第4話 ヴィエルジェ・ブルー

 迎えたその日は、雲一つない晴天だった。

 抜けるような青空に輝く太陽は、初夏の爽やかな日差しでヴィエルジェの白壁を照らし、島中のあちこちには花束が飾られている。サン・ローラン街は焼き立ての蜂蜜パンの香りに満ちていて、その香ばしく甘い匂いに腹の虫が鳴いたのはジョゼだけではなかった。


「……嫌だわ、ごめんなさい。あんまり美味しそうだったから……」

「いいえ、分かりますよ。そこらじゅうパンの匂いですもの。アンナ様は今朝は?」

「ええ、まだ。……朝は少し、食欲がなくて」


 ジョゼの顔を見たら、ホッとしてお腹がすきました。なんて、ちょっと気恥ずかしそうに言うアンナに片眉を上げ、ジョゼは笑う。


「緊張されてたんですね。……そうだ。後で蜂蜜パン買って来ちゃいましょう、あたしもあのパン大好きなんですよ」

「まあ、素敵。でも……」

「ルネのことならきっと大丈夫ですよ。クロードさんもついて行ってくれるってことでしたし、兵士さんもちゃんと守っていてくれているんでしょう?」

「はい……、そうですね。歯痒いですが、わたくしにできることがあるわけでもないですし……皆さんを信じますわ」


 眉を垂れたアンナは、そう言って小さく頷いた。ジョゼと揃いの簡素な頭巾から零れる金髪が、ふっくらと丸い頬の上で跳ねる。ルネお気に入りの薔薇刺繍の襟は、小柄なアンナが付けると大きすぎるような気がしたが、背後から見た華奢なシルエットはしっかり「ルネ」だ。違うものと言えば、顔立ちと瞳の色くらい。私服の護衛と共に応接間にいる姿が遠目に見えたとしても、彼女が「アンナ姫」だと気づくものはそう多くないだろう。


「ねーぇ、準備できたよ。見て見て、完璧じゃない?」


 そうしているうち奥の部屋からひょっこりと顔を出したルネに、ジョゼは振り向いて苦笑した。


「あんたってば本当どこからその自信湧いてくるのよ」

「だってぼく可愛いでしょ?」

「それは認めるけど」


 答えれば、にんまりと笑って「まあね!」などと言う。これからそこそこ危険で重要な任務を任されているとは思えない能天気さには呆れるが、罪悪感と気苦労で薄ら目に隈を作っているアンナの前ではむしろ、幼馴染のそんな底抜けの明るさがありがたかった。

 今日も部屋の隅の壁際で、じっと息を殺すように佇んでいる仏頂面へ視線を投げれば、クロードが僅かに眉を上げて答えてくれる。冷たいばかりの灰色に、僅かに楽しそうな色が浮かんでいることに気づき、ジョゼは苦笑した。四人で共に過ごした時間自体はそう長くはないけれど、短いながらも強烈な出来事を次々と経験してきたせいか、もうすっかり「四人」でいることが当たり前のようになってきている。それが何だかくすぐったくも楽しいと感じてしまうのは、さすがに不謹慎かもしれないけれど。


 ジョゼのそんな思いはさておき、時は無慈悲に進んでいく。窓の外、ぽかぽかと温かな日差しを眩しそうに見たルネが、「さて」と姿勢を正した。


「ジョゼ、『ルネ』。それじゃ、行ってきます」

「はい、『アンナ様』。行ってらっしゃいませ。……ちゃんと気を付けるのよ、油断しないで」

「分かってるよ。危ない目に遭いそうだったら助けてって大声上げてやるから平気。それにまあ、ぼくだって一応男の子なわけだしさ」

「あのね、前も言ったけど。マリーたちだけじゃなくてトマさんも死んでるのよ? あんたみたいなひょろひょろのチビ、ちょっと気を抜いたら片手で首捻られて死んじゃうわよ」

「でも、トマさん殺した犯人はこの間捕まって自殺したんでしょ? あんなのが何人もいると思う?」

「でも、分からないじゃないの」

「まあそれはね。だけど平気だよ、ぼくとクロードさんと兵士さんたちに任せといてって」


 今日もまたキラキラと星でも飛びそうなウィンクを投げ、藤色の目をした「アンナ姫」が肩を竦める。金の巻き毛の上から艶やかな黒髪を被り、更にもう一つ豪華な花冠を被ったルネは、薄い絹を何重にも重ねた白いドレスを翻し、くるりと回ってみせた。ストンとしていて一見シンプルな衣装だが、至る所に真珠や可憐な生花が縫い付けられたそれは、ジョゼやルネには想像もつかないような値段の代物なのだろう。裾から覗くのは、深く鮮やかなブルーのフリル。本物のヴィエルジェ・ブルーには遠く及ばないけれど、白いドレスと青を纏ったルネの姿は、まるでこのヴィエルジェ島そのもののようだった。

