7-2

「ヒックスが今日庁舎の近くにいたのって……もしかして庁舎に忍び込む方法を考えてたからなの?」


「もちろんそれだけじゃない。あの時はまだハリス副町長からの情報も得てなかったし。でも、忍び込む方法と、町長室までの経路はつかんだ。でもうまくいかない可能性の方が高い。それでも……」


 ヒックスは手の関節が白くなるほどギュッと拳を握りしめた。血の気が失せた顔だったが、その表情は決然けつぜんとしていた。


「俺は今夜バカなことをすると思う。でもマトリ、お前は今夜中に町を出て安全な場所に避難してほしい」


「嫌よ! 絶対いや! 私もヒックスと一緒に行きたい!」


 マトリは即座に言った。ヒックスの表情が苦悶くもんゆがんだ。


「お前がいたら俺がバカする意味がないんだよ!」


 ヒックスはいつもの冗談を言う余裕さえ失ったようだった。


「なあ、おやじがお前のことをどんなに可愛く思ってたか、マトリは全然分かってない。マトリは今のおやじの全てなんだ。マトリが捕まっちまうくらいなら、おやじは刑務所の中で死ぬ方を選ぶ。これは絶対言える。自分と一緒に共倒れになってほしいなんて、これっぽちも思わないに違いないぜ。

 マトリが俺と一緒についてきて何ができる? お前は動物の世話は得意だし、手先も器用だけど、こういったことは向いてない。なあ、お前は今までめちゃくちゃいい子だった。真面目で、口答えもしないしよく働く。どんなことにも真剣になれる。今も真剣に考えてくれないか? 素直に言うことを聞いてくれよ。父親と兄のために」


「なら私はいい子をやめる!」


 マトリは必死に食い下がった。首筋が熱くなり、顔に血が上った。心臓が肋骨をバンバン打っている。


「自分だけが捕まればいいなんて……そんなの自己満足よ! ヒックスが捕まるなら一緒に私も捕まる! それくらいの覚悟はあるもん!」


「マトリ! お前——」


 ヒックスは蒼白な顔で立ち上がったが、ラフィキが音もなくスッと立ち上がり、ヒックスの肩に手を置いた。


「落ち着けヒックス、マトリの言い分も聞こう」


 ヒックスは軽く息を荒げていたが、顔を歪めたままドサっと椅子に座り直した。


「マトリ、俺たちには味方が少ない。首尾良く何か証拠を手に入れられても、それを活用できないまま握り潰される可能性だってある。相当危険だ。それでも、やってみなきゃわからないって言えるか?」


 ほんの一瞬、マトリはやはり町を出てスミス家に行くべきか逡巡しゅんじゅんした。


 自分たちのしていることがジャドソンにバレて、警察に捕まるとどうなるのかを考えると、腹わたがよじれるような思いがした。


 しかし、もしパーカー町長の野望を挫くことができれば、プロックトンを助け出すだけでなく、森林の開発を中止に追い込めるかもしれない。マトリの庭にも等しいあの森林を守りたいという思いは、今や自分の大切な義父を助け出すことと同じくらい大きくなっていた。


 何かが足に触れた気がしてポケットをまさぐると、今朝方に警察官がくれたチョコレートが出てきた。あの時警察官が放った言葉が思い出されたが、マトリは首を振ってその思いを振り払った。そして立ち上がり、チョコレートを水瓶の近くにあるくずかごに勢いよく投げ捨てた。


 マトリは立ち止まって深呼吸すると、まっすぐ二人を見た。鳶色とびいろの目と、深緑色の目がじっとこちらを見つめている。


「やっぱり絶対ヤダ。お父さんを置いてこの町を出るなんて、考えられない」


 マトリは、以前ヒックスと口論した時と同じ答えを口にした。しかし、今初めてこの言葉を口にしたかのような、不思議な気持ちになった。感情に任せて言い放ったあの時とは違う何か別の強い思いが、身体中から胸に集まってくるような気がした。


