唇チャック夫妻の終局

「来てよ」


 妻が夫に言った。接続を促された夫はそれに応じ、部屋中でほったらかしにされたレトルト商品のゴミを避けながら妻に近付いた。


 柄のないスウェット姿でしゃがみ込む妻の傍に座って、夫は妻のゴワゴワとした髪の毛を撫でた。その手は浮いた頬の骨を通って、妻の上唇をなぞった。


 妻の上唇は櫛のように細かく割れていた。酷く乱暴に裂いたので、未だに亀裂は動かすたびに深くなり、今やその内の何本かは上に向かって伸びていた。血はまるで火口付近のマグマのように赤く溶けたり黒く固まったりを亀裂の断面と溝の中で流動的に繰り返していた。 


 そしてその上唇は、漂ってくる強い肉の匂いを気にする素振りを全く見せない夫からの慈しみを受けても、全く笑顔に湾曲することはなかった。妻は寧ろ苛立って、


「そういうのいいから早くしようよ」


 と上唇の隙間から銀歯を尖らせた。


「うん。ごめん」

 

 と夫は全く怒らずに、しかし目を悲しみで溢れさせながら言った。


 夫は薬指に嵌めてある輪を抜いた。そしてその輪からは伸びている小さな鉤を、妻の上唇の端にぶら下がる肉片に差し込んだ。

 

 それはファスナーの滑車だった。血によって体と同化していたが、機能はまだ確かにそこで生きていた。


「早く」


「うん」


 夫は妻に顎を突き出すような格好で唇を近付けた。彼の下唇もまた、妻の要望により細やかに裂けていた。その間隔は先に裂いた妻の上唇と、ぴったり噛み合うように開けられていた。しかしそのデザインが能力を発揮していたのは、計画通りに口ピアスの穴を広げ終わってから数日の間だけだった。


 夫は自分の下唇と妻の上唇を添わせ、口の端を妻の滑車に嵌め込んだ。そして金具が肉に食い込むのを感じながら滑車を進め、互いの唇を噛み合わせ始めた。


 しかしその手は直ぐに止まった。二人の傷はすっかり膿んで、滑車を通過できない程肥大化していた。絞り出された体液が金具の光沢を丸くしてから、何滴も長い毛が散らばる床に落ちた。しばらく奮闘した後、夫は不格好な体勢のまま妻に言った。


「もう無理だよ」


「無理じゃない」


 妻は間を置かずに返した。幾度も繰り返されたやり取りが妻に相手の台詞を予言させていた。夫は自分を鋭く捉える妻の両目を顎の下に見止めたが、説得を辞めなかった。


「一回ちゃんとお金用意してメンテナンスしないと駄目だよ」


「嫌だ」


「このままだと繋がれなくなっちゃうよ?」


 妻は黙った。夫はそれが何よりも強い抵抗であることは重々承知していたが、夫は迫るタイムリミットに急かされて、妻の痩せた体を揺すった。


「頼むよ。お願いだから生活を立て直してさ、ずっと一緒に暮らせるように頑張ろうよ。ちょっとの間我慢するだけだから。俺浮気とか絶対しないから。信頼してもらえないなら、そうしてもらえるように努力するから。だから・・・」


 夫の声は痛みに負けて潰えた。鈍い音と共に、錆びた鋏に肉片の混じった重たい血が飛散した。


 夫が痛みに震えながら妻が無理やり走らせた滑車を引いても、金具はただ顔の皮

膚を僅かに揺らすだけだった。


「これでいいじゃん」


 夫の感情を押し退けて、妻は唇を湾曲させた。それは夫が久しぶりに見る妻の笑顔だった。

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