくて、穏やかな風景ばかりだったわ」

「あんなものはどれもこれも駄作です。私の目に映る世界は、あんなものではない。眩い光に照らされたヴィエルジェの水面、空の青と対極を成す海の深い青……伯爵令嬢のヴィエルジェ・ブルーを見て、目が覚める思いでした。この美しい景色を紛い物の青で表現しようなど、愛しのヴィエルジェ島への冒涜なのだと」

「足りないものを補うことの、何がいけないの? 何もかもそっくりそのままに作ったって、面白くも何ともないわ。工夫だって才能よ。考えることから逃げて、練習することから逃げて、そんなの『天才』のやることじゃない」


 ジョゼは、確かに人並外れて鼻がいい。だけれども、ただそれだけの少女である。厳しくも優しかった先代の教えを必死に吸収し、何度も反復し、不可能なことがあれば指南を乞うた。けれど、「おばあちゃん」はもういない。師を失ってからだって、分からないことは当然のように生まれてくる。誰も彼もがジョゼを「マダム・ルブラン」と呼び、新進気鋭の天才調香師として扱うようになっても、ジョゼはいつだって不安だった。悩みながら、戸惑いながら、這いずるようにして進んで来たのだ。

 そんなジョゼを天才と呼ぶのならば、トマの言う「天才」は間違っている。絵画と香水が同じものだとは思わないけれど、少女たちの瞳で描かれた血濡れの絵画を知るわけではないけれど、それでも。ジョゼが素晴らしいと思ったのは、以前のトマの絵だったのだ。少ない絵具で何だって描き出す、魔術師のような画家のトマだったのだ。


 まだ大人にすらならないジョゼに、分かることなど多くはない。けれど、若いから、青いからこそ悩むことも、そして迷わずにいられることもあった。悩み疲れた大人にとって残酷なくらいに、ジョゼは幼く、真っ直ぐ過ぎた。

 真っ向から否定されるとは思っていなかったのだろう。にたついていたトマの顔から、ストンと表情が抜け落ちた。そうして、奇妙に静かな顔をしたまま、一歩大きく踏み出して言う。


「きれいごとだ。そんなものは。お前は、お前は何も分かってない……」

「そうよ、分からないわ。だけどあなたは歪んでる」

「分かってない、ああ、私だけが悪だとでも、お前――お前だって同じだろう、インチキ調香師のジョゼ・ルブランッ!!」


 ガンッ! と大きな音がして、トマの足が再び盤を踏み砕いた。飛び散った破片が継ぎ接ぎだらけのズボンに突き刺さろうと、気にも留めずにずんずんと歩いてくる。ジョゼは息を詰め、けれど、今の問答の間に辿り着いた「答え」を見据えて駆け出した。


「ええ、ええ! そうよ、あたしは狡いわよ!」


 弾む息の合間、叫ぶようにそう言った。

 インチキ調香師。ああ、確かにそうなのかもしれない。

 その言葉に傷つかなかったかといえば否であり、傷つくということはつまり、少なからず自分でもそう思っているということだ。マダム・ルブランの生み出す「ルール・ブルーの香水」は特別製。ただ純粋に香料だけを掛け合わせて作るものとは違い、依頼人の願いの雫を一滴忍ばせたそれは、「似合う」ことが確約された香りだ。この世のものならざる悪魔の力を借り、他にない魔法の香水を生み出すということは、きっと世の調香師に顰蹙を買う行いなのだろう。


 けれど、それでも構わないのだ。

 ジョゼは芸術家でもなければ、「天才」になりたいわけでもない。ただのちっぽけな少女で、チェスで言うならきっと、最弱の【ポーン】に過ぎないのだから。


 こんな物事を語るのに、客観に正解も不正解も存在しない。悪魔も言っていたではないか。「当人が何を得たいと望むのか。肝心なのはそれだけだ」と。

 ジョゼが望むのは、依頼人の幸福と笑顔だけ。

 狡くたって、その「望み」は立派なことだと。胸を張っていてもいいと言ってくれた人がいる。ジョゼを守ると、頼っても良いのだとも。先代のマダムへの義理が理由であろうとも、そう言ってくれた心優しい「協力者」が。ならば、ジョゼが従うべきは、悪意にそそのかされて芽生えた罪悪感なんかじゃない。


 弱くて、狡くて、意地っ張りの面食いで。しっかりしているかと思いきや、自分のこととなるとものぐさでだらしないところがあり。可愛げなんて生まれてこの方あったことすらないし、顔かたちだって人並みでしかない。けれども、そんなジョゼを、「彼」が強いと言ったのなら、信じて先へ進むだけだ。

 だって「彼」は、ジョゼを裏切ったりなんかしない。


「……っは、……こんな、ところで、へこたれてる場合じゃないの……!」


 だん、と強く足を踏み鳴らし、ジョゼは肩で息をしながら振り向いた。走って走って逃げ回り、辿り着いたのは盤の端。出発したのがジョゼの陣地だとするならば、トマの陣地の最奥だ。

 勝利を確信したようにゆっくりと歩み寄るトマを鼻で笑って、ジョゼは言った。


「ねえ、トマさん。これってチェスなのよ」

「それが何だと? ゲームが何であれ、ここから落ちればあなたは終わり、私の勝ちだろう」

「もちろんそうよ。だけどね、初めに悪魔が言ったじゃない。『ルールは知ってるか?』って」


 ああ、あの奇妙な茶会で経験した、負けとおしの盤上遊戯が役に立つ日が来るとは。人生分からないものだ。

 前に進むことしかできない最弱の駒は、何にだってなれる可能性を秘めている。そして、今のジョゼが「成る」べきは、クイーンではなく。


 ジョゼはトマを睨み据え、力の限り吼えた。


「――助けて、私の【ナイト】!」

「なに……ッ!?」


 ジョゼの身体を光の柱が覆う。轟々と音を立てて燃え盛るようなそれから、低く柔らかな男の声が、静かに、静かにこう言った。


「チェックメイトだ、殺人者」

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