第三節(後)

 朝陽が、厚いカーテンの隙間から静かに差し込んでいた。


 ここの朝は、村よりも少し寒い。ふわふわの羽布団に埋もれるようにして眠っていたアーシェは、その上に出していた左手だけがひんやり冷えてしまった事に気付いて少し眉をしかめた。


 起き上がって、辺りを見回す。与えられた部屋はあの、廊下に並んでいたドアのうちひとつで、一番奥にあったものだった。この街に連れられて来てから、というもの、豪奢と贅沢が溢れ過ぎてちょっと感覚が麻痺しそうになってしまっている。


 やわらかな白と、淡い桃色のカーテンが降りた天蓋付きのベッドは、丘の上の小さなアーシェの家、その寝室と同じくらいの大きさだった。ベッドだけでこれだ。いい加減、溜息も尽きようというものである。


 アーシェはそっと起き上がった。だけど、どんな場所に居ても、自分は自分だ。


 ベッドを降りたその時、コン、コン、と軽いノックの音が聞こえて来た。誰だろう。エルゥかな。そんなことを考えながらはい、と返す。

 すると、返ってきたのは女性の声だった。


「お支度に参りました。入っても宜しいでしょうか」

 ああ、そうか。淑女のドレスは、一人ではとても着られないものが多い。どうぞ、と声を掛けると、お仕着せの黒いドレスをまとった女性達がぞろぞろ部屋に入ってきた。


「おはようございます、お嬢様。お支度をお手伝いするよう申し付かりました。わたくし、当館のチェンバー・メイドでございます」


 先頭を歩いていた一人が、恭しく一礼する。アーシェは微笑んで、それに頷いた。


「おはようございます。お世話になります」

「これは勿体ないお言葉。ありがとうございます。お嬢様、本日のドレスはこちらのラベンダー色のもので宜しいでしょうか?」


 それは、昨日大急ぎで丈や身頃を調整して貰ったドレスの一着だった。見本として仕立屋が持っていたものを、アーシェの身体に合わせたものだ。

 普通、ドレスというものは全てオーダーメイドで仕立てられる。今日に間に合わせるには、仕立見本として既に仕上げられたものを買い取るしかなかった。


「お願いします」

「とても素敵なお色ですね。きっとよくお似合いになりますわ」


 では、お支度に掛からせて頂きます。そう言って彼女は、後ろに率いてきた五人の女性と共にアーシェの身支度を始めた。

 ベッドの上に、これから身に付けるものを並べていく。その間に顔を洗うと、すぐさま着付けが始まった。


 三枚ものペチコート、絹の下着にコルセット。腕まわりが動かしやすいように、と選んだドレスはレースやフリルの装飾が少ない代わりに、繊細な刺繍が施されている。


「お嬢様はお腰が細くていらっしゃいますね。これならコルセットもそれほどきつくせず済みそうです」

「助かります」


 何せアーシェは、コルセットなど人生で一度も付けたことがない。動きを制限するようなものは、一切省きたいのが本当のところだ。苦笑しつつ、次々に差し出される布を被り、後ろで締め、リボンで結び、着付けを終わらせていった。


 それから、椅子に座らされる。若い娘は、髪を半分だけ上げてもう半分は下ろすのだという。こまかに編み込まれていく髪を見ながら、化粧を受ける。


「お疲れさまでございました」


 やがて、全てが終わると仕事を終えたメイドたちは満足気にアーシェを見て微笑み、すぐに寝室を辞していった。


―――村を出てから、僅かに五日。


 たったそれだけしか経っていないというのに、自分は今、思いもしなかった服を着てここに立っている。めまぐるしい変化に心は追い付いてくれるだろうか。どこか現実味がなく、ふわふわしている。


 もっとも、ここから新しい生活が始まろうとしているのだ。今日はその、始めの日だった。少しぐらい浮き足立つのも、当然なのかも知れない。


 コン、コン、とまたノックの音がする。


「アーシェ、もう着替えた? 朝ご飯だよ」


 変わらない、気楽な調子のエルゥの声に、思わず笑みがこぼれた。彼だけは、出会いの時からずっと変わらない顔を見せてくれている。それが何とも心強かった。


「おはよう、エルゥ。もう終わりました」

「あ、良かった。じゃあ開けるよ」


 カチャ、とドアノブを回す音。そうして扉の影から顔を覗かせたエルゥは、一瞬目を瞠ったあと、それは眩しそうに目を細めて微笑んだ。


「ああ、やっぱり」




―――君は誰よりもきれいだ、アーシェ。




 すっきりとした細身に仕立てられたラベンダー色のドレスに、清楚な白のリボンで纏められた髪。

 その腰に、いっそ無骨なほどの実用的な皮の剣帯を巻き付け、白い鞘に包まれた細身の剣を下げる。そうして、背中をぴん、と伸ばして佇むアーシェを、朝のまばゆい光が輝くように照らしていた。


 エルゥが手を差し出す。


「朝食を取って一休みしたら、王都へ向かうよ」


 アーシェは今度こそためらいなくその手を取りながら、自分を新しい世界へ導こうとしているその青年に微笑みかけた。


「いよいよね」


 ありがとう、エルゥ。私をここまで連れてきてくれて。そんな気持ちを込めて言ってみるが、エルゥはゆるゆると首を横に振る。


「まだまだだよ。これでやっと、君は出発点に立つんだ」


 その口調は、まるで祈るように厳かだ。ひた、とアーシェの目を見据えて、エルゥは告げる。


「だから、行こう。アーシェ。ここから」

「―――はい」


 そうしてエルゥに手を引かれながら、アーシェは最初の一歩を踏み出す。

 二人を後押しするかのように、窓から差し込む光が、ドアへ向かう背中を鮮やかに照らしていた。




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