第9話 隠れ月

「澤井先輩、あれ…」


「わかってる、気にすんな」


 山本は尾関が遼に急接近しているのが気になって思わず朱音に話しかけた。


「でも、尾関先輩は狙った獲物は逃さないって言われてるくらいなんで心配で…手段を選ばない人ですし」


 確かに席まで代わってもらう程の念の入りようだ。

 朱音は3月に本社に転勤してきた上、シンガポールに出張することが多いのであまり尾関という人間を知らなかった。ミカが最も頼りにしてる営業一課のエース、という印象しかない。朱音が、


「…遼がなんでそんな人に狙われてんだよ…」と小さく呟いていると、


「ほら、他の男が話にいかないでしょ?尾関先輩に遠慮してるんです。それに、駅でミカさんから紹介されてたから、遼さんもどっか安心してる風だし…ちょっと気を付けた方が…」と山本は遠慮気味に言った。


(なんでミカさん…オレをあおってる、ってわけじゃなさそうだよな…)


「ありがとうな、山本」


 朱音は平静を装おって山本に言ったが、もちろん山本には強がりだとわかっていたので心配そうに山本は自分の座席に戻った。


(嫌な予感がするな)


 トイレに行くふりで尾関のそばの通路を通ると、2人が楽しそうに話をしている。あの遼が初対面でこれだけリラックスするということは、よっぽど尾関の話が上手いのだろう。朱音は身体の奥から真っ黒でザワザワしたものが溢れそうになるのを抑え込んだ。

 遼は朱音に気が付いて控えめに目線を寄こしたが、朱音は尾関に変に感づかれるのも嫌だったので「おう」と声をかけて手を大げさにあげた。尾関は朱音に気が付いて、


「おう、澤井。そっか、山田さんと一緒に幹事の手伝いしてるんだな、お疲れさん。旅行もちゃんと楽しめよ」とさわやかに後輩をねぎらった。


 少し離れたシートで江上と堀は隣同士でもたれ合いながら寝ていた。よっぽど疲れたのだろう、子猫のようにぴたりとくっついて寝ている。

 寝顔が二人共可愛いので、通りがかる女性社員が『眼福眼福~』と言いながら携帯で写真を撮って猫耳をつけたりして加工して遊んでいる。朱音に見せてくれたが、なかなか可愛い。

 勝手に撮られたと知ったら江上は後で怒るだろう。堀には悪いけど、腹いせに『ザマーミロ』と心で毒づいた。

 そういう朱音も、今が近づくチャンスとばかりに女子社員がお菓子などを持って寄ってくるので気疲れしていた。


(下手に仲良く話してたりなんかしてたら、遼が気を使ってよそよそしくなりそうだもんな…あいつなら身を引くくらいやりかねん…)


 なんだか波乱含みの社員旅行の始まりだった。



 甲府の駅に昼前に到着し、手配した2台の観光バスで移動する。


「俺は山田さんの隣」と言って、ちゃっかり尾関は遼の隣の席に座った。


「あー、遼さんの隣に座りたかったのに!」と全く怖いものなしの江上が尾関に文句を言いながら遼の前の席で先輩を睨んだ。堀は大先輩の尾関にビビッていて「まあまあ」となだめている。その前に山本と朱音が座った。


「悪いな、早い者勝ちだ。お、山田さんといっつも一緒にいる総務のアイドルじゃないか。よろしくな」と尾関は気さくに江上に言ったが、


「遼さんは僕だけのアイドルなんで、あまり近寄らないでもらえます?」と挑戦的に言い放った。


(おいおい、大先輩にもいつもの江上ぶしか…やるな…)


 朱音が少し見直していると、


「じゃあ、この旅行でどっちが山田さんのお目に適うか、勝負しようぜ」と尾関が言い出した。


(なんだそれ…どんな少年漫画だよ?!意味がわからん…)


