第三話 恐怖の劇場

 その部屋には、中央を取り囲む円状に観覧席が設えてあり、それらは階段状に層を成して多くの見物人を収容できるようになっていた。全体としては仄暗い空間であり、しかし全ての視線が注がれる中心部には、煌々と強い照明が当てられていて、そこに立つ人の毛穴まで見えるような心地がする。


 このような説明をされれば、殆どの人はそこが「劇場シアター」だと思うのではないか。その答えは非常に惜しい。半分正解、と言ってもいいかもしれない。けれども舞台上には、そのまま喪服に使えそうな黒いコートを纏う、厳しい面構えの群れは似つかわしくない。パニック寸前の、神経が焼ききれるような不安と戦いながら身体を横たえる人もいない。実のところ、私が今いる場所はストーンフォード大学医学部の手術室サージョン・シアターだった。


 薄闇を埋め尽くしている人影は、大半が医学生か、現職の医師と見えた。彼らにとって、公開手術は実技を見てテクニックを盗むまたとない機会に違いない。きっと、瞬きする瞬間すらも煩わしいほど。畢竟するに外科手術とは、苦痛に暴れ回る患者を助手に抑え込ませながら、数分で患部の切断から縫合までを行う電光石火の早業なのだから。

 

 しかしながら、今日この空間に充満している刺すような余所余所しさは、技術への渇望がもたらす健全な緊張とは毛色が違う。影の中でひしめく瞳の大半が、寝台の横に据え付けられた胡乱な装置――透明な液体ジエチルエーテルが入ったガラス容器に、ゴム管とマスクがついたもの――を訝しがっている。ともすれば、この珍奇な手術が失敗に終わることすら望まれているのかもしれない。この技法の有用性が証明されれば、今までの苦労も苦痛も、何もかも無駄だったと見なされる。


 見やれば、既に患者は目を覆う分厚い布を被せられ、マスクに少しずつ垂らしていく方式で薬液の吸入が行われていた。私たちが座っているのは最前列なので、距離的にも照明的にも見通しは良い。


「あれが『麻酔』の装置だね。パパが大好きな水パイプにそっくりで、可愛いかも」


 ミオーシャが同意を求める視線を注いできたので、曖昧に小さく頷く。彼女は新術式のお披露目にとして呼ばれた。待ち受ける未知に興味津々で呑気な同席者と違って、こちらはスケッチ用具を一抱え用意し、完全に仕事の構えでいる。これから起きることを薄明かりの中で捉え、走り書きのデッサンを、実際に在った一瞬間を切り取るに等しい絵の土台とすること。それが私の使命。


 思えば、やかましい幼馴染同伴で依頼の手紙を開封した朝から既に12日が経つ。


 診療簿のつもりなのか、荒っぽい筆記体の書面に曰く。無痛での外科手術を可能とする手法『麻酔』の公開実証について、今後宣伝に使用するための絵を注文したいとのこと。麻酔は国外では既に抜歯や体表の腫瘍除去に用いられつつあるが、この度の手術では壊疽した下腿の切断を実施する。夥しい流血を迸らせ、骨を医療用ノコギリで切断されながらも、声一つ出さずに眠り続ける患者の姿を克明に捉えた作品が望ましい。施術に失敗した場合、前金を支払いの上、別途解剖学書の挿絵等補填の仕事を依頼する。以上をご理解いただいた上で本件を受理される場合、■月■日までに返信の手紙(必着)を送付、もしくはストーンフォード大学医学部事務所に訪問されたし。

 

 ――正直なところ気乗りはしなかった。解剖学と美術は切っても切れない関係で結ばれているとはいえ、この仕事は厳密には専門外だし、挿絵に至っては尚更だ。加えて、私が狙っているはずの「層」からはゲテモノ画家として認知される恐れもある。医術の崇高さは理解していようと、溢れ出る血や弾ける人肉の脂を快く思うはそうそう居ないわけで。


 もちろん、好事家の愛を一心に享ける知られざる名人という在り方も、生きていけるのならば決して悪くはないだろう。心の素朴で捨て鉢な部分が、そういう人生に憧れを抱かないと言えば嘘になる。それでも、日の当たる所を目指さなければ胸に秘めた復讐は果たせない。


 と、一通り野心をぶち上げてみたところで、最終的に依頼を受け入れた理由はいとも単純――食い扶持のため、である。あれから他の仕事が見繕えなかったこと、そしてミオーシャが社交界に流れつつある幼馴染わたしの悪評に昂然と食い下がった武勇伝を口走ったことが、最終的な決め手となった。


「あのガラスの中身って、エーテルなんでしょ?」


「そう聞かされてるけど」


「アタシ、パーティで吸ってるの見たことあるよ。確かに、あれをお酒代わりに入れて大騒ぎしてる人って、足がもつれて石畳に脳天直撃してもケタケタ笑ってて面白いんだよね」


「ミオーシャはやってないでしょうね……」


「あは、ないない。アタシは頭がハッキリしてた方が楽しいから。でも燃料としてはエーテルの可能性にはワクワクしてるよ。現行の蒸気機関とは相性が悪そうだけど、あんなに発火しやすくて煤もほとんど出さない有機化合物はいずれ──」


 希望に満ちた声は、炎のように眩しく燃え、水のように柔軟に流れていく。彼女が見ているものは、常に前進し続ける今と、その先の無限に枝分かれした未来だった。


 では、私は?


 幸いにして、物思いに耽る暇はない。執刀医が、麻酔が効くまでの間続けていた術式の口頭説明をたった今終えた。ごくりと唾を飲んで、私も覚悟を決めた。誰しも生きるためには、血を流し続けなければならない!






 

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