第9章 パントフィ邸

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「パントフィ先生!」


 ヒックスが目を見開き、転びそうになりながら大急ぎでパントフィ先生の前に進み出た。


 この人がパントフィ先生? マトリは失礼と分かりながらも、パントフィ先生をまじまじと見てしまった。マトリはヒックスの師であるパントフィ老師に一度も会ったことがなかった。


 パントフィ先生は穏やかで、人の良さそうな人物だ。顔に刻まれたしわや、白髪の方が多いグレイヘアから相当な歳であることがうかがえる。しかしその立ち姿には、高貴な紳士を思わせる風格があった。


「パントフィ先生! なんで僕が庁舎にいるって分かったんですか?」


 ヒックスは忠実な飼い犬が尻尾を振るかのようにはしゃぎ回り、崇拝するような目つきでパントフィ先生を見た。


「僕?」


 らしくないヒックスの言葉に、マトリは耳を疑った。


「ふふふ、ヒックス、誰だってあれだけの質問を浴びせ掛けられれば、その人がやろうとしてることは予想できますよ。その様子では、目的は果たされなかったようですね」


 ヒックスは急にしゅんとしなびたように見えた。


「それにあなたはマトリカリアさんですね。もちろんヒックスからたくさん話を聞いてますよ。一度お会いしたいと思っていました。それにあなたはお友達のラフィキさんですね。初めまして」


 マトリとラフィキはそれぞれ先生と握手した。マトリは、ヒックスが何をパントフィ先生に語ったのか気になった。何せヒックスの言うことだ……。


「さてと、まだ近くに追手がいるかもしれませんし、私の家で熱いココアでも飲みませんか? すぐ近くですよ」


 そう言って、パントフィ先生はまた歩き出した。



* * *



 パントフィ先生の家は海岸沿いの、見晴らしの良い場所にあった。


 三人は居間に通され、ふかふかしたソファーに収まった。手にしたマグカップから、じんわりとした優しい暖かさが伝わってくる。


 ドキドキしっぱなしだったマトリの心臓は、ようやく平常運転に戻ったようだ。ココアを一口飲むと、この世のものとは思えないくらい美味しく感じた。マトリはつい涙ぐみそうになった。


