チェスの作法 終

 断末魔の悲鳴など、男も女もそう変わらない。そんなこと一生知らずにいたかった。

 そんなことを思いながら、クロードの手を引いて先を急ぐ。確かに、言葉での意思疎通が可能な「犬」がいると思えば、自警団の連れている犬よりジョゼは優秀なのかもしれなかった。徐々に濃くなっていく死の臭いに顔を顰め、息を吐く。こんな臭いだって、本当は知らずに生きていきたかった。けれど、過ぎたことにくよくよするのは柄じゃない。そう告げれば、クロードは感心したようにぽそりと呟いた。


「強いね」

「諦めが、早い、だけよっ」

「そうかな? それなら、賢いねと言うべきか」


 さっきの全力疾走ほどではないにしろ、走り続けて息が弾んで来たジョゼと、絶対零度の鉄面皮でのほほんと返すクロード。職業軍人であると言われれば納得の基礎体力の違いに、ジョゼは何となく負けず嫌いを刺激され、速度を上げた。

 暗く細い路地を右へ左へ、それからまた右へ。月のない夜を蛇行していく二人の足元に、いつからか、ずるずると引きずるような「何か」の血の跡が。初めは点々と雫を落とすのみで、ほとんど掠れていたそれは、徐々に水気と臭気を増していく。


「……」

「ジョゼ」

「……平気よ」

「うん」


 交わす言葉は短く少ない。けれど、冷たく震え始めたジョゼの手を握り返す長い指は温かかった。しっかりとしたその感触に励まされ、止まりそうになる足を先へと進める。


 もう少し、あと少し。

 路地裏からの出口が見えてきた。

 けれど、そこでジョゼの足はぴたりと止まってしまった。


「……ここ、君の……」


 呆然と呟くクロードに、ジョゼは頷く。

 途中から、薄々気づいてはいた。来た道を戻っているだけなのだと。同じ道を通った先にあるのは、追いかけっこの始まった場所だ。


 夏も間近の春の夜、こんなに走ってきたばかりなのに、寒くて震えが止まらなかった。何か言いたくとも、歯の根が合わない。脳裏に浮かぶのは、ヴィエルジェで最も美しいとまで噂される自慢の親友の笑顔と、昨夜無残な姿で横たわっていたマリーの姿。

 一階のトマの部屋の窓が誰に壊されたのか、確認してこなかった迂闊さを呪った。だってクロードが言っていたではないか。「男を追って、あの場に辿り着いた」と。


「……ルネ……うそ、そんな……!」

「ジョゼ!」

「ルネ! 女将さん! 開けて、あたしよ! お願い……ねえ!」


 クロードの制止を振り切って、ジョゼは駆け出した。べったりと血糊がついたトマの部屋の窓枠は一階とはいえ少し高い位置にある。ジョゼの体格でよじ登るには高すぎた。祈るような気持ちで玄関の戸を叩き、女将を呼んだ。ルネを呼んだ。中からは何の返事もない。三人で囲んだ夕飯の匂いが、未だ微かに漂うことが、何故だか不安で仕方がなかった。

 戸を叩き続ける手が腫れそうになったところで、とうとうクロードに止められた。振り払おうとすれば逆に手首を強く引かれ、相変わらず温度のない顔をした彼は言う。


「落ち着いて。君の友人が家の中にいたなら、少なくともあの血の跡は別人のものだよ。だけど、中の様子は心配だ。……気は引けるが、窓から入ろう」


 そう言って、ジョゼが開け放してきた時のままになっていた窓を示すと、クロードはひょいと窓枠に飛び乗った。そこからジョゼに手を伸ばし、片手で抱き寄せるようにして引き上げる。


「……もし強盗に押し入られた時、この家で一番安心して隠れられる場所は?」

「ルネのママの部屋よ。キッチンよりも奥あって、鍵が掛けられるから」

「分かった。じゃあ、まずはそっちだ」

「でも、トマさんの部屋……血の跡の方は」

「……生きている可能性が高い人を保護する方が先だよ。二人が無事だったら、ひとまず君が傍に居てやってくれ」

「あなたは?」

「部屋を見に行かなきゃ。それに、僕がいると怖がらせるだろう」


 そう言ったクロードは、僅かに眉を寄せて廊下の先を見た。冷たい怒りのような表情が何を意味しているかは分からないが、「怒っている」わけでないことくらいはもうジョゼにも判断できた。初めて会話してから数時間も経っていないが、表情筋が死滅したかのようなこの男は、顔の割にはずいぶん気が優しく人が好い。


