2-4

「いてて……おい、スカビオサ。気をつけないと、マトリはおやじに言われた修行は全部やってるんだぞ。走り込みとかスクワットとか……」


 スカビオサは疲れたらしく、杖をついて椅子まで移動し、ころんとした体を縮こめた。頭にちょこんと乗っかった小さなまとめ髪がふるふると揺れた。


「あんたたちは私の息子たちとは大違いだえ。私の息子たちはそりゃあいい子たちだった。ジョンはお前みたいに怒鳴ることは一度もなかった。エリオットは少し気性が荒いこともあったが、母親思いの子だったよ。レオンは気が弱かったが、家の手伝いをよくしてくれた。まったくよくできた子ばかりだえ。今は遠くに行っちまって、会えないがね」


 スカビオサは完全に意気消沈してしまったようで、杖にもたれかかって長いため息をついた。スカビオサは何か理由をつけてほとんど毎日来ていたが、いつも見るより突然十歳も老け込んだように見えた。その様子にマトリはほんの少し、この寂しい老人がかわいそうになってしまった。


 マトリは癇癪かんしゃくを起こしたことが急に恥ずかしくなった。プロックトンは癇癪を起こして手をあげるようなことは望まないだろう。


 マトリは咳払いをしてから、絶対にスカビオサの目を見ないようにしながら小さな声で言った。


「あの……スカビオサさん。チョコレートマフィンがあるんですけど、お茶でもどうですか?」


 ヒックスが冗談だろという顔でマトリを見た。


 スカビオサは老け込んだ様子から、突然いつもの鋭い目つきに戻った。そして両手に杖を置いて立ち上がった。


「そんなふうに私を見るんじゃない! 失礼なガキどもめ。喉が乾いたから、水を一杯だけもらおうかね。いいやマトリ、台所の場所は知ってるぞえ」


 スカビオサはそう言うと、杖をついて台所に消えた。


「あれほど人の気にしていることを一つ残らず言えるばばあ、今まで見たことあるか?」


 ヒックスはスカビオサが消えた方向に向かってこぶしを振り上げた。


 ずいぶん時間が経ってから、スカビオサはあいさつもせずに、苦々しく軽蔑の視線を投げかけてから出て行った。


 その夜、結局スカビオサはプロックトンに何の用があったのだろうと、マトリは不思議に思った。



* * *



 二日後、パンとミルクで朝食をとると、ヒックスはパントフィ先生の家に行った。プロックトンは一人で突きの練習を始め、マトリは走り込みに出かけた。森から海岸沿いに通じる道を走り込むのはマトリの日課だった。


 走り込みの後、近所の農家を訪れて農作業を少し手伝い、卵を分けてもらった。道場に帰るとちょうどヒックスが帰ったところで、ラフィキも一緒だった。


「町の広場で会ったんだよ」


 ヒックスが言った。


「ラフィキ、お前が町にいるなんて珍しいな。しかも人が集まる広場なんて、ラフィキには無縁のところかと思ってたけどな。ついに彼女でもできたのか? え?」


「え! 女の子? ラフィキ、ついにあがり症を克服したの?」


 マトリは薪ストーブの上に置いたフライパンに卵を割り入れようとしていたところだったが、ラフィキの表情が見たいあまり手元が狂い、貴重な卵を一つ台無しにしてしまった。


 しかし、ラフィキはヒックスの言葉にほとんど無反応だった。


「今日は毛皮を売りに来ていた。問屋街で毛皮を売っている時にうわさ話を聞いた」


「え? うわさ話? ラフィキもついにゴシップとかに興味を持つようになったわけ?」


 ヒックスがラフィキをからかいながら椅子に腰掛けた。普段のラフィキはゴシップどころか、たとえ町中の女性が色めきたって、一斉にだれかれに告白を始めても興味を示すとは思えなかった。


 マトリも昼食の準備をしながら、二人の話に耳を澄ました。


「毛皮問屋の主人の家も空き巣被害にあったそうだ。一番上等の毛皮が数枚盗まれたらしい」


「また空き巣被害かよ、最近多いらしいな。パントフィ先生が言ってたぜ、強盗被害にあった家もあるとか。こんなのどかな田舎町にしちゃ珍しい事件だよな」


「ああ。問屋の主人が言ってたが、教会の近くに住む老女の家も最近被害にあったようだ。もう一つそこで気になるうわさを聞いた。最近の窃盗、強盗事件の犯人は、異常に背が低くて、白髪を長く伸ばしている男らしいといううわさが町中に流れてる。目撃情報があちこちであるそうだ」


 ヒックスは黙った。マトリが卵を焼く音だけが響いている。


 嫌な沈黙が数秒間続いた。ヒックスの考えていることが、卵を焼く音に乗ってマトリにまで届いた。マトリはその言葉を言わないでと心の中で何度も繰り返した。しかし、残念ながら願いは叶わなかった。


「背の低い白髪のロン毛って……じじいしかいないだろ」


 ヒックスが言った。


「ヒックス!」


 マトリが木のさじを持ったまま勢いよく振り返った。


「お父さんが強盗なんかするはずないじゃない!」


「俺だってじじいが強盗するなんて思ってないっつの。金にならないことのためにあれだけ一日中忙しくしてられる男が、窃盗みたいなことわざわざするか? でもそのうわさ、気になるよな」


「ああ……」


 ラフィキもヒックスに同意した。


「おそらく、誰かが意図的にうわさを流して、情報操作している」


「だよな、本当の犯人から目をそらさせたい誰かがうわさを発信している可能性が高いな」


 マトリも会話に参加したかったが、フライパンから危険な黒い煙が上がってきて、卵を急いで火から外した。

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