第7話 解月

 教えてもらった駅前の『theory』でスーツを3着とインナーを3着買い、近くの靴屋でパンプスを2足(1足は雨用)買った。


 遼は全くどれとどれを組み合わせたらいいのかわからなかったが、朱音がささっと持ってきたテーラードジャケットスーツのベージュと黒と紺を試着してすぐに決まった。インナーは無難に白のシャツ2枚とカットソーだ。

 マニッシュなジャケットとパンツに遼の綺麗な前髪のない長い髪とほっそりした身体が合わさって、男装しているような倒錯感がいい。出来たらパンプスじゃなくて革の紐靴がいいが、そこまでするとミカに何を言われるかわからないので朱音は断念した。


「うん、似合うな」と朱音は満面の笑みで言ってから、不思議そうな視線を遼から向けられて赤くなって眼を逸らした。


「おい、支払いしてくるから、着替えとけよ」


(ヤバい、オレにやけてる…遼に自分好みのスーツを着せて興奮するなんて、病気じゃねーか、勘弁してよ)


 朱音は出来るだけポーカーフェイスを保ちながらレジを済ませたが、どう見ても抑えきれていなかった。



 結構な荷物になったので、遼の家に寄って置きに行くことにした。


「ここが家なのでもう大丈夫です、先に帰っててください」と言う遼を朱音は軽く押しのけ、荷物を両手に抱えた二人は門の前でタクシーから降りた。


 遼の家は普通の間口に対して奥行きがどこまであるのかわからないくらい細長い土地だ。木製の風流な数寄屋門の向こうには古風な日本家屋が土地に合わせて縦長に建てられている。

 和風の庭には築山つきやまと呼ばれる土を積み上げた小高い山やから池もしつらえてあり、台杉だいすぎ・赤松・五葉松・侘助椿・クロガネモチ・ソヨゴ・豆桜まめざくら・マユミ・サルスベリ・サンシュユ・ハクモクレンなどが植えられている。矮性椿の根締めやシャガなどの下草も種類が多く、多種類の樹木で作った生垣である混ぜ垣まぜがきもあるので手入れする庭職人が大変なのだ。



 朱音が彼女の家に来るのは2回目だ。1回目は、メールで別れを告げられた日の夜だった。




 なぜだか同期の遼のことが最初から気になっていた。性格も学部も違うが大学が同じで、自分が自分が、というとこがなかった。

 でも一番彼が気に入っていたのは、一緒にいる時に心から安心できることだった。それは遼に嘘がないからだ。 

 時間をかけて友達からなんとか恋人にしてもらった。でも彼女は軽い対人恐怖症で孤立しがちだったから、付き合っているうちに朱音がだんだん彼女に対して横柄になっていった部分も否定できない。それが振られた要因なのかも、と思っていた。


「遅くなると困る、もう帰る」と恥ずかしそうにうつむくまっさらな遼が愛しくて、何度も重なった初めての夜。どうしても自分の部屋から帰したくなくて意地悪してしまい、帰宅は十時を過ぎていた。

 タクシーで送ると、門の前に怒り心頭の若い男性が立っていて、彼女をさらうように連れていき、挨拶をする間もなく戸を思い切り目前で閉められた。彼女は申し訳なさそうに頭を下げ、小さく手を振った。

 朱音は浮かれて手を振り返したが、その夜遅くに彼女からメールがきた。


『別れて欲しい』


 セックスに問題があったのか、家族に嫌われたのか、それとも性格?

 色々考えてみたが直接話がしたかった。でもかけると着信拒否になっていた。ショックだった。


 そしてきっぱり忘れることに決めた。それ以上傷つきたくなかったのだ。

 遼は意味もなく別れを切り出すような人間ではない。何か正当な理由があるはずで、真っ直ぐな彼女が決めたなら考えを変えることはないだろう、そう朱音は思った。いや、思いたかった。会って厳しいことを言われて深く傷つくのが怖かったのだ。



 遼も朱音が来た夜を思い出していたのだろう、苦い表情を浮かべていた。朱音はそんな重い空気を払うように、


「広い家だな。ご両親は商売でもしてるのか?」と明るい声をわざとらしく出した。


「父は身体が弱かったので、家でお習字やお茶、お花を教えてました。母は保育園で保母を」


「へぇ、遼はお嬢様なんだ、知らなかった!お父さんが家にいるなら挨拶しないとな」


「いえ、あの…実はもう両親は亡くなってますので」


「え…」

 

