2000年3月19日

「ホント、クソ上司!」


 サキは珍しく殺気立って部屋に戻ってきた。


「何をいかってる?」


 ベッドにブレザーを投げつけると、サキは甘えた声で俺に抱きついてきた。おそらく「休暇申請」を断られたのだろう。


 先日スーパーで買い物をしている時のことだった。


「…リュウがこっちにいる間にどこか旅行に行きたいな」


 サキは俺に腕を巻き付きながらボソボソとつぶやいた。サキのシフトは変則的で、週休2日は約束されているものの基本的に連続では休めない。


「頑張って3日かもしれないけど一応上司に相談してみるよ。ゴールドコーストにも行ってみたいし、リュウがいたパースもいいな」


 ただ、日本の春休み期間中に当たるこの時期、私的な事情での急な休みなど許可してもらえるだろうか。ロゼワインとキロ売りのマスカットを入れるとレジに向かった。サキはレジ横に積まれていたコンドームの箱も放り込むと俺の小脇を突いた。

 ところが案の定、上司はまともに取り合ってくれなかったらしい。


「クソ上司のせいでリュウとのハネムーンを壊された!」


 サキはほとんど泣いていたが、別にハネムーンというほどの旅行ではない。それでも来週2日間の連休を認めてもらえたことを考えれば、少しはそのもほめてあげるべきだ。


「――とりあえず着替えて横になりなよ」


 ヒールを脱いでベッドにうつぶせになると、サキは「ゴメンね」と繰り返しながら目を閉じた。袖をまくり、いつものようにふくらはぎからマッサージを始めた。



 …だらしなく伸びたピンク色のゴムをかざしながらサキはつぶやいた。


「リュウってテクニシャンだよね。誰に教わったの?」


 俺は額の汗をぬぐいながら嫌な表情を返した。サキのこういうデリカシーのなさに辟易する。平気で元カレとの話を始め、その比較において俺を褒めたりする。


「だって中でイッたことなんて、」


 言いかけたその唇を少し力を込めてギュッとした。


「俺をテクニシャンにした女との話を聞きたいか?」


 ところが、サキは案外本気で抗議してきた。


「どうしてリュウは都合のいい部分だけ切り取ろうとするの?そんなのおかしいよ!」


 おかしなものか。”元カノより胸が大きい”と言われて喜ぶ女がどこにいるというのだ。

 時々サキの正義が理解できない。恋人の前でかつて通り過ぎた色恋を語らないなど当然のエチケットではないか。休暇についてもそうだ。上司を呼ばわりしようと、急に自己都合で連休を申請するほうに問題がある。


「…やっぱりリュウが中国のカノジョと一緒にいるところを想像してたら悲しくなっちゃった。ムキになって言い返してゴメン」


 サキにしては珍しく素直に謝ったほうだ。


「――とりあえずワイン飲みながら来週どこに行くか考えるか」


 体を起こすと無理やり話題を変えた。サキは喜んでベッドから跳ね起きると、下着も履かずテーブルの上を片付け始めた。

 まったくどういう育てられ方をされてきたのか――。野生児とたしなめたのも1度や2度ではない。冷蔵庫からキンキンに冷えたボトルを取り出すと音もなくサキに近づき、いきなり彼女の白いお尻にボトルを押し当てた。サキは廊下まで聞こえる悲鳴を上げた。


 

「――新宿のタイ料理屋でのことを覚えているか?」


 サキはトロンとした目で首だけこちらに向けた。結局その後サキがほとんど一人で飲み、今まさに自滅しかけている。


「あの時、俺の返事次第でもっと早く付き合っていたかな?」


 サキはしばらくこめかみを揉んでいたが、やがて独り言のようにつぶやいた。


「ないない。あり得ない。だってリュウはバカだもん」


 舌打ちをして横を向いた俺に、サキはさらに喰ってかかった。


「っていうかアタシが東京に出てきた時点でフツー気付くよね?だけどリュウはアタシとの距離を保とうとした。やっぱりアタシが元ススキノのキャバ嬢だったから?」


 彼女のについて何か思ったことはない。そういうことではなく、あくまでも「友達の一人」としてしか見ていなかったからだ。それに俺自身もまだ過去と決着しきれていなかったこともあり、期待をもたせるようなことは謹んでいたにすぎない。


「知らないよそっちの事情なんて!気付けないことも罪なんだからね!」


 突然サキはそう叩きつけると、バスタオルをつかんでシャワー室に消えていった。

 乱暴に閉められたドアをしばらく眺めながら、改めて自分の不器用さを申し訳なく思った。不器用でいえば、サキも姿勢を正して「お付き合いしてください」などと言えるような性格ではない。とうとうベッドでじゃれ合っている流れで関係に至ってしまったが、そもそもサキはそういうやり方でしか気持ちを伝えられないのだ。確かにサキの正義は一方的すぎるところがある。しかしたとえ間違っていたとしても、もっと早く世界でたった一人の味方になって寄り添うべきだった。

 新宿のタイ料理屋にしても、決断できない自分を酔っ払ったサキのせいにし、彼女なりの渾身の一撃を冷徹に撥ねつけてしまった。


「そりゃたしかにリュウのバーカ!だな…」


 シャツを脱いでシャワー室のサキを追った。

 サキは熱いシャワーに打たれながら顔を覆って嗚咽を漏らしていた。俺はその背中をやさしく抱きしめながら「今までゴメンな」と繰り返した。サキは「リュウはホントバカだよ」と泣きじゃくりながら、細い体をいつまでも俺に預けていた。

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