「さて、ヒックス。何をしていたのか、私に話してくれませんか? 事情は大方予想はつきますが、夜の庁舎に忍び込むのは流石さすがに感心しませんね」


 パントフィ先生はそう言ったが、責めているような響きはまったくなかった。ソファーに座って足を伸ばし、いかにもくつろいだ様子だ。


 ヒックスは赤面して俯き、ボソボソと事の顛末を話して聞かせた。話終わると、しばし沈黙が流れた。パントフィ先生は暖炉の火をじっと見つめている。


 しばらくして、パントフィ先生が突然ふふふと笑い出したので、マトリはびっくりしてしまった。


「まったく、皆さん若いですね。実に若く、エネルギーに溢れている。うらやましい限りですよ。今夜の皆さんの行動は、私には絶対に真似できないことです」


「僕が悪いんです」


 ヒックスが急いで言った。


「僕が中途半端な策で実行したから……もう少しで捕まるとこだった上に、結局証拠は何も手に入らなかった」


 ヒックスは唇を噛み、押し殺したような声でそう言った。


 マトリの胸の中で罪悪感がうずいた。


「違うんです! 私が無理を言ったから、ヒックスはこの町で証拠探しをしようって決めて動いてくれたんです。ヒックスはすごく賢いし、その……悪いのは全部私なんです!」


 マトリはマグカップを握りしめ、パントフィ先生に訴えた。今回のことでパントフィ先生がヒックスに失望したとすれば、それは全部自分のせいだ。


「違う……僕のせいだ。師匠から頼まれたのに……一番年上なのに……僕は何の役にも立たない」


 ラフィキがうつむいてココアに映る自分の顔を見ながら、沈んだ声でそう言った。


「プロックトンがうらやましいですよ。良い子たちに恵まれたものです」


 パントフィ先生は穏やかに目を細めた。


「ヒックスのこと、嫌いにならないでくれますか?」


 マトリは哀願した。なんとしても、それだけは避けなければならない。


「ふふ、大丈夫ですよ、マトリカリアさん。ああ、でも少しは失望してますよ。なぜもっと私を頼ってくれなかったのかってね」


 パントフィ先生はいたずらっぽくそう言った。


「そ、それは、十分状況は悪いんだし、おやじは逮捕されたし、パントフィ先生に迷惑をかけるわけにはいけないと思って——」


 そんな様子のヒックスを、パントフィ先生は静かに制す。 


「わかってますよ、でも水くさいじゃないですか。年寄りは、若者に頼られたいという願望を常に持っているのを忘れてはいけませんよ」


「パントフィ先生……」


 ヒックスは小さく鼻をすすると、急いでココアを飲んだ。パントフィ先生は暖炉の火を見つめながら、何かを考えているようだ。


「しかし、ジャドソンとは……もしかしてアーロン・ジャドソンのことですか?」


「ジャドソンを知ってるんですか!?」


 マトリが聞いた。


「ええ、話を聞く限り、おそらく私の知っている人物と同一でしょう。しかし、町長補佐になっているとは知りませんでしたね。おそらくですが、彼が町長補佐に就任したのはつい最近ですよ。彼は元々この町の住人ではありません。各地を転々とし、あらゆるところに潜り込んでいる男です。私の会社にも入り込んできたことがありました」


「え!? パントフィ先生って歴史研究家じゃないんですか?」


 マトリは驚いて質問してしまった。私の会社とは?


「えー! マトリ、知らねえの? うそだろ!」


 ヒックスが致命的に失礼なことを言ってくれたといわんばかりに目をむいた。


「オリバー・パントフィ社といえば国内でも有数の大きな商社じゃないか!」


 パントフィ先生は、今度こそ本当に声を立てて楽しそうに笑った。


「あはは、どうやらマトリさんに説明が足りなかったようですね、ヒックス。私は自称歴史研究家ですよ。会社を引退して、ここで大好きな歴史書にうずもれて隠居生活を送っているだけの者です」


「パントフィ先生はすごいんだぜ! 引退した今でも、色んな会社の人が先生のアドバイスをもらいに毎日訪れるんだ!」


 ヒックスは誇らしげだ。


「いえいえ、私のアドバイスなど大したことないですよ。ひとつだけ自慢させてもらえるなら、マトリさんがしっかりした靴を安価で手に入れられるのは、もしかしたら私の功績と言えるかもしれないですね。誠に僭越せんえつながら。

 私の若い頃は、農家の子どもたちはみんな裸足で走り回っていたものです。あの頃は、靴を買えないせいで学校に行けない子が多くいました。靴を履かなければ校舎に入れないルールでしたから」


 パントフィ先生は、その時のことを思い出すかのように目を細めて天井を見ている。


「ジャドソンは先生の会社で何をしていたんですか?」


 マトリは話を戻した。ジャドソンの情報をもっとつかみたかった。


「もう随分前の話になりますが、私がまだ会社を率いていた頃、専務の紹介でジャドソンが入社してきたんです。もっともその頃は、アルフィー・イングラムという名前を名乗っていましたがね。

 彼は市場調査の専門家として入社してきましたが、実は我が社の情報を狙う産業スパイでした。会社の顧客データや技術を盗み、他社へ横流ししようとしていたのです」


「会社の情報を盗まれてしまったのですか!?」


「いえ、幸い同じ部門にいた社員が彼の悪事を見抜き、会社の情報は守られました。あわやというところでしたが。そして彼の悪事を摘発しようとした時には、ジャドソンは一切の痕跡を残さず会社から消えていました。

 会社に保管してあったアルフィー・イングラムに関してのデータは全て捏造ねつぞうされたものでした。住所や他の情報全てが」


 マトリはジャドソンの部屋に入った時のことを思い出した。何も置かれてない、殺風景な個性のない部屋。書棚も引き出しもほとんど空。まるで……。


「庁舎に忍び込んだ時、ジャドソンの部屋に入ったんです。ジャドソンは町長補佐官室に私物をほとんど持ち込んでいませんでした。まるで……いつでも去れるよう準備しているかのように」


 パントフィ先生はため息をついた。


「パントフィ社にいた時もそうでした。社員の話では、ジャドソンは自分のデスクに羽ペンひとつ置いてなかったそうです。私が今まで見た中で最も狡猾な男でした」


「ジャドソンを追いかけて、捕まえてやろうとは思わなかったんですか?」


 ヒックスが聞いた。


「いえ、追いかけることはしませんでした。そのようなことにエネルギーを使いたくなかったですから。ただ後学のためにも、ジャドソンの経歴と、産業スパイについては部下に調べさせました。

 しかし、ジャドソンの経歴を調べるのは非常に苦労しましたね。ジャドソンが若い頃に家具を扱う店で働いていたことは分かったのですが、退職後の行動は謎に包まれています。誰も彼のことを知らないのですよ。

 かろうじて分かったのが、ジャドソンは多くの犯罪を犯しながらも、一度も捕まったことがないということです。私が掴んだだけでも、窃盗、盗品不正取引、賠償金不正請求、違法薬の仲買、文書偽造などがありますね。もちろん全て疑いですが」


 四人はしばらく、楽し気にはぜる暖炉の炎を眺めた。

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