第2話

 それ以来雨の日になると、わたしは南雲部長と一緒のタイミングで仕事を終え、彼の車でドライブするように――もとい、南雲部長に家まで車で送ってもらうようになった。

 定期代は一ヶ月分すでに払ってしまっているので、それを気にしてか南雲部長はお金を返してくれようとしたけど、そこまで気にしなくていいと告げればどこか申し訳なさそうに笑って『ありがとな』と言った。

 その代わりなのかは分からないが、一緒に帰る日は必ずと言っていいほど自販機で飲み物を奢ってくれる。南雲部長はブラックの缶珈琲で、わたしは甘いミルクティー。銘柄も互いに決まっていて、もはや雨の日は帰りに自販機に寄ることが二人のルーティーンになってすらいた。


「前から思ってたけど間宮って、南雲部長と付き合ってんの?」

 食堂でそんな的外れなことを――いやまぁ、連れ立って帰る様子を見ればそう思う人も稀にいるかもしれない――同僚に聞かれ、思わず目をぱちくりさせる。

「何で」

「だって、前から仲良さそうだったじゃん」

 特に最近は、帰り一緒にオフィス出ることも多いし、なんて言われて、じとりと生温い視線を受ける。普段から顔に出やすいわたしだけれど、ここで動揺してしまったら南雲部長に迷惑がかかるから、わたしは何事もないかのように

「んなわけないでしょ」

 偶然だよ偶然、と首を横に振った。

 罪悪感なんてなかった。だって別に、嘘を吐いているわけじゃない。

 ……胸を、痛めてなんかない。

「そもそも南雲部長とわたしなんて、釣り合わないでしょうが」

「確かに」

 あんたら恋人っていうよりは親子とか、ペットと飼い主とか、そういう感じだもんねぇ。

 忌憚のない答えに、腹も立たなかった。

「だよね」

 知ってた、と小さく溜息を吐く。

「それに、南雲部長は……」

「ごちそうさまでした」

 同僚の言葉を遮り、お盆を手に席を立つ。それ以上の言葉を、第三者から聞きたくはなかった。

「……まだ、忘れられないよねぇ」

 後ろでぼそりと告げられた、同僚の声は聞こえないふりをした。


 およそ一年前の、雨の夜。

 濡れたアスファルトでスリップした車がガードレールに衝突し、その勢いのまま海に落ちるという痛ましい事故が起きた。

 犠牲になったのは飯塚いいづかさらという女性で、そのお腹には新しい命が宿っていた。妊娠を報告するため、恋人の家へと向かう途中だったのだという。

 彼女の親や友人たちから当時の様子を聞いたらしい恋人――南雲部長は、浮かれすぎていたんだろう、と小さく笑った。全くしょうがないな、とでも言うように。愛おしそうに、けれどひどく切なそうに。

 ――抜けているところがあるんだ、そこがまた可愛い。

 普段自分のことをほとんど話さないはずの南雲部長が、珍しく恋人であるさらさんのことをそう評した時の、柔らかなひだまりのような笑顔を今でもよく覚えている。

 さらさんは時々会社にも顔を出していて、部署のみんなに差し入れをくれることがあった。南雲部長より年下の彼女は、まだ二十代後半くらいと年若かったので、部署内の若い女性社員とも仲が良かったみたいだ。

 おとなしくておしとやかで、癒し系の女性。そこにいるだけで、空気がオアシスのように澄み切って、穏やかな気持ちになる。

 だからこそ、彼女が亡くなった時は、部署内もまるでお通夜のように暗い雰囲気になってしまったものだ。

 当の南雲部長は、自分のせいで部署内が重苦しくなってしまうのを良しとしなかったのだろう。今思えば半ば無理矢理だった気もするが、彼にしては珍しく笑顔でいることが多かったし、冗談もよく口にした。

 そんな彼の気持ちを汲み取ったのか、さらさんの葬儀が終わって数日もすれば、部署内は徐々にいつも通りへと戻っていった。ただ、さらさんの話題が一切出なくなったことを除けば。


 南雲部長が雨の日にわたしを家まで送る、と申し出てきたのは、ちょうどさらさんの葬儀が終わったばかりの頃くらいだった。

 恋人を失った時のことを、否が応でも思い出すのだろう。

 あるいは、寂しいのかもしれない。

 南雲部長が仕事終わり、決まって雨の夜となればこうして、家まで送るという名目でわたしを傍に置きたがるのは。


    ◆◆◆


 ――あいしてる、と耳にした。

 また、と思いながら、わたしはゆっくりと閉じていた瞼を開く。

 目の前は相変わらず真っ暗で、濡れたアスファルトに街灯の光が乱反射していた。きらきら、ちらちらと光るのは綺麗なようだけど、じっと見ていると具合が悪くなりそうな色をしている。

 そういえば片頭痛を患う先輩が、頭が痛くなる前の前兆としてこんな感じのちらちらした光を見ることがあるらしい。閃輝暗点、といった名前だっただろうか。確かにこれは不愉快かもしれないな、とその先輩に同情した。

 いつもみたいな調子で南雲部長に話しかけようと、隣の運転席を見やれば、やっぱり言葉が出てこなくなる。

 雨の夜に運転する南雲部長は、いつもと別人のようで怖かった。

 前を向き直し、もう一度助手席にちゃんと座り直す。目を閉じると、すっかり慣れてしまった椅子の感触が、わたしの仕事で疲れた身体をふんわりと程よい優しさで包んでくれるのが分かった。

 わたしの家は、会社から車で二十分ほどかかる場所にある。

 そういえば南雲部長の家とは方角が微妙に違っているから、雨の日の南雲部長は必然的に遠回りをしていることになるんだな、と何だか申し訳ない気持ちになった。


 あいしてる、と最近聞こえる幻聴のようなもの。

 南雲部長の切なげな、弱々しい声で再生されるその言葉に、胸が締め付けられる。あれ以来部署内でも、わたしの前でさえ一度も見せることのなかった、彼の弱い部分が、その一言に集約されているようで。

 わたしに言われているわけじゃない。

 当然だ。だって、分かっている。

 あの言葉も、切なげな表情も、全てがさらさんに向けられているのだと。もう、届くことはないけれど。

 それなのに。

 送ってもらう回数が増えるたびに、雨の夜を重ねるたびに。

 ……いや、違う。

 もはやその姿を見るたびに、些細でも言葉を交わすたびに。彼が残したメモの字や去った後の残り香にすら、南雲部長の気配を感じる、そのたびに。

 そのことを悲しく、苦しく思ってしまうのは、どうしてなんだろう。

 いつからわたしの心は、南雲部長に囚われてしまっていたのだろう。


 運転席寄りに投げ出したままの状態になっていた右手に、何かが触れるのを感じた。南雲部長だろうか。

 ……あぁ、邪魔だったか。うとうとしながら、手を動かし引っ込めようとした、その時だった。

 くい、と確かな抵抗を感じて、思わずびくりと肩を震わせる。

 うっすら目を開くと、南雲部長の大きな手が、わたしの右手をすっぽりと包んでいた。少し冷たい体温が心地よくて、駄目だって分かっていても離してほしくなくなってしまう。

 信号待ちの時間だったのだろう、そうしていた時間はほんの僅かで、すぐにその手は離れていってしまったけれど。

 そのあと何食わぬ顔で「着いたぞ」とわたしを揺り起こした南雲部長の顔を、わたしはまともに見ることができなかった。

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