2.「道」の認識論的理解

 『老子』のツボはやはり、「道(タオ)」についてどう理解するか、というところにあると思います。「道」を神秘主義的に受け止めてしまうと、途端に『老子』は怪しげな書物に様変わりしていきますし、実際、怪しげなことを言ってる人もわりと多いでしょう?


 「道」については、(1)認識論的な理解、(2)存在論的な理解、(3)人生論的な理解、の3つに区分し、それぞれの角度からアプローチすると理解が平易になると思います。


 ので、まずは(1)の、認識論的理解から。


 非常にシンプルな話です。


 人間は世界そのものについて語れる言葉を持っておりません。言葉というのは、世界そのものではなく、世界を(いささか恣意的に)分節化することによって成立しているものだからです。

 このあたりの事情は、いわゆるフランスの現代哲学(構造主義)に詳しいところですが、簡単にいいますと、言葉は、光と影、天と地、男と女、善と悪、等々、二項対立的な網の目を世界に張り巡らすことで分節化し、‘そのままでは語れない世界’を語り得るように変換していきます。


 たとえば、人間がいる、動物がいる、「人間/動物」と区分し、その人間も、男がいる、女がいる、「男/女」と区分します。その男も、大人がいる、子どもがいる、「大人/子ども」と区分していきます。このように区分しながら世界を語り得るものに変換していきます。


 ちなみに、このような二項対立的世界把握においては、二項の片方に有意な価値が付与されることが多く、また、それぞれの優位価値項が連結されていきます。

 たとえば、動物より人間に価値があり、女より男が偉い、とする。しかも、それぞれの項が連結されて、男は人間的(理性的)だが、女は動物的(感情的)だ、といった具合に、価値創造されていきます。この場合は歪んだ差別的な価値創造ですね・・・・・・(男性中心主義というのは、一つには言語‐構造的な起源があります。)

 また、大人は人間的だが、子どもは動物的、というのも同様ですね・・・・・・


 男=理性=人間的 > 女=感情=動物的 とかいう差別的構造・・・・・・

 (男>女、理性>感情、人間>動物)


 脱線しました。

 まぁ要するに、人間は世界を二項対立的価値基準によって再編成しているわけです。


 もっと簡単に言いましょうか。

 つまるところ、ぼくらは言語(が編成する二項対立的価値)という名の眼鏡を通してしか世界を眺めることができていない、ということです。


 このとき、本来言葉では語り得ない世界そのものが、実相が、まずは認識論的レベルでの「道」ということになります。


 「道」=言語化以前の、世界そのもの、世界の実相、それは言葉で語れない。


 ところで、この世界そのものというのは、そもそも語ることができないものですから「道」と呼称すること自体矛盾していると思いませんか?

 当然、老子もそれに気づいています。だから老子は「わたしはそのほんとうの名を知らないから、仮りの字をつけて『道』とよぶ」[P89]と言っています。


 つまり「道」というのは、あくまで仮称だ、ということです。語り得ないものですからね。


 どうですか?

 この理解に神秘主義的な匂いはありますか?

 ないでしょう?


 『老子』の「道」について、神秘主義的に理解するのはナンセンスだと、ぼくは常々思っています。


 さて、以上を踏まえまして、実際に『老子』本文を読んでみましょう。随分と理解がしやすくなったことと思います。


【世界でいう善とか美とかというものは、みな確かなものではなく、それにとらわれるのはまちがっている。まこと、有ると無いとは、たがいに有るが無いを、無いが有るを相手としてこそ生まれており、難しさと易しさとも、たがいに相手があってこそ成りたち、長いと短いとも、たがいに相手があることによってはっきりし、高いと低いとも、たがいに相手があることによって傾斜ができ・・・・・・(中略)・・・・・・それゆえ、「道」と一体になった聖人は、そうした世俗の価値観にとらわれて、あくせくとことさらなをするようなことのない「無為」の立場に身をおき、ことばや概念をふりまわして真実から遠ざかるようなことのない「不言」の教訓を実行するのである】[P19]


 繰り返しになりますが、言葉、あるいは概念というものは二項対立的に編成されています。

 男がいるから女がおり、女がいるから男がいる。

 ところが、たとえば、LGBTはどうなるんでしょうか?

 遺伝子(性染色体)のレベルで考えるなら、やれ「XY/XX」とかいう違いもでてきますが、その違いを絶対視してよいものでしょうか? 「XY」なら絶対に「男」なのでしょうか? これは「男」をどう定義するのか、といった問題に直結していきますね。


 じつは、人間は、言語的に、二項対立的に世界を分節することによって、世界理解を促進することができている反面、逆に二項対立に惑わされてしまっているところがあります。

 「男/女」と区分して理解することにより、いろいろなことがわかりやすくなったり、制度設計がしやすくなったりする反面、「男/女」の区分に固執するがゆえに、‘心は女で身体は男というのは、男か女かどっちだ?’とかいう混乱を生み、で、どっちのトイレに入ればよい?とかいう制度的混乱も招きます。


 さらに、前述したとおり、二項対立のうち、片方にプラスの価値が、片方にマイナスの価値が付与されていきます。


 たとえば、「富裕/貧乏」という二項対立があるとします。これに二項対立的価値が付与されますと、

 富裕=幸福=善

 貧乏=不幸=悪

 となったりします。

 ここから、‘お金持ちになることが幸せになることだ’とかいう観念も生じます。そして、そのような観念にとりつかれると、とにかく‘お金持ちになろう’とする欲望が生まれ、その欲望にとりつかれます。


 ことほどさように、人間は言葉という眼鏡を捨てられませんし、その眼鏡があるからこそ世界がよく見えているのですが、同時に、その眼鏡のせいで混乱してもいるのです。また、欲望も生まれます。というか、欲望が誘導されます、言葉(が生みだす価値基準)によって。

 これはジレンマです。


 もっと言うと、人間にとっての世界は、二項対立的価値体系の網の目をはっていく言葉(概念)がつくりだした幻影、極論するなら虚構としての側面があります。


 そうではない世界そのもの、虚構ではない世界の実相は、仮に「道」としか言えないものでした。


 そこで『老子』は、言葉の世界にとらわれすぎるな!(=「不言」)と釘を刺すのでした。


 ちなみに「無為」とは、ここでは、なにもしなこと、ではなく、’作為を加えないこと’、作為とは、具体的にいうと、二項対立的価値体系の網の目で世界を覆うこと、ですね。


 「道」とは、一つには認識論的批判とも言え、ぼくらに眼鏡マンであることの自覚を促すものです。

 なぜその自覚が必要なのかというと、その自覚がないと、言葉が生みだす二項対立的価値基準に幻惑されながら、それこそ「道」を踏み外すことになるから、ですね。

 たとえば、「男>女」という男性中心主義社会も、「道」の踏み外しです。

 世界の実相である「道」の世界は男性中心主義的にはできておりません。

 

 さて、もう少し踏み込んでみていきましょう。

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