觜《くちばし》

鯨井イルカ

第1話 秋

 校舎を出ると、空は薄らとオレンジ色に染まっていた。

 随分と日が短くなったなと思いながら、左肩からずり落ちそうな鞄の位置を直す。それでも、いつもより重たい鞄は、位置を何度も直しても、うまく肩にかかってくれない。いっそのこと、教科書を机の中に戻しに行こうかとも思った。でも、教科書無しで中間試験の勉強をするのは、流石にこころもとない。


 そうは言っても、持ち帰ったところで、家で勉強ができるのかは定かではないのだけど。


 同級生が楽しげに会話をしながら去っていく中、私は小さくため息を吐いた。

 こういうときに、談笑をしながら下校できる友達がいれば、色々な重さについて気が紛れるのだろう。でも、そんな友達は、私にはいない。まあ、話し相手がいないだけでいじめがあるわけではないから、まだ幸せな方なのかもしれない。


 それに、これから帰らなければ行けない場所に比べれば、話し相手のいない教室の方がずっとマシだ。


 ……今更そんなことを考えていても、仕方がないか。

 私は再びため息を吐き、右手で鞄の取っ手をおさえながら歩き出した。

 通学路は大通りから少し離れ車の音も聞こえない、閑静な住宅地の中にある。帰りに寄り道をするところがない、と不平を漏らしている同級生達もいた。でも、私はこの静かな道が好きだった。

 聞こえる音といえば、葉が色づき始めた庭木の枝が風で揺れる音や、鳥のさえずり、虫の鳴き声、家々の台所から漏れる夕食の支度をする音。


 ここには、私にとって余計な音が何もない。


 こんな空間がずっと続けばいい。でも、あと十分も歩けば、家に着いてしまう。そう思うと、胃の辺りが締め付けられるように痛んだ。

 胃痛を堪えながら歩くうちに、家の近くまで辿り着いてしまった。

 ああ、また帰ってきてしまった、と落胆していると、不意に家の向かい側が目に入った。

 そこには、去年の冬までは、椿の生け垣に囲まれた一軒家が建っていた。でも、今年の春頃に取り壊され、今では有刺鉄線に囲まれ、雑草が生い茂る空き地になっている。

 住んでいた家族が、どんな事情でこの場所を去ったのかは分からない。でも、少しだけ、羨ましさを感じた。


 私の家も、こんな風に跡形もなくなってしまえばいいのに。

 まあ、外側がなくなったとしても、中身が変わらないのであれば、意味はないのだけど。


 そんなことを考えながら空き地を見つめていると、有刺鉄線の一部に何かの塊がついていることに気がついた。

 別に放っておいても構わないけど、少しでも家に入る時間を遅らせたい。そう思って、有刺鉄線に近づいてみることにした。


 近づいて確認すると、そこについていたのは、あお向けになった小さなヤモリだった。


 胸の辺りからは金属の棘が飛び出し、


 首、手足、尻尾はダラリと垂れ、


 辺りにはかすかに生臭い臭いが漂っている。


 それでも、まだ息はあるようだ。


 時折、手足がピクピクと動いているから。

 

 しばらく眺めているうちに、いつしかヤモリは動かなくなった。

 一体誰が、こんな残酷なことをしたのだろう?

 

 疑問に思っていると、頭上からキチキチという音が聞こえた。音のする方を見上げると、電線にとまった小鳥が目に入った。

 そういえば、鳥の中にはエサを枝なんかに突き刺して、保存食にする種類もいるんだっけ。だとすると、ヤモリはこの小鳥の夕食なんだろう。

 私は、鳥に向かって小声で、邪魔してごめんね、と告げ、重い足取りで家へと帰っていった。


 玄関の扉を開けると、途端に不愉快な音が耳に入った。まあ「滑稽」という意味でなら、愉快なのかもしれない。


 汚い金切り声で奏でられる調子の外れた歌。


 聞き続けているうちにある程度慣れたが、帰宅した直後に耳にするには不快すぎる。私は、深くため息を吐きながら、できるだけ静かに扉をしめた。すると、台所から母が足音を立てずにやってきた。


