2000年2月18日

「――スティーブンが旧正月のことで謝りたいから今週末飲み行かないかって。どうする?」


 携帯電話を肩に挟んだまま中華麺を茹でていたジョニーがこちらに振り返った。せっかくだが週末は先約があるとそぞろに返したが、この完成度の低いウソは窮地を呼んだ。


「ちょうどみんなでコテスロビーチに行こうって話していたから合流すればいいんじゃない?」


 いいアイデアだな、と乗るフリをしながら頭をフル回転させる。


「でも一旦クラスメートのタイ人の家に集まってからとか言ってたから時間読めないな。それに例の一件はもういいからとスティーブンにも伝えておいてくれ」


 じゃあ自分から言ってよ、とジョニーは携帯電話を差し出した。見栄っ張りデブのだみ声など聞きたくもなかったがしぶしぶ受け取った。そもそも酒で起こしたトラブルの謝罪で”もう一度飲みに行こう”とはどういう正義なのか。「こちらも手荒な真似をしてすまなかった」と手短に済ませるとさっさと電話を切った。


 その後、ジョニーは少しずつ元の彼に戻りつつある。


「――さすがに学校でアヤコとすれ違う時気まずいけど、一応何事もなかったみたいにちゃんと挨拶してくれるからなぁ」


 それはよかったねと述べる俺の表情は固い。


「でもこういう傷ってなかなかふさがらないよなぁ。アヤコに好きな人がいたなんて全然知らなかった。やっぱり相手は日本人なんだろうなぁ」


 ジョニーはコーヒーをすすりながら窓の外を眺めた。まさかその憎き相手が目の前にいると知ったら、その日の夜はウイスキー1本では済まないだろう。


「――ねぇ週末会うタイ人たちの中によさそうな子がいたら紹介してくれるかなぁ?」


 二日酔いを迎え酒でごまかすようなものだが、「カワイイ子がいればな」とあいまいに請け負った。ところが話しは思わぬ方向へと転がっていった。


「そういえばキミにはタイ人の恋人がいるって言っていたよね?」


 その後エマからは何の連絡もない。ジョニーは俺とエマとの顛末を聞くと、まるで汚い雑巾でも見るかのような表情を向けてきた。


「ヤッたら別れ話を切り出されただって?それはキミが無理やりしたからじゃないの?」


 そうではないということを他人に理解してもらうことがこれほど大変だとは知らなかった。俺はエマとの出会いから人となりまで説明し、その上で「ちょっと借りるよ」とジョニーのノートパソコンを引き寄せた。


<――セックスをしてしまった以上もうわたしたちの恋愛に楽しみは残ってないとあなたは言いました。簡潔に言って、あなたは医者が必要なレベルのナルシストです。こんな終わり方をするなら出会わなければよかった。さようなら。あなたのことばかり考えていた頃が懐かしいです>


 ジョニーは10日前に俺がエマに送ったメールをわざわざ声に出して読みあげた。しばらく黙った後、彼は意外なことを言い出した。


「キミはまだ彼女に未練があるね。今のオレにはわかるんだ。あの後何回かアヤコにメールを送ったんだけど、今から読み返しても酷い内容だったよ。でも怒ったり不満をぶつけるのは相手からの反応が欲しいからなんだって」


 ジョニーにしては鋭い考察だ。

 エマはふたりの間で往復したエネルギーを「もう消費期限切れだ」と一方的に切り捨てた。理由は「だってあなたとセックスしてしまった」から。求めてきたのは彼女であって、決してそこに間違った手続きがあったわけではない。

 彼女はあまりにも説明が足りなかった。もし改善できることがあるならもう一度チャンスをと思っていたが、ありとあらゆるこちらからの問いかけに彼女から言葉が返ってくることはなかった。


「未練があったというのは間違いない。ただこれ以上傷つけられるのはゴメンなんだ。だからこのメールで区切りをつけた」


 送信ボタンを押してから1週間以上経ったが、エマは沈黙したままだ。そしてその間、著しく俺の状況は変わってしまった。

 どうかこのまま海の底に沈んでくれ。あなたを忘れられるチャンスなんだ。ふたたび浮上してきて俺を困らせないでくれ――。



「――ねぇ”アヤコさん”っていうのやめてよ。お互い名前で呼び合おうよ」


 昨日から学校行きのカバンの中に2人用のビニールシートが加わった。

 アヤコが持ってきた紅茶風味のビスケットをかじりながら、スワン川からあがってくる夏の風に目を閉じる。


「…じゃあアヤコって呼ぶね」


 恥ずかしいけど嬉しいなとアヤコは微笑む。

 2日前アヤコの唇を奪った後、彼女は目を潤ませながらと恐る恐る「これって”はい”ってこと?」とたずねてきた。オーストラリアにいる間に答えをくれればいいと言ってくれたにも関わらず、なぜ彼女を抱き寄せてしまったのか――。


「その後ジョニーとはどう?学校で気まずくない?」


 アヤコは俺に背中を預ける笑いながら首を振った。


「全然。学校で会ってもお互いあいさつもしないし、あの日以来メールも来なくなったし」


 揺れる髪の隙間から、西オーストラリアの大きな夕陽がキラキラと透けて見えた。

 なぜ嘘をつくのか。ジョニーは彼女に対する未練がましい泣き言を何度か送ったと言っていた。学校でのあいさつも聞いていた話と違う。


「――キスしていい?」


 そのままアヤコは俺の頬を優しく包み込んで引き寄せた。やわらかくそれを受け止めつつ、心の中で起こった波紋をそのまま飲み込んだ。

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