第12章 マトリの決断

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 道場になんでもない日常が戻ってきた。


 プロックトンはまるで日用品を買いに行った帰りだとでもいうように、普通に玄関から帰って来て、まだ家の片付けをしていたマトリたちの度肝を抜いた。


 マトリはプロックトンのためにあれこれ世話をやきたかったが、興奮して物を取り落とすやら、泣くやらで使い物にならず、ヒックスは買い物に出かけ、ラフィキが台所に立った。


 それから数日間、たくさんの町民たちが見舞いの品を持って道場を訪れた。無愛想な食料品店の主人は無愛想なまま道場にやって来て、マトリに板チョコがたくさん入った箱を押し付けて帰った。元気のいい漁師たちは採れたての貝や魚を酒と一緒に持って来て、道場で乱痴気騒らんちきさわぎをやらかした。


 訪問者の中にはあのサニラもいた。サニラは大きなますを丸々一匹持って、張り詰めた顔で現れた。マトリはサニラにお茶を飲んでいくよう勧めたが、サニラは頑なに断り続けた。


「私にはそんな資格ないよ。旦那があれだけ迷惑をかけておいてさ」


 サニラは腫れた目にエプロンをあてた。ひどい顔だった。マトリが心配していたことは現実のものとなった。ザ・フィッシュはあれから一度も開いていない。


「いやね、もう店じまいすることにしたさ。いくら鈍感な私だって、こんな小さな町で呑気のんきに魚屋なんか開いてられないよ。とりあえずは親戚の家に身を寄せようと思ってね。チュロスフォード市からもっと内陸に入った小さな村だけど、生活に困ることはないよ」


 マトリはサニラの痛ましい姿がついに耐えられなくなり、ポケットからハンカチを取り出すと一緒になって泣き出した。


「サニラさん……グス……私たち……全然気にしてないですから」


「ああ、マトリちゃん、ありがとう、ありがとうね。本当に優しい子だよ」


 サニラはたくましい腕をマトリの細い首に回した。女たちは玄関で泣き続け、玄関から道場に入ろうとしたラフィキがその光景を見るなり慌てて逃げ出し、裏口から入る羽目になった。


「私も考えたんだけど、旦那とは別れないことにしたよ。相当愛想を尽かしてたはずなんだけどね……警察署にいるあの人を見ると、なんだかかわいそうになっちまってさ。

 どっかの誰かに借金作って、それを返すためにジャドソンとかいう男の話に乗ったらしくてね。ジャドソンは違法薬の売買もあの人にさせてたみたいなんだよ。その違法薬をあの人もこっそり使ってたらしいね。全くバカだよね、本当に」


 サニラは長いため息をついたが、もう悩んでいる様子はなかった。むくんだ顔だったが、吹っ切れたという表情をしていた。


「長く住んだこの町ともお別れか。まさかこんな日が来るなんて、予想もできなかったよ。何もかも変わっていくんだね、町の様子も、人生もさ。寂しいこった。

 まあね、受け入れる覚悟はできたよ。ようやく今になってね。その時その時、運命を受け入れて生きていくしかないんだよね。あの人がまた自由になって、ほとぼりが冷めたらこの町に戻ってくるよ。その時はまたよろしく頼むよ、マトリちゃん」


 サニラが差し出した手を、マトリは両手でしっかりと握る。サニラは最後に太陽のようなまぶしい笑顔を放つと、開け放たれた引き戸から去って行った。




 その時その時、運命を受け入れるか……。マトリはとあることを考えていたが、その言葉がマトリの考えを更に一歩進ませたような気がした。


 かぐわしいコーヒーの匂いに誘われて台所へ行くと、プロックトンが短い足を組んで優雅にコーヒーをすすっている。


「お父さん、話したいことがあるの」


 マトリはプロックトンの近くに腰掛けた。


「私、チュロスフォード市に行こうと思うの」


 プロックトンは組んでいた足を解くと、灰色の目でじっとマトリを見つけた。


「決めたのか、マトリよ。良きかな、良きかな。スミス家にはわしから連絡しておこう。そろそろこの家にも電話を引こうかのぅ、聞けば町の者たちはほとんど電話を設置したらしいのでな。どうも使い慣れんから今まで放っておいたが、こういう時に便利……」