「おかえりなさい」


 騒音に紛れて、母の声は聞こえなかった。でも、唇の動きでそう言っていることが分かった。


「ただいま」


 私も、この騒音の中では聞こえないくらいの声で、そう伝えた。でも、母も分かってくれた様子で、微笑みながら小さく頷いた。

 それから、私は靴を脱ぎ、できる限り足音を立てずに、リビングへ向かった。そして、テーブルに教科書と問題集を広げて試験勉強を始める。でも、内容がサッパリ頭に入ってこない。

 二階から聴こえる騒音が原因だとは思うけど、そんなことを今更言っても仕方ない。

 ため息を吐いていると、リビングの扉が静かに開いた。現れたのは、マグカップを手にした母だった。母はマグカップをテーブルに置くと、申し訳なさそうに微笑んだ。


「いつも、我慢ばかりさせてごめんね」


 そう思っているなら、今すぐにこの雑音をどうにかして欲しい。

 そんな言葉が、口からこぼれそうになった。


「ううん。気にしないで」


 でも、なんとか堪えて、笑顔を返した。そうすると、母は安心したように微笑んだ。そして、ありがとう、と呟いて、リビングを出ていった。

 母は私よりもずっと長い間この雑音を聞かされているのだから、責めたりしたら可哀想だ。


 それから、また試験勉強を続けているうちに、夕食の時間になった。私はテーブルの上の勉強道具を片付けて二人分の夕食を運び、母は一人分の夕食をお盆に乗せて二階に運ぶ。わざわざ運んでやらなくても良いのにと思うけど、あれと顔を合わせて食事をするよりはマシなのかもしれない。

 母が二階に上がると、雑音が一旦止んだ。でも、今度はわめき声と、ガシャンという音と、泣き出しそうな母の声が続けざまに聞こえてきた。


 雑音も嫌だけど、この一連の音が一番嫌いだ。

 

 鼻の奥にツンとした痛みを感じながら夕食を食べていると、リビングの扉が静かに開いた。そして、目と頬を赤くした母が現れる。


「警察に通報したら?」


 思わず、お節介な提案をしてしまった。すると、母は困ったように笑って首を横に振った。


「別に大怪我をしたわけじゃないから。それに、お兄ちゃんは今、自分の夢のために頑張ってるんだから、応援してあげなきゃ」


 母の答えに、私は、そう、とだけ返した。本人が納得してるのなら、きっと私が何を言っても無駄なのだろう。


 それから、夕食を終えて、お風呂に入り、二階の自分の部屋へ移動した。隣の部屋からはキーボードを叩く音と、ぶつぶつと何かを呟く音が漏れて来る。さっきよりはマシになったけど、雑音であることには変わりない。

 いつもなら無視して勉強をするけど、今日は何故かそんな気になれない。かと言って、雑音を無視して眠れるほど、眠たくもない。

 私はため息をついて、ベッドに横になった。眠たくなるまで、スマートフォンでもいじっていよう。


 隣の部屋から漏れる小さな雑音を聞き流しつつ、何気なく夕方に見た光景について調べてみた。

 鳥、エサ、串刺し。

 単語を細切れに入力すると、百舌モズ早贄はやにえというページが表示された。

 詳細を見ようとすると、隣の部屋から何かを叩く音が聞こえてきた。かなり大きな音がしたけど、またか、という感想しか湧かない。どうせこのあと、わめき声が聞こえてくるだけだから、気にせずに百舌についてのページを見ていよう。



