10-2

 三人は生垣から頭を出さないよう細心の注意を払った。クロユリと話しているのはザ・フィッシュのおかみさん、サニラだ。


「じゃあ、買い物に出る時は店を閉めているざんすか?」


「仕方ないさ。店番を雇うほどの余裕はないし、旦那は点で役に立たないしね」


「まあ、働かない男を夫に持つと苦労するざんすね」


 クロユリはそう言ったが、言葉尻に若干の優越感が漂っている。サニラは大きくため息をついた。


「どうしちまったんだろうね。本当に。なんか変なんだよねぇ、体調も悪いみたいだし、小さな音にもびくつくし。最近は庭の木の植え替えをするとかで庭仕事にかかりきりでね。最低でも明後日までは庭に近づかないで欲しいって、私でも庭に入れないのさ。困ったもんだよ、洗濯物が片付かないったらありゃしない……」


 サニラの声はだんだんと小さくなり、遠くに消えていった。


「クロユリばばあめ、相変わらず嫌なやつだな」


 ヒックスは舌打ちをした。しかしマトリは別のことを考えていた。何かがマトリの心に引っかかって、ブラブラしている。


 ペスカードが庭の手入れをしているという話を、マトリは前にも聞いた。サニラの店で魚を買うときに、サニラが話していた。


 マトリは記憶の海を泳いで、散らばったかけらを必死に集めた。ペスカード、庭の手入れ、明後日まで庭に入れない。


 ジャドソンの言葉が頭の中にふっと現れた。心よく協力してくれる人物を見つけた、取引は三日後の夜。三日後の夜は——明日の夜。


「ペスカードさんだ!」


 マトリは叫んだ。ヒックスが怪訝けげんな顔でマトリを見る。


「マトリ、今通りかかったのはクロユリだぜ」


「違うわよ、ヒックス。今回の強盗事件で奪ったものを、もしかしたらペスカードさんが保管してるのかもしれない」


「ペスカードが? なんでそう思うんだ」


 ヒックスは息を呑み、ラフィキは目を見開いた。


「魚を買いに行った時、サニラさんが言ってたの。ペスカードさんが突然狂ったように庭の手入れを始めたって。その時ペスカードさん、なんだか様子が変だった。それに、『プロバドール』に行った帰りに、私ペスカードさんを路地裏で見かけたの。その時も様子が変だったわ。ペスカードさんはサニラさんを庭に明後日まで入れないようにしてる。ジャドソンが言ってた取引は——」


「明日か。確かに辻褄つじつまは合う。ペスカードはギャンブルが好きなやつだ。ジャドソンに金をちらつかされて、ギャンブルでできた借金を返すために協力したのかもしれない。でもあくまで推測だけどな」


「……確かめに行くか?」


 ラフィキが言った。


「でも移動中に誰かに見つかっちゃうかもしれないわ。せめて夜じゃないと……」


「夜の方がいいな……月明かりがあるといいけど」


 もうすぐ満月だ。雲さえ出てなければ、月明かりは期待できる。


「パントフィ先生がお帰りになるのを待って、先生に全部やっていただくことは難しいと思う? もしまた捕まりそうになったら今度こそアウトよ。先生は自分を頼って欲しいとおっしゃってたわ」


 前回の経験で自分の無力さに懲りた思いだったマトリは、思わずそう言ってしまう。


「いくらパントフィ先生でも、何の証拠も無い状態で警察を動かすのは難しいと思う。情報の出所が俺たちじゃ誰も説得できないだろ。しかも取引は明日の夜だ、時間がない。確認するなら、今日でなければ間に合わないな」


 ヒックスの言葉を最後に、三人はしばし沈黙した。


 マトリは再び覚悟を決めた。最初に町に残ることを言い出したのは自分だ。


「わたしがサニラさんの庭を見てくるわ」


 マトリは二人に言い切った。


「小さな店だし、庭だって広くないと思うの。三人で庭を見てたら目立つわ。私がさっと行って見てくるのが一番だと思う」


 ヒックスがとんでもないとばかり目をむく。


「バカ言うな。ペスカードに気づかれたらどうするんだ。それに、この推測が外れている場合だってある。二重にゴタゴタに巻き込まれるかもしれない」


「僕とマトリの二人で行こう」


 ラフィキが落ち着いた声で言った。


「何かあれば、僕がマトリを守れる」


「なら俺だって——」


「……この作戦は足の速い人のほうが向いている」


 ヒックスの顔に赤みが刺したが、何も言わなかった。


「……わかった。俺は残って、パントフィ先生が帰って来たら今晩かくまってもらえるか聞いてみる。今後のことも考えとく」


 ラフィキが小さく微笑み、ヒックスの肩に手をかけた。


「適材適所だな」

 