 ほうっと溜息を吐いたアンナが、滑らかな頬を僅かに紅潮させて、オーガンジーの手袋に包まれたルネの両手を取る。


「ルネ、……あの、わたくし、こんな時に、しかもあなたに代役をさせた身でこんなことを言うのは不謹慎かもしれませんが……とっても素敵よ。花嫁さんみたい」

「お? さっすがアンナ様、見る目あるぅ! いやーぼくって可愛いものなら何でも似合っちゃいますからね! ……でも本物の花嫁には敵わないと思いますよ。ね、未来の花嫁さん?」

「……ふふ。励ますのがお上手ね。ありがとう」


 困り顔によく似た笑みを浮かべ、アンナは小首を傾げた。一方ルネは満面の笑みで、繋いだ両手を一度だけぎゅっと握りなおすと、そのままジョゼの方へと向き直る。


「ねえジョゼ、ところで本当にここにアンナ様を匿うの?」

「それはあたしも心配なのよ。あんたと入れ替わった後にでも、お城に戻った方が安全なんじゃないかって言ったんだけど」

「……城までの道が混んでいるでしょう? 人混みではぐれてしまったら万が一ということもあるから、いっそこちらでじっとしていた方がいいでしょうって」

「そういう話になったみたい。だからお店も一応閉めちゃうことにしたわ」


 ごめんなさい、と肩を落とすアンナに、ジョゼは首を振った。元々、花冠の乙女が先導する花祭りのパレードが中止になった時点で、今日は長く開けておくつもりはなかったのだ。そもそも、客入りの数などどうだっていい。香水店「ルール・ブルー」は、身に余る金儲けのために開かれる店ではなく、内気な少女や迷いを抱えた大人たちを勇気づける、そんな香りを売る店なのだから。


 ルネ扮する「アンナ」を戸口まで送るのはジョゼ一人。花の女王の従者然と立つ鉄面皮に、ジョゼは目配せして言った。


「クロードさん、よろしくお願いします」

「うん。まあ、ルネ君の言うとおり、実行犯が捕まってるならそう心配はないと思うけど……」

「……そう、ね。それは分かってるのよ。分かってるんだけど……」

「心配事がある?」


 無表情のまま、こてんと首を傾げたクロードを見て、ジョゼは小さく唸り声をあげる。それからルネとクロードの顔を交互に見つめると、潜めた声で呟いた。


「昨日、ルネも油断できないって言ってたけど。あたしもね、何かずっと引っかかってるの。何がって聞かれたら、あたしにも分からないんだけど」

「……分からないでもないな。あっさりし過ぎているから、どうにもね」

「ええ。だからくれぐれも気を付けて」

「分かった。君も無茶はしないで」

「あたしの方は平気よ。今日はもう、調香してるだけだもの。ちょっとだけ準備は要るしお昼ご飯の調達もしに行くけど、それだけよ」


 もし何か思い出せたら、帰って来た時にでも相談するわ。

 そう言えば、クロードとルネは各々頷いて、迎えの馬車に乗り込んだ。

 石畳の上で蹄と車輪を鳴らし、ゆっくり遠ざかる馬車を見送ってから、ジョゼは奥の部屋へと舞い戻る。アンナとその護衛を確認してから、ジョゼはぺこりと頭を下げた。


「アンナ様。今日お渡しする『ルール・ブルーの香水』なんですけど、このところ慌ただしかったから、最後の仕上げがまだなんです。後で少しだけ外出しますけど、皆さんくつろいでいてくださいね」

「あら、どちらへ?」

「……大事な香料が少し足りなくて。取りに行かなきゃいけないんです」


 まさか「悪魔に会いに鏡の中へ行きます」とも言えまい。ジョゼは行先を濁してそう答えると、焼き立て蜂蜜パンも人数分買って帰りますね、と笑う。


 腹の虫の暴挙を思い出したアンナは、ちょっとだけ恥ずかしそうに頬を赤らめ、楽しみにしていますねと呟いた。

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