 朱音が尾関の提案にイラついていると、


「いいでしょう、受けて立ちます。勝った方が、旅行から帰ってからデート出来る、負けたら諦める、ってことでいいですか?」と江上が受けて立った。


(まじか、受けるのかよ?っていうか、遼が了解してねーし)


 朱音が気になって覗くと、遼は笑っている。遊びだと思っているようだ。


(っていうか、今日知り合ったばかりの尾関にあんな笑顔を見せるなんて…遼、まさかとは思うが、結構気に入ってるのか…)


 朱音が心配で青くなっていると、


「なんだか面白いことになってるじゃないか。よし、私が今夜公正に審判をしてやろうっ。勝負だっ!」とビールで酔った営業一課のメンバーに囲まれたミカが一番酔っぱらって面白がって騒ぎ始めた。


(おいおい、社長のくせにおっさんみたいだな!)


「じゃあ、武田神社か昇仙峡、どっちを一緒にまわるか選べ」とミカが言うと、


「面白そ、どっちが勝つか賭けようぜ。俺尾関さん」「俺大穴の江上」「やっぱエースでしょ」と賭けが始まった。


「偏るな…おい、お前ら江上に賭けろよ」と堀と山本と朱音が営業のメンバーから江上に賭けるか聞かれている。


「失礼だな」


 ぷいっと江上が膨れると、何人かの女性社員が「きゃー、江上君、怒ってるのもカワイイッ!」と騒いでいる。

 この旅行でますます江上の人気が高くなりそうだった。



(なんだか皆が酔って浮かれてワイワイしてる…これが社員旅行というものか…)


 初めての社員旅行の感慨にふける遼がビールを少しだけ飲みながら前を見ると、ちゃっかり会長夫婦もバスに乗り込んでいるのが見えた。酔っぱらった社員たちはそんなこと誰も思ってもない。

 思わず笑うと、振り向いていた朱音と目が合った。遼が目で、前の方を合図したが、全く気が付かない。


(朱音の様子がちょっと…変?いや、みっちゃんが近くにいる時しか側に来ないから、私たちの事がバレないよう気を使ってくれてるんだ…)


「誰見てるの?ああ」と尾関が遼にくっついて前の方にいる会長夫妻を見た。朱音の顔が少し歪んですぐに前を向く。


「ええ、みんな気が付かないものですね」


「食堂では割烹着だしね」と言ってニヤッとした。


「え…」


(この人ミカさんが社長で給食のおばさんが会長って知ってる…)


「ふふふ、山田さんもこの会社の秘密を知ってるんだ。思った通り、ミカさんに信用されてるんだね」


「な、なんの…」と遼はとぼけようとしたが、


「隠さなくていいよ、俺も知ってる。この会社でそれを知ってるのは数名。つまり、社長に選ばれている人、ってこと」ととても大事な秘密を打ちあけるように遼に耳打ちした。


「選ぶ…どういうことですか?」


「それは、俺と付き合ってくれたら教えてあげる」と抜け目ない様子で言った。


「じゃあいいです。ミカさんと同じ部屋なので今夜直接聞きますから」


「ちぇ、冷たい。でもそうだよね、二人は仲良さそうだし」


「仲良く…はないですが、ユカさんとミカさんの事は信用してます」


「そうなんだ。じゃあ俺も入れてよ、その輪の中に。あいつも入ってるんでしょ?」と遼の耳元でささやいた。


「あいつ…?」


(まさか、朱音のこと…?本当の事を言っていいのか?)


