2000年2月10日

 マーガレット先生がいうほどノースブリッジは危ない場所じゃなかったという俺の感想が独り歩きしている。


「――あれはただのチャイナタウンだ。君たちも自分の目で確かめてくればいい」


 くどいようだがノースブリッジはただの商業地域である。それも今まで世界のあちこちで見てきたどのチャイナタウンよりも控え目で、バーやパブは数軒あるものの性的サービスを謳う看板などどこにも見当たらない。にもかかわらず、ヤミーやスー・ジーなど女性陣からは「遺憾の極み」と最大級の批判を浴びせられている理由は、”擁護者の柄の悪さ”に尽きる。


「だからオレ様も言っただろ?あんなの歓楽街に入らないって。ソウルにはもっとヤバい場所がいくらでもあるんだから!」


 渡世人キムは気安く俺の肩に手の平を乗せてカカッと笑った。飲みつぶれてパスポートごと盗まれた間抜けと一緒にされてはたまらない。


「キムが誘ってきたときノートでひっぱたいてきたヤツがオレより先に歓楽街でお楽しみとはな!オレにも一回殴らせろ」


 エロ白熊はノートを振り上げて追いかけてきた。そのノートを奪うと改めてヤツの後頭部にはたき付けた。酔っぱらって絡んできたのはお前と同郷の香港人ではないか。その後結局エロ白熊とメロンソーダは、渡世人キムの旗振りのもと、近々ノースブリッジに繰り出すことになった。キミもどうだ?と渡世人キムは俺に向き直った。


「もう酔っ払いの相手はゴメンだ。キミたちだけで行ってくれ」


 俺は大袈裟な動きでhave a nice trip!と彼らを見送った。



 そもそも俺は酒が弱い。母は注射のアルコール消毒からしてダメな人で、それが肘を伝って垂れれば、そのままミミズ腫れになるほど重篤なアルコールアレルギーの持ち主である。幸か不幸か、俺はその体質を大いに遺伝しており、体調が万全でない時に飲めば、ものすごい速さで痒みや関節痛が襲ってくる。

 他方親父の系譜には酒飲みが多い。知る限り親父は晩酌を欠かしたことがないし、祖父も肝臓がんという立派な戦死である。分かった時にはすでに手の施しようもなかったらしい。それでもベッドの下に一升瓶を隠しており、もはや家族も看護師も黙認していたという。


<大きくなったら一緒に飲みに行こうな…>


 最後に帰宅となった日、祖父は1歳3カ月の俺を膝の上に抱いて涙をこぼしていたという。それから1か月後のクリスマスイブの夜、祖父は息を引き取った。まだ63であった。

 なぜ酒は人を変えてしまうのか。先日のジョニーの友人がいい例だ。ああいう手合いは、自制できなかった自分について、「目の前に並んだグラスやボトルが悪い」と臆面もなく言う。まずは誘惑の中に夢を見出そうとした自制心のなさを見つめるべきではないか。



「どう?少しは巻きたばこ上手になった?」


 午後のTOEIC講座の合間にアキさんと中庭で灰皿を囲む。彼女はベンチに片膝を立てると、膝の上にシガレットペーパーを乗せ、器用に乾燥した葉っぱとフィルターを巻きはじめた。


「――そういえば、マイク(エロ白熊)が先日街でアキさんを見かけたって言ってましたよ」


 彼女は深々と吸い込むと、夏の太陽に向かって煙を吐いた。


「へぇ。どこで見られちゃったのかな?」

「ビデオ屋だそうです」


 アキさんは「ああ、カレシと一緒だったときね」とあっさり認めた。無修正モノを3本も重ねて口を半開きにしていたエロ白熊のほうがよほどスキャンダルなのだが――。


「カレの地元がパースなの。知り合ったのはアタシが横浜にいた頃だったんだけど、アタシは親とうまくいかなくてね。それでカレにくっついてこっちに来ちゃったってわけ」

「信頼し合っているんですね。おめでとうございます」


 おめでたいかどうかは微妙だけどね、とふと真顔になるとアキさんはタバコをもみ消した。


「そろそろ次の授業が始まるよ。ライティングの授業眠いんだよなぁ~」


 背伸びをした彼女の額には、相変わらず絆創膏が張られていた。

 ヤミーはもともと香港の看護師だった。香港に戻った後、国際医療センターで働くために英語を学びに来たという。スー・ジーは液晶パネルメーカーで経理を担当しており、会社の研修プログラムにわざわざ追加料金を払って、半年間の語学プログラムに参加している。そしてアキさんは、売れないサックスプレイヤーのカレシを支えながらこちらで根を張るためにTOEICを目指している。

 空っぽなのは俺ぐらいだ。そればかりか近頃は酒飲みと同じく誘惑への自制が効かなくなっている。


 アヤコはジョニーが先に好きになった人ではないか――。

 ジョニーがバラの花を携えて彼女の前で膝まづく時、その通訳を引き受けたのは俺だ。それをこの1週間毎日アヤコとメールのやりとりを続けている。とんだ裏切り行為だ。

 そもそも親に約束したTOEIC700点と英検準1級はどうなったのか。アヤコの父親がその業界では有名な広告デザイナーであるとか、家には2匹のポメラニアンがいてとか、そんなやり取りをしている時間があるなら苦手なリーディングの復習をするべきだ。

 「――なぜなら、そこに彼女が現れたからだ」と言い訳するつもりか。

 ところが結局授業が終わると、俺はフラフラと学校のコンピューター室に向かい、アヤコからの新着メールに微笑んだ。

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