 朱音の、しまった、という表情を見て遼は申し訳ない気持ちになった。出来るならそんな顔をさせたくなかったから、付き合っている時は内緒にしていた。


 そしてそれは朱音も一緒だった。半年以上も付き合っていたのに彼女の事を何も知らなかった。彼女に夢中だと思っていたが、本当は自分はどうだったんだろう?自分の事ばかり考えていたんじゃないだろうか…と自問自答した。


「ずいぶん前に亡くなっているので気にしないで下さい。さ、中に荷物を置いて会社に戻りましょう。ミカさんとうちの課長がやきもきしてます」と遼はひきつった顔をみせた。


 失言で静かになった朱音を遼は案内した。門から中に入り、庭を通って南向きの明るい玄関で鍵を開けた。玄関横にある大きな広口の信楽の壺に傘が収納されていて、亡くなった両親の趣味の良さが伺える。

 玄関の低くて横に長いどっしりとした重量級の靴箱の上には背は30センチほどの丸いフォルムの素朴な花瓶だけが乗せられており、今が盛りのハクモクレンの花枝が生けられている。遼は生前の父の生け花を思い出しながら、今も庭の木を伐採しては投げ入れていた。


「うわっ、玄関広っ!遼の部屋は2階?運んでやるよ、大変だろ?」と朱音は驚きを隠さず言った。玄関の化粧土間だけでも5畳程ある。


 そうね、重いし…と言いかけて遼は青くなった。


 昨夜例の資料を出して机に置いたままだ。それに、あの身分不相応にハイスペックなパソコンを見たら朱音は何か勘づくかもしれない。


「ダメです、今は…部屋が汚いから、えーと、リビングに置いてくれますか?すいません」


「…わかった。上がるぞ」


 彼女が差し出したスリッパをはく。

 陽当たりもいいし縁側があって、とても落ち着く家だった。まるで遼みたいだな、とニヤニヤしながら運ぶと、


「ありがとうございました。お茶、入れますので、座って下さい」とリビングのソファに案内された。遼が慣れた様子でキッチンのガスでお湯をわかす。


(なんだろう、この感じ…やっぱり遼といると落ち着く)


 朱音が実感していると、玄関の引き戸がガラリと開いて、男性が入ってきた。同い年くらいだろうか、スーツを着ているので仕事場から忘れ物を取りにきたようだ。


 あまり似てないけど、弟かな、と朱音が頭を軽く下げる。


「ただいま。誰?」


「ああ、忠、おかえりなさい。どうしたの、忘れ物?お茶を飲む時間くらいはあるんでしょ?」と遼がいそいそ嬉しそうにして玄関に向かう。それを見て少しイラっとする自分を朱音は感じた。


(…オレにあんな笑顔見せたことない。付き合ってる時もだ)


「誰だよ?」とその男はまた遼に聞いた。


「会社の人。ちょっと色々あって、荷物を運んでもらったの。一人じゃ持てなくて」


「なんだよ、それなら俺を呼べよ。に迷惑かけるなよ」と朱音をちらりとにらんで言った。


(な、なんて過保護な弟だ…それに『他人』と強調してオレをけん制してやがる)


 朱音は弟の敵意に少しビビりながらもやり取りを聞いていた。


「そうね、ごめんなさい。でもあなただって仕事でしょ?」


「いいんだよ、俺に頼れって」


「わかった、これから甘えるから。さ、お茶、入れるね」と遼は部屋に充満する殺伐とした空気に全く気がつかず、ご機嫌でキッチンでお茶を淹れて持ってきた。


 もちろん朱音と忠は一言も話さない。お互い敵意が剥き出しだった。

 朱音は『旦那でもないくせに遼に対してえらっそうでムカつくな』と思っていたし、忠は『家族のいない時に上がり込んで遼になにかしようと企んでたんじゃねーか』と疑っていた。


「この方は同期の澤井さん。シンガポールにいたんだけど、最近本社に帰ってきたの。お茶のんだら二人とも会社に帰るから、忠もお仕事頑張ってね。今夜も遅いの?ご飯いるなら作っておくから言ってね」と言いながら、煎れたてのほうじ茶を出した。


