花嫁の島 5

 こっそりと来店したアンナが、来た時よりも晴れやかな顔で城へ帰ってから一週間と少し。今日も町は大賑わいで、マダム・ルブランの香水店からようやく客が捌けたのも、午後三時を回った頃だった。


「お疲れ。やっと休憩できそうだね。お茶でも淹れる?」

「うん、そうしましょ……ああ、ほんと疲れたわ今日……」

「それ毎日言ってるじゃないか。不摂生で体力なくなってる証拠だよ?」


 ぐったりと椅子にもたれるジョゼに、ふらりと現れ接客を手伝ってくれていたルネが声を掛ける。「だらしないなぁ」なんて笑ってはいるが、連日の嵐のような忙しさにはさすがの彼も疲労困憊のようで、朝はきちんとセットされていた髪も今は少しだけヨレていた。


「店員でもないのに手伝わせてごめんね。落ち着いたらお礼するわ」

「楽しくてやってるから気にしないで。皆ぼくのこと可愛いって褒めてくれるしね。それはそれとして、お礼はお向かいのパティスリーの新作でいいよ」

「生クリームたっぷりメロンのタルトだったっけ? 分かったわ」

「あら、それってこちらのタルトですか?」


 おっとりとした柔い声音の方へと顔を向ければ、「ちょうど買ってきてしまいましたわ」と困ったように眉を垂れるアンナの姿があった。相変わらず大きな帽子を深めに被っているけれど、初来店の日の無謀を伯爵に叱られたのか、近頃は女性の付き人を連れている。

 アンナの背後に立ちピンと伸びた背筋はそのまま、器用に腰を折って頭を下げた侍女が持っているのは、確かに向かいの菓子屋の新作タルトに違いない。バスケットから漂う甘く瑞々しいメロンの香りに、ジョゼは頬を緩ませた。


「アンナ様、いらっしゃいませ。すぐにお茶の用意をしますね」

「ありがとう。……あの、お仕事のお邪魔ではありませんでした?」

「大丈夫ですよぉ、今ちょうど波が去ったところでしたから。ね、ジョゼ」

「ええ。お昼もこれからなんです」


 表にクローズの看板を出し、応接間への扉を指し示してみせれば、アンナは気遣わしげに眉を顰め、お疲れ様ですと頷いたのだった。



◆◇◆



「それでジョゼったらね、また店の二階で寝泊まりしてるんですよ。たまに帰ったかと思ったら鍵もかけないで出かけちゃうし。母さんが気づいて慌てて中確認したらしいんですけど、散らかり過ぎてて荒らされたのかどうかも分かんなくて」

「し、仕方ないじゃない! だって急いでたし、忙しくて片付ける暇ないのよ……それに、あたしこれでも今まで、鍵を忘れて出たことなんかないんだから。あたしだって何でそんなことになったんだか分からないわ」

「だから疲れてるんだって。絶対そうだよ。鍵の掛け忘れは……真偽は置いといて、百歩譲って仕方ないとしてもね。最近きちんと横になって寝てる? 手伝いに来るたびカウンターで寝落ちてる気がするんだけど、きみ」

「それはその、仮眠取るだけのつもりで眠り込んじゃうから……」

「ほら見なさい、それが無理してるって証拠よ。が店番しとくから寝ちゃえばっていつも言ってるじゃない。アンナ様からも、そうしろって言ってやってくださいよ」


 ぷ、と口を尖らせてそう言うと、ルネはさくりとタルトにフォークを刺した。そのまま、つやつやと輝くメロン一切れと甘い生クリームを一掬い、生地と共に口へ放り込む。もぐもぐと咀嚼するルネとジョゼを交互に見て「そうですよ」と笑い返すアンナは、ルネが見た目通りの美少女ではなく少年であると知っていたけれど、今は敢えて口を閉ざしてくれている。嫁入り前のアンナにとって「近頃城下町でできた友人」の内一人が異性であるという事実は、悪意ある噂話の種となりかねないと三人で話し合ったからだ。

 ルネのことも、たびたび店に訪れる帽子の少女がアンナ姫であることも、偶然最初に居合わせたトマを除けば誰も知らない、三人の秘密。秘密の共有は人を親しくさせる。ましてや年齢も近く、興味のある物事も似通った少年少女である。ジョゼとルネが幼い頃の話、アンナの知る貴族の生活、サン・ローラン街で近頃流行りのフルーツ飴の話と、今度の花祭りでルネと同じく「乙女」に選ばれたマリーという友人が、その飴屋をいたく気に入って通い詰め、ちょっぴりふくよかになったと嘆いている、等々――盛り上がる話題は尽きず、三人がうんと仲良くなるのに時間はかからなかった。二日と置かずに茶菓子を持って訪れては、おしゃべりを楽しんで帰っていくアンナとその侍女のために、ジョゼはちょっぴり洒落たカップを買い足したほどだ。


 さて、それはさておき思わぬところで目当ての新作タルトを手に入れたルネは、実にご機嫌である。機嫌の良いルネはいつにもまして押しが強く、アンナという味方を得たことで更に強気に出はじめた。長椅子の端へじりじりと後退るジョゼを追い詰め、つん、と鼻先を指で弾くと、にたぁ……と悪人のような顔で笑ってみせる。


「ねーぇ、ジョゼ?」

「……何よ、悪い顔しちゃって」

「んふ。わたしねえ、怖ーい話聞いたのよぉ……。近頃、夜中まで灯りを付けて仕事してるとね、外から足音と男の荒い息の音がするんですって……ズルッ、ズルッ、って何か引きずるような音も、足音と一緒に――」

「わーっ!? や、やだやだ、やめて! そういうのは無理! 寝る! 寝るわよ! 今すぐ!」

「はいはーい、そうしてくださーい。暗くならないうちに起こすから、今日はみんな一緒に帰りましょ? 怖い話は置いておくにしても、暴れる酔っ払いなんかも多いって聞くから、女の子一人の夜歩きは危ないわ」


「……確かに、女性ばかりの夜道は心もとないですね。夕方を過ぎることもありますし、次回からは護衛の者を連れて参りましょうか」


 姫様のご友人が危険な目に遭っては大変ですから、と、おずおずと片手を上げて申し出た生真面目な侍女の言葉に、「男手なら一応ここに一人いるのだ」とも言えず、三人は目を見合わせて苦笑した。

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