「お父さん! 実はね……スミス家のお話は断って欲しいの」


 マトリは申し訳なさに胸がよじれるような思いをしながら、急いで言った。プロックトンは少し驚いた表情をしたが、穏やかに次の会話をつむぎ出した。


「何か考えがあってのことじゃな?」


「うん」


 マトリは首にかかった金色のチェーンを引っ張り、黒紫色こくしいろの石を取り出した。


 エネルギーに満ちあふれたその石は、パントフィ先生の家で見た時と同じように七色に光り輝いている。


「私ね、今までお父さんと一緒に生活するのが当たり前の幸せで、それがずっと続くと思ってて、先のことなんか一度も考えたことなかった。でも今回色々あってわかったの。私は変わる時期に来てるんだって。いつまでも同じ生活は続かないんだって」


 マトリはプロックトンの言葉を待ったが、プロックトンは口を挟むことなく、マトリに続きを促した。


「それで考えたんだけど、スミス家に行って働きながら色々学んで、良い人と巡り合うのが最善の選択だとは思う。でもね……でもね、お父さん、私、知りたくなっちゃったの。自分が何者かを……」


「先日話してくれた、マーチン博士に会いに行くのじゃな? スミス家に勤めてもそれくらいなら暇を与えてくれると思うがのう」


「うん、わかってる。でも私が何者かはっきりさせるには、マーチン博士に会うだけじゃダメだと思うの。この石とモアのことを調べれば、もしかしたら両親の手がかりが掴めるかもしれない。私はその手がかりを、追えるところまで追いかけたいの。

 だからね、勝手だって分かってるけど、私がここに帰って来てまたスミス家の人手が足りない状態が続いてるなら、私は喜んで働きに行くわ」


 モアの声、パントフィ先生、ジャドソンの部屋で見つけたメモ、この数日間で、色んな人が一斉にヒントをくれた気がする。このヒントを突き詰めていけば何が現れるのか、今はまだ見えない。謎を一枚いちまいめくって、最後に現れるものが何なのか、知るのが少し怖くもある。


 でも、もう迷いはなかった。今こそ旅立つ時だ。変化の時期が訪れたのだ。


「そうか、よう決断した」


 プロックトンは満足そうに長い髭を揺らすと、コーヒーをもう一口飲んだ。


「そうじゃ、状況は常に変化しておる。その中での、マトリよ、これから様々な決定を下さなければならぬじゃろう。先がどうなるかは誰にも判らぬ故、その決定が正しいものかも今は判らぬ。

 大切なのは自分で考えて決めることじゃ。他人に流されず、自分の思考をよく吟味ぎんみするのじゃ。変えた方がいい時もあるし、変えぬ方がいい場合もあるかもしれぬ。自分が納得さえしていれば、後にどのような結果が訪れてもそれを受け入れられる。

 じゃからな、マトリよ、今回スミス家に行かないことを決めたのは正しいことじゃよ。考えに考えた上で、自分で決めたのじゃから」


 プロックトンはマトリの両手をそっと握った。プロックトンの手は小さいし、足は床に届いてもいないが、その存在を今までで一番大きく感じた瞬間だった。いつでも安心させられる、絶対的な存在。何を話しても決して嘲笑することなく、真摯に受け止められる包容力。


 プロックトンから離れることはマトリにとって、まるで今まで着ていた暖かいコートを脱いで、吹雪の中を歩かなければならないようなものだ。マトリは片方の手をそっと抜くと、あふれてきた涙を拭った。


「それで、いつ出発すんの?」


 突然聞こえた声にドキリとして後ろを振り向くと、ヒックスとラフィキが当然のように木の椅子に座っていた。

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