「さわい…」

 

 忠の顔色が急に赤黒くなる。反応がおかしい、と朱音は直感した。よく見ると、初めてここに来た夜に家の前で遼の帰りを待っていた男のようでもある。


(まさか…)


 朱音は遼がお手洗いに行った隙に「メールのことなんだけど…」とカマをかけてみた。



「俺が悪かったんです、本当にすいません」と態度を改めた忠はすぐに朱音に頭を深く下げた。素直で真っ直ぐなところは姉とそっくりで、彼に対する反感はもうなかった。


「なんでそんなことを?」


「…俺、小さなころから姉に憧れてました。だから、あの夜に明らかに澤井さんと何かあった様子の姉を見て頭がおかしくなってしまって…お風呂に入ってる姉の携帯から澤井さんに別れたいってメールを送って、着信拒否にしました。もちろん姉はそれを知りません」


 朱音は謎がぼろぼろ崩落していくのを感じた。そして、今まで自分が何をやっていたんだろうと激しく後悔した。ちゃんと会って話せばよかった事だった。つまりは弱い自分のせいだった。でも、もう一つ謎があった。


「じゃあ、どうやってオレからのメールを遼に送ったんだ?」


「俺の携帯の差出人を澤井に変えて、『彼女ができたから別れて欲しい』って送ったんです。まさか、本当にメールなんかで別れるとは思ってなかった。小さなイタズラのつもりだった。でも次の日から姉は落ち込んで、どんどん痩せていって…休日は引きこもるようになって…。俺すごく後悔しました。あなたにも、本当に申し訳なかったです、すいません」と朱音に躊躇ちゅうちょなく土下座した。


「ずいぶん前の事だし、もういいよ」と朱音が言うと、顔を上げた彼は涙ぐんでいたが表情がずいぶんスッキリしていた。きっと長い間自責の念で苦しんできたのだろう。

 そこに遼が「お待せしました」と言いながら戻ってきたが、リビングにいる忠の様子を目の当たりにして、


「朱音、弟に何したのっ?!泣いてるじゃない!」と顔色を変えて食ってかかった。彼女は、過保護な保護者に豹変ひょうへんしていた。


(おいおい、こっちが泣きたいよ)


 朱音は遼に言い訳する忠の言葉をぼんやり聴きながら、そう思った。




 帰りのタクシーのなかで「ごめんなさい、誤解して。でも何だったの?」と少し打ち解けた遼は朱音に聞いた。

 朱音は忠が可哀想だったので彼のイタズラメールで自分たち二人が別れてしまったことは言えなかった。どっちみちもう遼には恋人がいるのだから、誤解がとけても元には戻れないのだ。

 それに忠が遼の事を好きなことがわかってしまう。それは姉弟だし遼も困るだろう。でも腹いせに、


「お前の弟、すげー怖っ!昔からあんなにやきもち焼きだったのかよ?」と聞いてみた。


「うーん、両親が死んでからかな。私は貰いっ子だから、長男として、私を守らないと、って思ってるみたい。本当に優しいいい子なのよ」


「貰いっ子…?じゃあ血はつながってないのか?」


(ってことは、あの男はよっぽど我慢してるんじゃねーか?)


 朱音は彼が可哀想過ぎて同情した。基本彼はお人好しなのだ。


「当たり前でしょ?バカなの?」と呆れ顔の遼を見ると安心する。貰いっ子、というのも衝撃だったが、彼女の家族の事を初めて話してくれたので嬉しくなっていた。


「敬語、止めてくれたんだ。許してくれたと思っていいのか?」


「朱音はいいやつだ、ってあの忠が言うから。でも、約束して。九州の件は…」


「わかってる。でも、危ない時や相談したい時は連絡してこいよ、わかったな?番号覚えてるか?携帯鳴らしてやるから、番号言えよ」と番号をなんとなくでゲットしようとしたが、


「ああ、090……でしょ?覚えてる」とあっさり言われてしまった。


「ああ、そう…」


 そういえば遼の知能指数は異常値と言われるくらい高く、大学でも評判になっていた。学内テストでそれ以上測れないという最高値を記録したからだ。確かIQ145だったか。

 とりあえず仲直りができたからいい、と朱音は思うことにした。

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