 海岸から、子どもがはしゃぎながら走り回る声が聞こえてくる。マトリたちは日が落ちるのをピリピリしながら待っていたが、そうとは知らない町民たちの穏やかさが、マトリに突き刺さるかのようだった。この作戦が最後になればいいと、マトリは心から願った。



* * *



 マトリは身を固くして伸び放題のバラの茂みに身を潜めていた。近くで、ラフィキも息を殺しているのを感じる。


 目の前を、酔っぱらった警察官が鼻歌を歌いながら通り過ぎて行く。以前のマトリなら職務怠慢な人だと思うところだが、今日はお酒に身をゆだねてくれてありがとうという気分だ。


 警察官が十分離れたのを確認して、バラの茂みからはい出た。バラの刺があちこちに引っ掛かり、服が破れ、首や腕にうっすらと引っ掻き傷までこさえた。


 星を散りばめた群青色の空に、丸い金ボタンのような輝く月が浮いている。パントフィ先生の庭を出るのを躊躇ためらうほど明るい夜だったが、マトリはザ・フィッシュの庭にやって来た。


 時刻はまだ日が落ちて数時間程度だ。ここは美しい港町だが、夜になると途端に人通りが少なくなる田舎町でもある。


 パントフィ先生の家から商店街は近いので、マトリはそれほど人に合わずに済んだ。イチャつく一組のカップルとすれ違っただけだ。お互い相手を眺めるのに忙しく、マトリは見向きもされなかった。


 サニラの家は古ぼけた木の塀に囲まれていたが、隙間だらけで入るのは容易だった。マトリとラフィキは、手入れされず枝が伸び放題の木に隠れて、家の様子を伺った。庭側の窓に灯りがついているうちは、動くことができない。


「パントフィ先生、結局日暮れまでに帰って来なかったね……」


 もしパントフィ先生が帰ってきて、自分たちのこの作戦を知れば止められるかもしれない。そうしたら何て切り返そうかと考えていたマトリだったが、結局パントフィ先生は日が落ちても戻ってこなかった。


「そうだな……」


 ラフィキは片膝をついて木の影に座り、家の様子をかた時も目を離さず見つめている。すごい集中力だ。


 とろりとした宵の中で、ふくろうがホーと鳴いた。黒猫が一匹、ボサボサの芝生の上に後足で立ち上がり、木の塀で爪をいでいる。


 カーテン越しに、忙しく動き回るサニラの影が見える。カチャカチャと食器がぶつかる音がし、美味しそうな匂いが風に乗ってふんわりと漂ってくる。


 オーブンから出されたばかりの魚の匂いが、ハーブやニンニクの香りと共にマトリの鼻を刺激した。その香りを嗅ぐと、マトリは頭がくらくらして、突然疲れがどっと押し寄せてきたような気がした。


 勢いでここまで来てしまったが、昨日からほとんど寝ていないし、口に入れたものはパントフィ先生の家で振る舞われたココアだけだ。


 ラフィキも寝てないし、食事も取れていないが、しっかりと意識を保っており疲れを感じさせない。さすがに鍛え方が違う。


 それから一時間ほど後、家の明かりが消えた。辺りを照らすのは月明かりと、月明かりを反射させて輝く猫の目だけだ。


「行きましょう」


 マトリは立ち上がりかけた。ペスカードは庭の手入れをしているとサニラは言っていたが、どう考えても整えられた庭には程遠い。芝生は伸び放題、木の枝はあちこちに腕を広げ、びついた缶や自転車のタイヤが転がっている。


「マトリ——!」


 ラフィキがマトリの腕を掴んで座らせ、指を立てて静かにするよう合図した。

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