4章 『その旅行は…』
No,32
《解せぬ……》
思わずテレビから流れる俳優のセリフを椿亜子も心の中で発していた。
何より目の前に並ぶ答案用紙の点数に納得がいかない。
自分は毎日コツコツと勉強してきた。少なくとも毎日ソファーでタブレットPCを操作している彼よりも勉強しているはずだ。
なのにまた負けた。
圧倒的な大差で、期末考査の全てのテストで惨敗した。
「ま~あれだ。亜子も頑張ったと思うぞ?」
中間に比べれば全体的に10点以上は点数を伸ばしている。
普通に考えればよく頑張った方だ。
「本当にそう思いますか?」
「思ってるって」
と、彼女が答案用紙を集めてそれを夫である彼に見せて来る。
氏名欄には椿柊人とあり、点数は100点の数学を先頭に高い順に並んでいた。
「だから俺は高校程度の修学は終わっているから」
両足と内臓を事故で損傷し、病院でベッドの住人となった彼に対して"家族"が手配してくれた先生は、ある事情から柊人の教師役を買って出た金髪碧眼の胸の大きい美人だった。
怪我をしていても男子であれば頑張るシチュエーションだ。
だから彼は頑張った。とても頑張った。
結果成績が良くなりすぎただけだ。
ちなみに相手が"父"の娘と知ってからは、頑張りは鳴りを潜めたが。
「解せません」
「テレビに影響されない」
リモコンを操作し時代劇からニュースに変わる。
「でもそのペースで頑張れば、ここから通える距離の大学ぐらいなら狙えるはずだよ」
「……」
静かに柊人の答案を置いて亜子は自分の最大の問題作を手にする。
赤点は免れたが一番足を引っ張っている英語だ。
「頑張れ」
「はうっ」
何やらダメージを受けて彼女は床に伏した。
「読み書きは亜子の努力だが、リスニングなら手伝うぞ?」
「柊人さんはむしろそっちが専門ですもんね」
イジイジと床に指を当ていじける亜子に柊人は深く息を吐いた。
何より座った状態でそのまま床に倒れたからスカートが捲れてもう少しで下着が見えそうなのだが、これは指摘しても良いのか悩まされるところだ。
「暇な時は質問に応じるからそれで良いだろう?」
「……敵の施しなど受けません」
「まだ頭の中が時代劇ですか?」
「ぶ~」
最近よく姉と通話しているせいか、何処か亜子がクリス化して来た。
全体的にポジティブになる病気だから問題は無いが、ぶっちゃけ相手するのが面倒臭くなる病気でもある。
「亜子はそんなクリスの真似なんかしなくても可愛いから心配するなって」
「……」
カッと頬を赤くして慌てて立ち上がった彼女は『今日の夕飯はブリ照りですからね!』とツンデレなのか良く分からない反応をしてキッチンに逃げ込んだ。
やはりまだあの姉のようには立ち振る舞うことは出来ないらしい。
「あっそうだ」
忘れる前にと柊人は立ち上がりキッチンに向かった。
「亜子さんや」
「何ですか? 大丈夫です。ブリはもう切り身ですから!」
「そんな心配はしてないな。明日ちょっと学校の帰りに行きたい場所があるから付き合って」
「良いですよ。大丈夫です。分かってますから」
「……伝えたからな」
全力で空回りしている彼女を置いて柊人はリビングに戻る。
空回りしてもブリ照りは美味しく仕上がっていた。
「パスポートですね」
「申請したでしょう?」
「忘れてました」
書類などを提出すれば完成する身分証でもあるが、亜子の今までの人生で最も縁のない物でもあった。
受け取ったそれは真新しく、開くと自分の顔がプリントされている。
「何か凄いですよね」
「まあな」
偽造防止などの技術が進み過ぎてパスポート自体がだんだん重くなっている気がする柊人ではある。
隣りでパスポートを珍しそうに見ている彼女が、物などにぶつからないように誘導し、彼はエスカレーターまで来た。
「ところでこんな物を作った以上は使うんですよね?」
「そうなるな」
「……どこに行くんですか? アフリカの真ん中とかはちょっと」
「心配するな。今回はクリスの企画じゃない」
それだけでホッと胸を撫で下ろせる。
あの自称姉は、自分の好奇心を満たしつつ無理難題を押し付けて来るから困る。基本は優しくて良い人なのだけど。
「それだと……」
亜子は気付いた。
お兄さんが呼んでくれることは無さそうな気がする。
と言うより夏のイベントの関係で日本に来る方が確率的に高そうだ。
つまり今回の企画はお母さんとお父さんとなる。
どっちも色々と困るが、普通に考えてアメリカ大統領に逢うぐらいならお母さんに逢う方が良い。そっちの方が良い。
「イギリスですか?」
「アメリカだな」
2分の1に負けた。負けて欲しくない方に負けた。
これで夏休みはホワイトなハウスに晩餐会でお呼ばれされるとか、未知との遭遇が基本の精神すり減らし旅行が確定したのだ。
「ただ父さんは欧州の方に行ってるから、たぶん母さんの別荘だろうな」
グッと拳を握って亜子は勝利を噛み締めた。
神はまだ自分を見放していないと思えた。今までさんざん煮え湯を飲まされた人生だったのだから、これぐらいのサービスがあった方が嬉しい。
「なら別荘でのんびりですかね?」
「そうなるかな」
隣りを歩く柊人はどうも乗り気でない。
それを不思議に思った亜子は素直に問う。
「行きたくないんですか?」
「行くのは良いんだけどね」
「けど?」
「今回こそ飛行機がトラブらないと良いな」
「……」
余りの発言に亜子の両足が床に張り付いて止まった。
『今回こそ?』
その言葉に亜子は静かに恐怖するしかなかった。
(C) 甲斐八雲
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