「私は自分の本当の誕生日も知らないし、本当の両親の名前も顔も知らない。初等学校しか出てないし、鼻は低いし、町のお金持ちの子が着てるような綺麗な服は一枚も持ってない。でも、今まで私は幸せだった。そういうものが無くても幸せになれるんだって、お父さんが教えてくれた。

 私はお父さんと、ヒックスと、森の動物たちとの暮らしがいつまでも続いていくんだと思ってた。それが当たり前だと思ってたし、それが私の全てだった。それがいかに恵まれた環境だったかとういことに気がつきもしなかった……」


 マトリは頭の中を駆け巡ってこの町に残る口実を探した。本当はわかっていた。自分は役立つ人間じゃない。みんなの言うことの方がきっと正しい。町を出て、衣食住に困らないよう自分の面倒を自分で見れるようにするのが最優先だ。


 でも今ここで逃げ出したら、きっと一生今日のことを思い出す。安住できる場所に行って、そこでの生活が当たり前の日常になって、同じような試練がまた訪れた時、きっと今以上に自分はどうしたらいいかわからなくなる。きっとそうだ。


 マトリは脳みそを絞り上げた末、苦し紛れに言葉を発した。


「私の方がヒックスより足が早いわ!」


「はあ!? 今足の速さなんて関係な——」


「それに基礎体力だって私の方があるし、受け身だって、突きだって私の方が得意だもん! ヒックスはお父さんのトレーニングをサボってたし、運動音痴おんちじゃない! 庁舎に忍び込めば、私の方が誰かに見つかっても逃げ果せる可能性は高いわ!」


 マトリは地団駄じだんだを踏んで抵抗する。


「それとこれとは関係——」


「……ヒックス」


 じっと黙って聞いていたラフィキが、ここで初めて口を挟んだ。


「こうは考えられないか。ここでマトリを無理に逃しても、マトリはきっと戻ってきてひとりで師匠を解放しようとするだろう。なら僕らと一緒にいた方が、まだ捕まる可能性は低いと言えるかもしれない」


「僕ら?」


 ヒックスがおうむ返しに聞いた。


「ラフィキもついて来る気かよ?」


 ラフィキは何も言わなかったが、答えはその顔にはっきり書いてあった。


「もし証拠集めに失敗したとする」


 ヒックスが何も聞かなかったかのように続けた。


「もし捕まれば、俺たちに味方してくれる人は誰もいない。マトリだって感じたろ? 今だって、町の人たちの視線は冷たい。自分は厄介ごとに関わりたくないって思ってる奴らばっかりだ。マトリお前、バカな上っ面しか見ない奴らの嘲笑に耐えられるのか?」


 マトリはこの問いについて深く考えたことはなかったが、答えが自然と口をついて出てきた。


「その答え、さっきヒックスが教えてくれたじゃない」


「え? 俺何つったっけ?」


 ヒックスは腕を組んで自分の言ったことを思い出そうとしているようだ。


「『おやじは町では変人扱いだったけど、だからって嫌われてたわけじゃない』って」


 マトリの言葉にラフィキは滅多に見せない緩い笑みをこぼした。ヒックスも満更でもない表情をしている。


「ねえ、みんな思った以上に私たちのこと見ててくれたのよ、今までずっと。だたちょっと……本音を素直に言うのが苦手なだけなのよ」


「例えばお前とかな、ヒックス」


 ラフィキが面白そうに目を細めてヒックスを見ている。


「ふん、そんなぬるい言い方しやがって。いい子はやめるんじゃなかったのかよ」


 ヒックスはバンと両手をテーブルに叩きつけて立ち上がった。


「わかった、俺が負けたよ。運命を共にするとか、俺、本当は大っ嫌いなんだけどな。いいか、もう後戻りはできない。これは賭けだ! 野郎ども、怖気づくなよ!」


 ヒックスはスプーンを勝利のシンボルのように三人の間に掲げて見せた。普段ならマトリのことを「野郎」呼ばわりしたことに抗議するところだが、今だけはヒックスの景気付けに水を刺さないことにした。

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