「なんで、俺の動画ばっかり再生数が伸びないんだ!」



 百舌には秋頃になると、エサを木の枝に突き刺すのか。



「どいつもアイコンのイラストで、誤魔化してるだけじゃないか!」



 ふーん、何故こんな習性があるかは、分かってないんだ。



「どいつも見た目に騙されやがって!」



 一説には、早贄を多く作る百舌の方が、栄養を確保できて、綺麗な声で鳴くことができる、か。ヒトとは随分と勝手が違うんだな。



「歌唱力は俺の方がずっと上なのに!」



 肥え太るほど過剰な栄養を摂取しているのに、耳障りな音しか垂れ流せない。



「他の奴らと馴れ合えばいいってのか!?」



 お前になんかにすり寄って来られたら、迷惑だ。周囲に文句をつける暇があるなら、ボイストレーニングをするか、音声の編集技術でも身につければいいのに……



 いつの間にか、隣の部屋からの雑音に気を取られいた。でも、何を言っても無駄どころか、下手なことをすればこちらに危害が加わることは知っている。


 もう、無理やりにでも眠ってしまおう。

 

 私は布団に潜り込んで、硬く目を瞑った。すると、ドスドスという足音が一階から上がってきた。多分、父が帰ってきたのだろう。


「うるさい!近所迷惑だろ!」


 足音が止まると同時に、父の怒鳴り声が響いた。近所どころか、家の中でも迷惑を被っているんだけどね。


「仕方ないだろ!俺のことを正当に評価しない奴ばかりなんだから!」


 父の怒鳴り声に、兄が怒鳴り声を返す。それから、騒がしい口論が始まった。眠ってしまおうと思ったのに、迷惑な話だ。どうせ注意しても無駄なのだから、放っておけばいいのに。



「いい加減に、そんな馬鹿げた夢なんて捨てて、外に出て働け!」



 しばらく続いた怒鳴り合いは、父の言葉で一旦ピタリと止んだ。これで、ようやく静かになるのだろうか。



「父さんまで……俺をバカにするんだ……」

「おい……何を持っているんだ?ひとまず、落ち着け……」


 私の期待とは裏腹に、短いやり取りのあと、二人分の叫び声が聞こえた。


 多分、どちらかがどちらかに刺されたのだろう。

 異常すぎる事態だけど、うるさいという感想しか湧かなかった。いつかは、こういうことが起こるだろうとは思っていたから。


 刺されたのは、どちらなのだろう?

 そんなことが、少しだけ気になった。でも、騒音を垂れ流し続ける兄も嫌いだし、ずっと見て見ぬふりを続けていた父も嫌いだから、どちらでもいいか。


「何をしているの!?……ひっ!?」


 薄情なことを考えていると、母の声と短い悲鳴が聞こえた。


「お前らが……お前らが雑音ばっかり立てるから!」


 わめき声と重なるように、母の悲鳴が聞こえた。どうやら、刺されたのは父の方だったようだ。それで、今度は母が刺されたのだろう。

 悲鳴を聞いて、少しだけ、可哀想だと思った。でも、こうなるまで兄を甘やかしていたのは、母だ。

 

 だから、自業自得なのだろう。

 

 それにしても、雑音を垂れ流していた奴が、周りの生活音を雑音というのは、滑稽な話だ。そんなことを考えていると、部屋の扉がガチャリと音を立てて開いた。

 布団から顔を出すと、兄のブヨブヨとした巨体が目に入り、なんとも嫌な体臭が鼻をついた。


 酢と、古い脂と、垢が混じった臭い。

 今日はそれに、生臭さも混じっている。


 相変わらず、吐き気がする臭いだ。そんなことを思いながら、やけに冷静に兄を見つめた。

 手には、血のついたナイフを握り、血塗れのスウェットを着て、何故か泣き出しそうな表情を浮かべている。



「あーあ」


 正直、それ以外かけてやる言葉が浮かばなかった。

 私の声を聞いた兄は、何かを喚き散らしながら、ナイフを構えてこちらに向かってきた。歯垢と血膿の混ざった嫌な臭いがする。

 

 腹部に痛みを感じながら、おぼろげな意識でさっき読んだ百舌のページのことを考えた。

 三人も串刺しにしたのなら、少しはマシに歌えるようになるのだろうか?

 ……まあ、そんなことは、もうどうでもいいか。


 わめき声も段々小さくなって来たし、これでようやく静かな場所に行けるのだろうから。

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