2000年3月3日

 コッテスロー・ビーチの白い砂浜の上に寝そべっている。

 起き上がって読んでいたA4紙を折りたたむと、だいぶぬるくなったミネラルウォーターを飲み干した。

 パースとフリーマントルの中間に位置するこの人気ビーチは、平日の昼間ということもあって家族連れが数組遊んでいるだけだった。透明度の高い水色がキラキラと反射し、遠く青いインド洋がどこまでも続いていた。


<――無事に東京に戻りましたが、いきなり風邪を引いてしまいました(汗)>


 アヤコからのメールは、彼女らしいクスッとしてしまう書き出しだった。日本に着いたらすぐに連絡するねと言っていたが、帰国して一気に疲れが出たのか数日間高熱で寝込んでいたらしい。


<空港であなたを見た瞬間、なんだか迷子になっていたところを見つけてもらったような気持ちになってまた泣いてしまいました(笑)。パースでの半年間はわたしにとって大冒険でした(いっぱい褒めて~)。たくさんありがとう!たまにはわたしのことも思い出してくれたら嬉しいです!>


 お体に気を付けてというありきたり言葉で締めくくられていた。文面はそれがすべて。あまりにもそっけないご挨拶だったが、わざわざ印刷してビーチに持ってきたのは、落ち着いて行間を読みたかったからだ。

 間違いなくこれはアヤコなりの「さよなら」だ。おそらく元々は長文だったのだろう。削って、削って、最終的に10行にも満たない短いメールになってしまった。そんな気配がかすかに残っている。


 出国ロビーを汗だくで駆けてきた俺とジョニーを見つけた時、やはりアヤコは泣いた。それについて、”迷子になっていたところを見つけてもらったような気持ちになった”とあったが、おそらくその表現は俺とアヤコの間にあったものを率直に表している。俺はパースで迷子になっていた彼女を見つけた「保護者」だったのだろう。”恋人”と呼び合う以外に適当な言葉が見当たらなかったが、本質的に俺は外国で迷子になっていたアヤコの手を取り、帰るべき場所まで送り届けるだけの役割だったのかもしれない。

 だから”別れよう”ではなく、「ありがとう」だったということか――。

 もう少し言葉を引き出したい気持ちはあるが、この数行に対する返信はやめておこう。折りたたんだコピー用紙をビーチのゴミ箱に捨てると、アヤコの真似をしてペロッと舌を出した。



「――まぁ、ひと言では言い表せないほど色々あったよねぇ」


 ジョニーはふたりの会議室になっていたナンシー邸のキッチンで、いつものように死ぬほどマズいコーヒーを飲んでいた。この狭いキッチンを挟んでジョニーと色々なことを話してきたが、それも今夜で最後だ。


「ナンシーは深海魚とデートに出かけたけど、カニのチリソース炒めを作っていったよ。温めなおして食べよう」


 じゃあスパークリングでも買ってくるかと返すと、「ジョニー様がそんなことを忘れると思うかい?」とヤツは誇らしげな顔を向け、冷蔵庫を顎でしゃくった。

 カニのチリソース炒めの味付けに、少しだけナンシーを見直した。これまで料理をしているところなど見たことがない。しかし豆鼓醤とトマトソースがカニの甘みを絶妙に引き立てていた。

 ジョニーは舌打ちをしながらカニにしゃぶりついていた。バレンタインに他人の庭先から失敬したバラで負った傷にいまだにピリ辛ソースが沁みるらしい。


「あのババアめ!こんな食べづらいもの作りやがって!」


 しゃぶっていたカニの足を放り出すと、ジョニーは悪たれをついた。俺も面倒くさくなり、「あのババアのケツにコイツを突き刺してやるか!」と笑い出した。


「今だから言えるけど、2週間ぐらい前にパースに出かけたとき、たまたまキミとアヤコが手を繋いでいるのを見かけちゃったんだ。慌てて顔を隠したけどさすがにショックだったなぁ…」


 そういえば顔の前に大きなポテトチップスの袋を掲げた変なヤツをアヤコと歩いているときに見かけた気がする。マグカップに注いだスパークリングを一口含むと俺は苦い顔をした。


「でもオレは見間違えだと思い込むことにしたんだ。間違いなくあれは君たちだったけど、それを問いただしたりすればみんな傷つくってね。でもダメだった。結局君たちがロットネスト島での”セックス旅行”から帰ってきた次の日、学校でアヤコに聞いちゃったんだ。でもアヤコは賢かったよ。『付き合ってないよ』ってウソをついてくれた。結局アヤコとは友情どまりだったけれど、彼女は最後までオレとの友情を守ってくれたんだよなぁ」


 時に友情は、愛情よりも繊細だ。アヤコが言っていた「わたしやジョニーはあなたみたいに器用じゃないんだよ?」という意味がようやく理解できた。一番不器用だったのは俺だ。彼らの細かい気遣いに気付かず、問題を表面化させてしまった。


「――また日本人の女の子のことが好きになったら連絡するよ。キミに通訳をお願いしなきゃならないからねぇ」


 ジョニーはボトルに残っていたものを海賊用に瓶ごとあおった。


「まぁ通訳も必要かもしれないが、失恋したときには飲み友達が必要だからな」


 するとグビグビ飲んでいたものが気管に入ったのか、ヤツは突然豪快に口と鼻からスパークリングワインを噴き出した。


「フラれることが前提かよ!」


 ジョニーはピカチュウのTシャツを酒で豪快に汚しながら吠えた。

 まったく最後の最後まで芸の細かい男であった。

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