第8話

「じゃ、お疲れさまでした」

 いつものように缶のミルクティーを奢ってくれたのでありがたく受け取り、別れようとすると、何故か南雲部長は憮然とした顔をした。

「どうしたんです?」

「乗ってかないのか?」

 不思議そうに聞き返されて、へ? と声を上げた。

 だってさっき、雨が止んでいたのは確認したし、今だって空を見上げても雨粒一つ降ってはこない。終電に間に合わないなんてことはないし、南雲部長がわたしを車に乗せる理由など、ないはずだ。

 もしかして、今日はそれでもわたしを送ってくれると……もう少し一緒にいてもいいと、言ってくれるのだろうか。そんなの、ほんの気まぐれだとしても嬉しいに決まってる。でも。

 浮つきそうになる気持ちを、慌てて堪えた。

「……いえ、そこまでお手を煩わせるわけには」

 南雲部長への気持ちは、きっぱりと捨てるのだ。

 これ以上優しい彼と一緒にいては、わたしが駄目になってしまうから。迷惑だって分かってても、諦められなくなってしまうから。

 だからもう、甘えないと決めた。

「今日は、電車で帰ります。だから……」

「駄目」

 それなのに。

 せっかくのわたしの決意を、南雲部長は無情な一言で一蹴した。

「いいから。乗りなさい」

 いつもより低いトーンで、有無を言わさないような物言いを放つ。そのまま問答無用で、駐車場へ連れていかれて。

 何とも言えない雰囲気に気圧され、わたしはただされるがままに南雲部長の車へ赴き、すっかり座り慣れてしまった助手席へ乗せられた。


「えぇと、あの……南雲部長?」

 そのまま車はすぐに動くかと思いきや、シートベルトを掛ける前に、南雲部長に腕を取られた。そのまま囲い込むように覆い被さられ、動けないまま唖然とする。

 間近でじっと見つめられて、縫い付けられたように固まってしまった。

 南雲部長に表情はなく、感情が全く読み取れない。彼がポーカーフェイスなのはいつものことなのに、なんだかすごく怖かった。

「南雲部長……あの。わたし、今日は電車で帰りますよ? お気遣いはありがたいですけど、雨降ってないし……だから、」

 離して、と言い切る前に、南雲部長が口を開いた。

「雨が降ってないから、何?」

「何って」

 雨が降っていなければ、南雲部長がわたしを車で送っていく理由なんてない。それだけのことだ。

 それだけの、ことなのに。

「雨が降ってるからって……雨の夜は、俺があの日を思い出して辛くなるからって。それだけの理由で、俺がお前を傍に置いてたとでも?」

「だって……」

 そうだったじゃないか、最初から。

「南雲部長にとって、わたしが必要なのは、雨の日だけだったじゃないですか」

 いつだって、むしろ最初っから、そうだったじゃないですか。

「あほ」

 頬を大きな手で包まれる。

 びくり、と肩を揺らすと、無表情だったはずの顔つきが少し変わって。彼の眉が、悲しげに下がった。

「……俺のこと、怖い?」

 最近も避けてたもんな、と指摘され、どきりとする。

 普段から周りをよく見ているのは知ってたけど、そもそもさほどあまり他人に興味を示さない人だ。てっきり気にも留めていないと思ってたのに。

「怖くない……です、よ?」

 本当は、少し怖かったけど。

 だけど、たとえこれから何をされても、南雲部長が相手なら平気だって、絶対に言いきれる自信がある。

「だって、南雲部長だもん」

 それだけは、自信を持って言える。

「じゃあ、何で俺のこと避けるの?」

「それは……」

 淡々と問われ、言い淀む。

 動揺を悟られぬようにそっと唇を噛み、うつむいた。

「……言えません」

 わたしの個人的な感情に南雲部長を巻き込んで、迷惑をかけることだけは絶対にしちゃいけない。

「どうして」

「どうしても」

「……」

 この想いは、どうせ捨てるものだ。

 それでも、知られてはいけない。誰も――南雲部長さえも、最後まで知らないままで。わたしの中でだけで、終わらせなきゃいけないんだ。


 わたしが絶対に口を開く気がないと悟ったらしい南雲部長は、小さく溜息を吐いた。

「……なぁ、間宮」

「はい」

「俺がこの間、お前に何て言ったか。覚えてないわけじゃないだろう」

 言われなくとも、すぐに分かった。南雲部長が出張で、わたしが雨の中をずぶ濡れで歩いていた時のことだ。

 忘れる、訳がない。

 あの日わたしを抱きしめた体温も、あいしてる、の言葉も。

 それが、わたしに言われたものじゃなくても……それでも。ぜんぶ、ぜんぶ、わたしの宝物として心に仕舞い込んでいるのだから。

「……しあわせ、でした」

 それが、さらさんに向けられた言葉だとしても。

 単なる南雲部長の気まぐれで、わたしにとっては一時の夢でしかなかったとしても。

「ありがとう、ございました」

「……間宮」

 あぁ、泣きそう。

 だけど、駄目だ。泣いてしまったらまた、南雲部長に迷惑をかけてしまう。しっかり堪えて、すぐに車から降りなくちゃ。

 さぁ、もう。

 南雲部長がわたしを付き合わせる理由なんて、ないんだから。

 そのあたたかい瞳が、やさしい声が、やわらかな体温が。わたしのためだなんて、失礼な勘違いを起こしてしまう前に、早く――……。

「間宮!」

 助手席のドアに手を掛けようとしたところで、長い腕が伸びてきて、そうはさせないとばかりに抱きしめられる。ぎゅうっと力を込められて、少し苦しいくらいだった。

 突然のことに目を見開き固まっていると、頭上で震えた声が「あほか」と小さく悪態を吐く。

「俺は、ずっとお前に言ってたんだ。なのに」

 なのに何で、伝わってくれないの。

 懇願するように呟かれ、頭が混乱すると同時に。切なさと愛おしさで、胸が押しつぶされそうになった。

「さらの代わりになれ、なんて言わない」

 なれるとも、思ってない。

「それでも俺は、お前に傍にいてほしいんだよ……なぁ、間宮」

 あいしてる、と。

 もう一度、噛み締めるように告げられた、その響きで気づいてしまった。

 これまでにもずっと、何度も囁かれていたのは。

 他でもない、わたしに対する愛の言葉だったのだと。

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