 遼が迷っていると、「江上だよ。誰だと思った?」と意地悪い顔で言った。

 この人は朱音と自分の事を知っててわざと言っている、と遼は確信した。




 甲府駅からバスで10分、武田神社に到着した。江上は尾関に対抗するように遼を連れてさっさとバスから降りた。

 ここ武田神社は武田信玄公を御祭神としてお祀りしており、武田信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住した場所でもある。


「さ、僕とお城跡を一緒に回りましょう。武田神社、一度来てみたかったんだ!それも遼さんと回れるなんてぼかぁ幸せだなぁ」といつもより目を輝かせていると、


「やあね、江上君、加山雄三みたいなこと言って」と笑われて、江上はユカが後ろにいることに気が付いた。


「食堂のおば…いや、会長!社員旅行に参加できたんですねぇ」と嬉しそうに江上は答えた。


「誘ってくれてありがとう。おばちゃんかユカさんでいいわよ、いつものように」とユカが優しく言った。孫を見る祖母の顔だ。


 朱音が会長夫妻と江上が一緒にいるのを見つけて急いで寄ってきた。江上がいらないことを言ってないか心配している。


「お疲れ様です」


「お疲れ様、相変わらず澤井君は固いな。実はね、私が御朱印を集めてるから夫婦で参加させてもらってる。ここのはカッコいい切り絵で有名なんだよ。そういえば澤井君がここを提案したんだってね、やはり見どころあるな」とユカの夫が褒めた。


「いえ…そんな」と朱音は恥ずかしそうにしていると、

「若いくせに趣味がじじむさい、ってことですね」と江上がぼそりと嫌味を言った。朱音はいつもの調子で、


「おまえだってここに投票したじゃねーか」と言い返している。


「こらこら、会長夫妻の前で…。すいません、騒々しくて」と遼が代わりに謝った。


「いいですよ、若いんだからうるさいくらいでないと」


「いや、こいつはうるさすぎですって」と朱音が江上に向かって言った。


「そんなことないよ。山田さんも澤井くんももっと弾けないとねえ」「そうそう」と夫婦で言い合っている。


「は、弾け…?」と言って、二人は顔を見合わせた。



 江上は遼と朱音、会長夫妻を連れて広い武田神社を回った。日本百名城の一つではあるが、ここには城が立っていたことはなく、武田家の館があった。城を建てることによる領民の負担を考えて建てなかったと言われている。今でも地元で愛されるだけあって暖かい逸話が多く残る。


「ここ武田神社は日本人なら誰もが知ってる武田信玄公が御祭神です。戦国時代きっての名将っすね。この神社の背後に控える要害山城ようがいやまじょうに誕生し、信州駒場で53歳の生涯を終えますが、21歳の時に国主となって以来30年余、諸戦に連戦連勝を重ねつつも領国の経営に心血を注ぐ中、特に治水工事、農業・商業の隆興に力を入れ、領民にも深く愛されたってぇ話です。有名なのは『人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり』 って言葉すね」


「ほう、武田信玄の強さは『人』だった、ってことだね。情けは味方、仇は敵なりか…ユカさん、ちゃんと聞いて経営に役立てないと。しかし本当に江上君は歴史が好きなんだね、若いのに空でそこまで説明できる人はいないよ…」とユカの夫が褒めたので、江上は照れて俯いた。


「いえ、好きなんで…」


「おー、江上が照れてる!レアだな、レア!」と朱音が嬉しそうにからかった。


「こらこら、みっちゃんをいじめないで」


 遼が朱音をたしなめると、


「なんでだよ、いつもオレがやられっぱなしで可哀想だと思わないのかよ」と文句を言った。


「朱音はみっちゃんより大分年上でしょ?私達が小学6年生の時みっちゃんは2年生なんだから!」


「もう大人だからかんけーねーだろ?!」


 朱音と遼がもめていると、


「何言ッてるの、山田さん。そこは『私が慰めてあげるから我慢して』って言わなきゃ」とユカが笑って言ったので2人が固まった。ユカの夫はウンウンと頷いているので、会長夫婦の仲良し具合が伝わってくる。


「え…?」「へ…?」


「2人は付き合ってるんでしょ?別に隠さなくても…」とユカがニコニコして言った。


「会社では内緒にしたいので」と遼が赤くなって返事するのを、朱音は複雑な表情で見ていた。

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