「あなたなんか怖くないわよ、別に」


 素直にそう呟けば、見た目だけは冷徹そうな灰色の目を少しだけ見開いて、彼は「そうか」と呟いた。


 忍び足で進む必要があるかどうかも分からない。けれど、床の軋む音が響くと、ジョゼの心臓も大きく跳ねる。びくりと肩が震えるたび、クロードが手を握りなおしてくれることがありがたかった。この控えめな主張のおかげで、少なくとも一人ではないのだと思い出せるから。

 汚れた食器が纏めて水桶に浸けられたままのキッチンを通り、奥の扉を開ける。広くはないが居心地よく整えられたダイニングを更に突っ切って、短い廊下の先に女将の私室はあった。シンと静かな廊下には、幸いなことに「いやなにおい」は無いようだ。最悪は免れたようだとホッと胸をなでおろしたジョゼは、クロードと顔を見合わせ、頷き合う。

 そうっと小さな声で、二人を呼んだ。


「女将さん、ルネ。私よ、ジョゼよ。無事だったら返事をして、お願い」

「……ジョゼ? ……ジョゼ、ああ良かった!」


 きぃ、とささやかな音を立てて、扉が開く。隙間から覗いた金の巻き毛に、ジョゼは安堵の息を漏らした。身体中から空気が抜けてしまうのではないかというほど深い溜息と共に、ずっと強張っていた肩の力が抜けていく。

 そんなジョゼに飛びつくように抱き着いたルネは、わっと泣き出した。


「よ、良かったあぁ……っひぐ、ぅ、君ってばトマさんの部屋見に行くって言ったきり戻らないし、トマさんの部屋から変な物音してくるし、なんか、誰かいる気配はあるんだけど、君じゃなさそうだし、窓は開いてるし、どうしようって……」

「うん、うん、ごめんね……けど、二人とも無事でよかった……」


 とんとんとルネの背を叩いてあやしながら、ジョゼは言う。女将に視線をやれば、こちらも幾らかホッとしたような顔で頷いた。


「ジョゼ、一人で外に出たのかい? 見に行ったとき、トマさんの部屋で何かあったんだね?」

「ええ、そうなんですけど、あたし色々勘違いして飛び出しちゃって……ここまで一緒に来てくれた人がいるんですけど」


 そう言って振り向くも、クロードの姿はいつの間にやら消えていた。ジョゼにも家主の女将にも何も言わず、勝手に家の中をうろつくのは決して良いことだとは言えないだろう。けれど、ジョゼには不思議と、彼が何かしらの嘘を吐くような人間だとは思えなかった。あの人は大丈夫だ。きっと

 ルネが落ち着くのを待ってから、二人の顔を順に見て、すぅと息を吸う。


「あのね、話があるの。その前に、自警団の人を呼んできてもらえる?」


 点々と続いていた、いつの間にやら点は掠れた線へ、掠れた線は濃いラインへと変貌していた、あの赤黒い道しるべ。おそらくは生きていないだろう。鼻につく鉄錆の臭いを思い出す。混ざり合うのはヒトの体液と、焦げたような皮膚の臭いだった。少女らしい何かしらの香りどころか、それ以外の何も混ざってはいない。


 ルネと女将は無事だった。

 けれど、この家にはもう一人の「同居人」がいる。

 これまで狙われたのは少女ばかりで、だからこそ考えもしなかった。

 けれども、ルネの命が目的で押し入ったのでないならば、トマの部屋になど「何」を置いて行くと言うのか。


 ジョゼは小さく息を吐いて、唇をかみしめた。

 大作を描いているのだと、今朝話してくれたばかりの知人の顔を思い浮かべる。


「……トマさん」


 喉の奥が、ぎりりと鳴った。

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